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1930年〜1945年:5

(15)第二次世界大戦

第二次世界大戦で犠牲(軍人・民間人)になった人びとは同盟側・連合側合わせて約5000万人です。1939年9月1日から1945年8月15日までは2176日です。犠牲者を総日数で割ると一日あたり4914人、一時間あたり205人、一分あたり3人が犠牲になったことになります。
第一次世界大戦の犠牲者と比べると、第二次世界大戦がいかに狂気を孕んだ戦争であったかがわかります。特に爆撃機による空襲や原子爆弾の使用によって民間人をまきこみ、被害は拡大しました。

どうしてこんなことになってしまったのでしょう。

ナチズムへの疑問

ヒトラーの病とも言えるユダヤ人攻撃やナルシズムの影の濃いアーリア民族崇拝。このような幼稚とも言える思想をなぜ人々は支持したのでしょうか。集団ヒステリー状態にあったドイツ人ではなく、イギリスやフランスの指導者達はどのようにそれを見ていたのでしょう。

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ミュンヘン会談

「この醜悪な思想でもソ連の社会主義への牽制としては有効だ。旨くいけば共倒れしてくれるかもしれない。」という打算が当時の指導者達にはあったのではないでしょうか。

ミュンヘン会談で、ドイツがチェコスロヴァキアのズデーデン地方を併合してしまったことを、イギリスとフランスの代表は同意してしまったのは、それを期待していたからとしか考えられません。彼らはヒトラーとの戦争を避け続けたのです。

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独ソ不可侵条約

ヒトラーの侵略を許したもう一人がスターリンです。1939年8月、ドイツとソ連の間に独ソ不可侵条約が締結されました。ミュンヘン会議の時、フランスもイギリスもスターリンがヒトラーと手を結んでポーランドを分割して領有し、バルト三国からフィンランドまで侵略するとは考えていませんでした。ソ連型社会主義を嫌悪してきたヒトラーとスターリンはどうして手を結んだのでしょう。スターリンにとってヒトラーこそ公然の敵だったはずです。

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スターリンの真実

その答えの一つは「だからこそ」です。第一の敵だったからこそ手を結び、その矛先をフランスやイギリスに向けさした、と考えることできないでしょうか。

もう一つの答えは、スターリンは社会主義の理想をソ連に実現しようとは考えていなかったということです。ただただ、偉大な祖国ロシアに君臨したかっただけと考えられないでしょうか。領土が広がることも魅力ではありましたが、たとえドイツと戦うことになっても、祖国防衛戦争を戦い抜いた偉大な愛国者になるためだったら、進んでそれを望んだかもしれません。

そして事実、スターリンは祖国防衛の愛国者として長く君臨することになったのです。ただ第二次世界大戦において際だって多くの犠牲者を出した国の指導者としてでしたが。

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第二次世界大戦

1939年9月1日、ドイツとイギリス・フランス間で始まった第二次世界大戦は実は複雑な展開をたどり、1945年8月15日に終了したのです。それは大きく言って三つの時期に区分できます。

  1. 1939年9月1日〜
    独・伊 vs 英・仏
    ドイツのポーランド侵入に抗議してイギリスが参戦し、ドイツにより侵入されたベルギー・フランスへ防衛戦
  2. 1940年6月〜
    独 vs ソ連
    ヨーロッパの大陸部をほぼ占領したヒトラーはソ連に攻撃を仕掛けた。
  3. 1941年12月8日〜1945年8月15日
    日 vs 米・英・仏・蘭
    ソ連は1945年8月9日日ソ中立条約を破棄し日本に宣戦

第三期に至り米国が参戦することによって、第二次世界大戦は、民主主義を全体主義から守る米国の戦いという性格を帯びるようになりますが、ソ連も全体主義であり、米国はそれを拒否しているのですから、第二次世界大戦は煮え切らない戦争でした。もっと単純化すると、米国にとってはドイツから米国を守る戦いだったのかもしれません。

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米国にとっての戦争

米国は第二次世界大戦を自由と民主主義を守る戦いにしたかったと思います。そのために国際連合という形で第二次世界大戦における連合国側の協力体制を維持しようと考え、国連という外交の舞台を準備したのではないでしょうか。

F・ローズヴェルトは「四つの自由」という演説の中で、人間として譲ることのできない根源的な自由として、「恐怖からの自由」をあげています。おそらく彼は第二次世界大戦をそうした自由を守る戦いにしたかったのではないでしょうか。

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