1945年5月にドイツが降伏してからは日本だけが連合国軍と戦っていました。7月、ドイツのポツダムで開かれた会談で日本の非軍事化が確認され、日本占領に際して、ソ連も日ソ中立条約を破棄して対日参戦することが決まりました。
4月以来、米国は沖縄上陸作戦で多くの犠牲者を出していましたので、ソ連の協力を要請する形になったのでしたが、この会談中に米国の原子爆弾の実験が成功した知らせが入ります。米国はあくまでも日本占領の主導権をとりたかったのです。7月末、ポツダム宣言の受諾を要求しましたが、日本はこれを黙殺してしまったのでした。
無条件降伏をしない日本に対して、米国は8月6日・9日と相継いで広島・長崎に原爆を投下しました。参戦の機を計っていたソ連も満州国境を越えて南下してきました。満州の日本人移住者たちは満州に取り残されることになってしまいました。このように日本国民は凄惨な状態で敗戦を迎えることになったのでした。
米軍は連合軍の一員として日本の占領を担当しましたが、当然、米国の外交政策を遂行するためにも駐留していました。これが一致しているうちは占領は混乱もなく順調に進んでいました。日本の非軍国主義化のために戦争犯罪人は逮捕され、収容されていた政治犯は解放され、軍国主義政策に協力した者は公職から追放されました。軍隊や財閥は解体され、不在地主は農地を手放しました。これらの改革は戦後の日本の民主化と経済復興に大きく貢献しました。
新しい日本のあり方を定める憲法の草案作りが始まっていました。米国は日本の占領政策を平穏に進めてその後の日米関係を良好に保つためにも、天皇の戦争責任を追及することを避け、憲法にも象徴天皇制という形で天皇制を残しました。
しかし、これに反対する意見にも配慮して憲法9条に戦争放棄の条項を入れ、その補償としました。日本の保守派はこれに反発しましたが、最後にはGHQの命令に等しい形で1947年、日本国憲法は成立しました。