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1956年〜1975年:2

(23) 「平和共存」時代の東西関係

平和共存の時代に、東西のそれぞれの陣営ではどんな動きが見られましたか。

平和共存の意味

「平和共存」とは言っても、それは米国とソ連にとって互いの立場を侵さない範囲の「共存」でした。つまり「平和共存」路線は「現状維持」路線のことだったのです。少しでも相手の立場に影響を及ぼすようなことがあれば、直ちに全面戦争に発展しかねない「平和」でした。こんなことがいつまで続けられるのでしょう。

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雪解け

フルシチョフのスターリン批判を前後して、冷戦の間に懸案になっていた問題が次々と解決されていきました。1955年、オーストリアを占領管理していた米英仏ソの四カ国軍が撤退し、オーストリアの独立が承認され、ソ連が西ドイツと国交を結びました。

また首脳外交も活発になりジュネーヴ四巨頭会談(米英仏ソ)、1959年にはフルシチョフが米国を訪問し、アイゼンハウワーと会談したりしました。1956年、日本とソ連の国交が回復し、日本の国連加盟が許されたのもこうした時代の動きの中でのことでした。  急速に何かが変わろうとしていました。

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東欧の動乱

スターリン批判を受けて、ポーランドやハンガリーではソ連からの自立を目指す動きが始まりました。しかし、東側世界に君臨するソ連の存在を脅かすような動きは弾圧されることになりました。特にハンガリー動乱ではソ連の軍隊が出動し、指導者ナジは処刑されました。

また、西側の世界に憧れる人が西ベルリンに逃げ込む動きが止まらなくなっていました。東ドイツ政府は東西ベルリンの間に巨大な壁(ベルリンの壁)を作ってこれを防止しました。(1989年に破壊されたのはこの壁のことです。)

「平和共存」とは米ソの現行の秩序を壊さない範囲での共存でした。>

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戦後の中南米

中南米では古くから広大な領地を支配する農場主が、貧しい農民達を働かせて利益を吸い上げる大土地所有制が発達していました。戦後はこうした社会を改革しようとする動きもありましたが、米国の資本は大農場主と手を組んで利益を上げていましたから、民主化の動きを抑制していました。

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キューバ危機

1959年キューバ革命でバティスタ親米政権がカストロ達によって倒され、米国系企業を国有化したりしたため、米国はキューバからの砂糖輸入を禁じました。追いつめられてキューバはソ連に助けを求め、フルシチョフ首相はキューバに核ミサイルを配備しようとしました。これに気づいた米大統領ケネディーは海上封鎖で対抗しました。あわや核戦争かというところまで進んだキューバ危機でしたが、最後はフルシチョフが妥協して、ミサイルはキューバから撤去されました。

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フルシチョフからブレジネフ

 雪解けの時代の扉を開けたフルシチョフでしたが、キューバ危機での敗北や農業不振の責任をとって、1964年ソ連は書記長がブレジネフに変わりました。しかし、経済不振は続き、品不足で人びとは長い列に並んでしか買い物ができなくなっていきました。計画経済の非効率さが目立ってきました。

1968年、チェコスロヴァキアでは政治的自由を求める機運が高まりましたが、ワルシャワ条約軍が出動して、「プラハの春」と呼ばれたこの動きは弾圧されてしまいました。また、東側の国々ではソ連中心の経済運営にも不満が出るようになっていました。

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デタント

1960年代から70年代にかけて、デタント(緊張緩和)と呼ばれる時代がありました。 経済不振に悩むソ連は米国との間で、戦略ミサイル(大陸弾道弾などで攻撃するミサイル)の数量を削減する交渉を始め、1972年第一次戦略兵器制限交渉(SALTT)を、1979年にはSALTUという形で合意が成立しました。

また、西ドイツのブラントは東側との関係改善がドイツの発展に欠かせないと考え、第二次世界大戦におけるドイツの戦争責任を認め謝罪しました。さらに、武力不行使協定をソ連との間い結び、ポーランドとの国交正常化を行い、東西ドイツが互いに承認し合い、1973年国連加盟を果たしました。ブラント政権のこのような外交は「東方外交」と呼ばれています。

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影響力を失うヨーロッパ

二度の世界大戦の戦場となり、その繁栄の源であった植民地を次々と失ったヨーロッパは、この時代をどのようにくぐり抜けることができたのでしょうか。米国とソ連の力が増す中、政治的にも経済的にもヨーロッパがその力を維持するためには、力を合わせるしかなかありませんでした。

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ヨーロッパ共同体

その動きはまず、仏・独・伊・ベネルクス三国で始まりました。50年代、これらの国々はヨーロッパ経済共同体(EEC)を構成し、石炭・鉄鋼・原子力について資源と市場を共同で管理し、共同体内では自由に貿易ができるようにし、共同体外に対しては共通の関税を設定するようにしたのです。これにより経済は発展し、1967年政治的な統合にも配慮したヨーロッパ共同体(EC)に発展しました。

西ドイツとフランスはそれぞれアデナウアー政権、ド・ゴール政権の時代にはこの共同体により大きく経済発展しましたが、共同体に参加しなかったイギリスは大きな経済発展を遂げることはできませんでした。

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