戦後、反共の砦として国際政治の流れを創り、「豊かさ」の象徴として先進国の目標とされてきた米国にも少しずつ変化が現れてきました。
1960年代、民主党のケネディ大統領は「ニュー・フロンティア」政策として白人と黒人の経済格差の問題に取り組みました。およそ百年前に実施された奴隷解放以後も黒人に対する社会的差別は止まず、教育や就職による差別によって経済的な格差は広がる一方でした。
ケネディが暗殺されましたが、後を継いだジョンソン大統領も「偉大な社会計画」を掲げて米国社会の改革に取り組みました。キング牧師らの公民権運動も勢いを増し、1964年、人種・性・宗教・出身国による差別を禁止する公民権法が成立しました。
その後、ケネディの暗殺に次いでキング牧師やケネディの弟のジョン・ケネディも暗殺されるなど、米国国内はますます対立を深めていきました。
ヴェトナム戦争は正確には次のような展開を辿りました。
敵地に兵を送り、補給物資を送り続けながら異国で戦争を継続するには、物心両面で多くの犠牲と負担を覚悟しなければなりません。出口の見えない戦争は人びとに厭戦気分を引き超し、やがては反戦運動へと高まっていきます。米国も例外ではありませんでした。
膨大な軍事費によって財政赤字がふくらみ、軍事生産に偏った産業によって米国経済の中心でもあった自動車や電気の分野で米国は日本などとの競争に負け、貿易も赤字になっていきました。
1971年から3年間世界は米国発のショックに襲われました。まず、1971年のそれはドル・ショックと呼ばれています。 米国は自国のドルが基軸通貨の地位にあるため、ドルを使って世界中で経済支援や軍事支援を行ってきました。また、欲しい物は何でも買うことができました。
そのため、流通するドルが多くなりすぎ、実際のドルの価値は下がりますが、世界の通貨とドルと金との交換比率は固定されていますから、実際のドルの価値と固定して決められている名目のドルの価値に差が生じます。当然、人びとは価値が下がり続けている実際のドルを早いうちに手放して、金と交換しておこうと考えます。多くの人がそう考えると、米国の中央銀行の金はどんどん減っていくことになります。
1971年8月、ニクソン大統領は動きました。ドルと金との交換を停止してしまったのです。自由貿易を促進するために戦後導入された固定相場制がここに崩壊したことになります。これが1971年のニクソン・ショックのあらましです。
ドルを使いすぎて信用をなくした米国(貿易赤字)、戦争で税金を使いすぎた米政府(財政赤字)。双子の赤字に苦しむニクソン米大統領。敗戦が色濃いヴェトナム戦争。ここで米国がシッポを巻いて逃げ出したら、米国は西側のリーダーの地位を失いかねない。「ヴェトナムからカッコつけて撤退したい。」ニクソン米大統領は追いつめられていました。
それを助けてこの難局を乗りきる作戦を考えたのがキッシンジャー補佐官でした。彼はチベット問題でインドと対立し、中ソ論争でソ連と対立している中国に注目します。孤立している中国との国交を回復し、経済不振で苦しんでいるソ連と歩み寄れれば、ヴェトナムから「名誉ある撤退」ができるかもしれないと考えたのです。
米国の中産階級の生活は先進国の人びとにとって憧れでもありました。実はその「豊かな生活」は安い石油によって支えられていたのでした。極論すれば、西ドイツや日本の経済成長も安い石油のおかげで達成できたようなものでした。
その石油の価格が第四次中東戦争の結果、一度に高騰してしまいました。価格が高騰しただけでなく、石油そのものが手に入らなくなってしまいました。
日本でも市民生活に大きな混乱がおき、原油の備蓄、産業や社会の省エネ化、アラブ重視の外交など大きく政策の転換が必要になり、これを機会に高度経済成長の時代は終わりを向かえることになりました。