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1956年〜1975年:1

(22) 緊張が続く東アジア

戦後の東アジアで、日本だけが急速に経済成長できたのは何故ですか。

日米安保条約

朝鮮戦争の時、米軍は必要な資材を日本で調達しましたから、戦災の中から立ち直れないでいた日本経済は、この「朝鮮特需」によって復活しました。また、日本はこの時、憲法9条で戦争放棄したにもかかわらず、軍隊を再建し始めました。自衛隊です。

「日米安保条約」は10年後に見直すことになっていました。1960年、このことをめぐって国論を二分する事態になりました。「米国に協力しながら豊かな日本を作っていきましょう。」という賛成派と「いつまで米国に頼るのは止めよう。憲法の理念にもとづく平和な民主主義の国をつくろう。」という反対派の対立となりました。結局、「日米安保条約」は改定され継続されることになりました。

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日本の高度経済成長 

1960年に改訂された「新日米安保条約」は、米軍が日本を含む極東の安全を守るだけでなく、日本と米国は経済など総合的に互いに助け合っていこうという内容でした。この頃から日本はエネルギーを石油に依存した重化学工業に力をいれ、全国の海岸線に石油コンビナートが建設されました。高速道路・新幹線も建設され、日本人の生活は急速に豊かになっていきました。

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経済成長の弊害

日本の急速な高度経済成長は「奇跡」と呼ばれたほどでしたが、一方で各地で環境破壊が進み、深刻な被害をもたらしました。この経済成長は農業など第一次産業を犠牲にして進められましたから、社会のさまざまなところでその歪みが発生しました。そして、1970年代日本は大きく転換を求められるようになりました。

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中ソ論争

国民党との内戦に勝ち、1949年に成立した中華人民共和国の前途は多難でした。近代化を進めるためのインフラ(道路・電気・通信など)や人材が余りにも乏しかったからです。しかも社会主義を目指していましたから西側からは援助は受けられませんでした。

さらに、ソ連のフルシチョフ首相が「平和共存」路線を提唱し、社会主義と資本主義は共存していこうということになりましたが、中国は米国に支援された台湾の中華民国とは対立しています。平和共存なんてできるわけがありません。(この時、中華民国が中国の代表で国連の五大国の一国でした。)

中国は「スターリン批判」「平和共存路線」をめぐってソ連と激しく対立するようになり、中国とソ連の関係は冷めてしまいました。

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中国の社会主義

新・中国は国内的にも国際的にも厳しい環境で出発しました。国家主席の毛沢東は農民による自給自足体制から出発しようと考えました。「人民公社」と呼ばれる組織を各地につくり、それを産業と行政の単位にし、そこでの助け合いによって近代化を図ろうと考えたのです。

この政策は「大躍進」と呼ばれましたが、それは一部の成功例が大げさに中央に報告されていただけで、実際には大失敗でした。未熟な技術によって生産された鉄や工業製品は粗悪品ばかりで、農業生産も激減し、多くの農民が餓死しました。

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プロレタリア文化大革命

「大躍進」の失敗から立ちなおるために、劉少奇らは安定した社会主義化を目指します。しかし、毛沢東は軍に力のある林彪等と組んで、プロレタリア文化大革命をおこしました。知識人や共産党の指導層は「走資派(資本主義に走った人たち)」と批判され、社会的立場から追放されたりしました。この運動を支えたのは毛沢東に心酔する十代から二十代の若者達でした。彼らは学校へも行くことなく、地方や農村に送られ、青春の時を革命のためにすごしました。

これにより、中国の人材や社会的基盤や文化遺産も破壊され大きな社会的損失を出しましたが、一方で農村に新しい文化をもたらし、それは社隊工業・郷鎮企業という形となって地方に新しい産業をもたらすことになっていきました。

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