1939年、日本にとって大きな節目がやってきました。満州・モンゴル国境でソ連・モンゴル連合軍に日本軍が大敗したのです。1936年、日独伊防共協定を結んだ日本はこの時まで、対ソ戦争を選択肢として残していたのですが、このノモンハン事件によって日本の矛先は南方へと向かっていったのでした。
1940年1月、日米通商航海条約が失効し、日米間には何も条約が存在しない状態になりました。9月、日本はベトナム北部に侵入し、日独伊三国同盟を締結します。これに対し米国も戦略物資の対日輸出制限を拡大するなどの対抗措置をとります。
1941年7月、日本がベトナム南部に侵入すると、米国は在米日本資産を凍結し、石油の対日輸出を全面禁止にしました。そのため、日本の軍部には開戦強行論が高まり、9月の御前会議で対米英開戦の方針が決定されました。
日米交渉に行き詰まった近衛内閣は総辞職し、10月には東条英機内閣が成立しました。米国務長官ハルは日本に対して、「いっさいの国家の領土と主権の不可侵・内政不干渉・通商上の機会の平等・中国とインドシナからの日本の軍隊の全面撤退・重慶の中華民国国民政府以外の政府もしくは政権の否認・日独伊三国同盟の否認」を要求していました。
東条英機内閣と軍部は、これを対日最後通牒とみなして、12月1日の御前会議で12月8日の太平洋戦争開戦を決定したのでした。
この時、日本が米国相手に戦争をしても勝ち目のないことは、日本の指導者は十分理解していました。しかし、この10年来、日本が一方的に進めてきた中国侵略をやめ、いまさら米国の要求の応じようと提案できる指導者は一人もいませんでした。これまでの無計画な中国侵略に対して国民の支持を盛り上げるだけ盛り上げてきたのは、他ならぬ、指導者本人達だったからです。引くに引けなくなっていたのです。
国力が余りにも違いすぎる米国に勝つには、日本は早期結着しかありませんでした。ですから戦争の初期には西太平洋・ニューギニア・東南アジアまで日本は占領を完了していました。
しかし、米国は、大きな軍艦に巨砲を積んだ日本の古い作戦の弱点を見抜き、航空母艦を建造し、飛行機によって空から日本の軍艦を攻撃しました。1942年6月、ミッドウェー海戦で日本軍が壊滅すると、制海権を失った日本軍は補給路を確保できず、次々と敗北を重ねていき、1945年6月沖縄戦の敗北によって日本は制海権を完全に失うことになりました。日本軍の作戦はすべて失敗に終わりました。
満州事変(1931年)、日中戦争(1937年)、太平洋戦争(1941年)。この無謀な戦争の展開がどのような国際環境のなかで展開されたのか、それが次の課題です。