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1945年〜1956年:5

(20) 冷    戦

反ファシズムの下に共に戦った米ソ両国は、戦後なぜ対立しなければならなかったのでしょう。
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鉄のカーテン

ドイツや日本が支配していた地域が解放されれば、そこには新しい政権が生まれます。占領国は、新しい政権の成立に影響を与えることは可能です。ソ連の軍隊が占領していれば、そこに社会主義の政権が生まれる可能性は高くなります。事実、東ヨーロッパや北朝鮮はそうなりました。

また、戦災に苦しむ国々でも共産党の勢力が勢力を伸ばすことは容易に想像できます。事実、イタリア、フランス、ギリシア、トルコではそのような傾向がありました。つまり戦争末期から戦後にかけて世界には革命的状況が生まれていたわけです。

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鉄のカーテン

チェコスロヴァキアのクーデターによって共産党政権が生まれると、次はギリシア・トルコ・ドイツで政変が起きる可能性は高まっていました。チャーチルは「今、ヨーロッパの東に鉄のカーテンが下りようとしている。」とこの状況を演説で指摘しました。

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トルーマン・ドクトリン

1947年米大統領トルーマンはトルーマン・ドクトリンを発表し、ソ連を封じ込める政策を積極的に展開することにしました。具体的には米国の資金力で戦災に苦しむ国を支援して、人びとの生活を安定させていこうという考え方です。戦災国にはガリオア・エロア資金による支援が、ヨーロッパにはマーシャル・プランによる援助が行われました。

要約すれば、ソ連が軍事力・政治力でくるなら、米国は経済力で対抗しようと言うことです。勿論これにはこの段階で米国が核兵器を独占しているという軍事的優位さが背景となっていたことは言うまでもありません。

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ベルリン封鎖

1948年、東西の緊張が高まるなか、ベルリンで問題がおきました。ドイツは米英仏ソの四カ国で分割占領されていました。そのうち米英仏で占領する地域で貨幣改革が強行されました。この地域を西側の一員にしようとするこの政策にソ連は強く反発して、西ベルリンへの物資の輸送を陸路について禁止してしまいました。四カ国で占領されていたベルリンはソ連が占領する地域にあり、その西側を米英仏で占領していたのです。つまり西ベルリンだけがソ連の占領下で島のように孤立してしまったのです。

米国は腹をくくってこれに対抗しました。西ベルリンまで生活物資を飛行機で運ぶことにしたのです。小麦、肉、医薬品からトイレットペーパーまでさまざま物資が昼夜運ばれ続けました。やがてソ連に対する国際的な批判も高まり、1949年ソ連は封鎖を解きました。

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スターリン批判

1953年、スターリンが死去しました。長い間、独裁的な地位にあり、批判する者を許さなかった孤独な政治家が世を去ったのです。しかし、彼を正面から批判し歴史の流れを変えるのに3年の年月が必要でした。後を継いだフルシチョフ首相は、スターリンの時代の個人崇拝、大量粛清、東欧諸国への干渉を批判しました。歴史が動き始めました。

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冷戦

下の年表は冷戦下で行われた米ソの核兵器に関する開発競争の過程です。

原爆では米国が先手を一歩先を行っていますが、水爆とそれを運ぶミサイルはソ連が先行しました。冷戦と呼ばれた時代はまさに米ソは核兵器開発競争を繰り広げていたのです。勿論その後も、精度を上げながら高度な開発競争が続きましたが、両国が「熱い」戦争を戦うことができなかった事情がよく分かります。

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冷戦の意味

この間、米国は戦争中に蓄積された財力を支援という形で世界中にばらまき、米国中心の経済体制を完成させて行きました。また、ソ連はスターリン個人に集中してしまった権力を社会主義圏にまで拡散させながら、スターリンの死によって、一気に減圧してしまったのでした。

第二次世界大戦直後、米国は有り余る経済力に苦慮し、ソ連は肥大してしまったスターリンの権力の使い道に苦しんでいたのです。しかし、冷戦体制はそれらを少しずつ解消していったのでした。

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