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1945年〜1956年:3

(18) 複雑になった日本の講和条約

第二次世界大戦が終わって70年近く経つのに、大戦の影響が未だに続き、東アジアは世界でも一番不安定な政治状況にあります。どうしてこんなことになっているのでしょうか。
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米国・占領政策の変化

一時的とはいえ朝鮮半島がすべて社会主義政権下に置かれかかったことは米国にとっては脅威でした。そのようなことになれば日本だけが極東における米国の拠点となるわけですから、米国は日本との関係を緊密にしておこうと考えるのは当然です。

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サンフランシスコ平和条約
と日米安保条約

1951年、朝鮮戦争の最中、サンフランシスコで講和会議を開き、日本の独立を支援する51カ国だけで平和条約が結ばれました。そのあと、場所を米軍基地に移して日米代表は日米安全保障条約に調印しました。これで、米軍は占領軍の一員としてではなく、同盟軍として日本に堂々と駐留することになりました。

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遅れた近隣諸国との講和

当然のことですが、日本の近隣諸国をはじめこの時平和条約に調印しなかった国々とは個別に交渉し、講和しなければなりませんでした。日華平和条約(1952年)、日ソ共同宣言(1956年)。日韓基本条約(1965年)。日中共同声明(1972年)。このようにして近隣諸国とは国交を回復しましたが、北朝鮮とはまだ国交を回復できないでいます。

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日ソ共同宣言と国連加盟

1953年スターリンが死去し、後を継いだフルシチョフ首相は1956年スターリンの国際政治を批判しました。これは戦後世界の流れを大きくかえる事件でした。東アジアでも戦後の緊張が緩み、日本はソ連と国交を回復し、国連への加盟も認められました。

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