1931年から1945年。この15年間日本は中国との戦争に明け暮れていました。15戦争です。ことの始まりはこんなふうでした。
1931年、満州に駐留した日本の関東軍は中国東北部の柳条湖で列車を自ら爆発させ、それを理由に全満州を占領し、満州国を建国したのです。
この乱暴なやり方は、1929年から始まった世界恐慌による不況がいかに深刻なものだったとしても乱暴すぎました。国際連盟より派遣されたリットン調査団が「満州国は日本のあやつり人形に等しい」と結論づけたのも当然でした。日本はこれに対して、1933年国際連盟を脱退し、孤立化の道を進んでいくことになりました。すべてはここから始まったのです。
中国国民党は日本軍の侵略と戦うことより、共産党の弾圧と国内統一を優先させていました。1931年、窮地に追いこまれた共産党は、瑞金に臨時政府を樹立させましたが、蒋介石に攻撃された毛沢東は、共産党軍を率いて延安まで12500qにおよぶ大移動を成功させます。この過程で中国共産党における毛沢東の主導権が確立しました。
1936年、日本はドイツと日独防共協定を結びソ連と対峙しながら、1937年には北京郊外の盧溝橋での軍事訓練をきっかけにして、中国と戦争を始めました。日本は両面作戦とも言える不利な状態になぜ突入していったのでしょうか。中国の力を甘く見て、腕試しくらいの気持ちから日中戦争を始めてしまったのでしょうか。この後、中国との泥沼のような戦争にのめり込んでいく日本の危うさがこの頃、すでに如実になっていました。
15年にわたる日本と中国との戦争の大きな分かれ目は西安事件でした。1936年、コミンテルンの指導で中国共産党は「八・一宣言」を出して、国民政府に「共に日本軍と戦おう。」と抗日統一戦線を呼びかけていました。
しかし、蒋介石は張学良を送って毛沢東を討つよう命じました。父親の張作霖を日本軍に爆殺されていた彼は、蒋介石に「八・一宣言」に応じるよう命を懸けて迫り、これを認めさせました。ここに第二次国共合作が成立したのでした。中国の反撃がここから始まりました。
日本軍は抗日統一戦線が成立しても南下を続け、対中国戦争の泥沼を突き進んでいきました。1937年には南京では民間人を含む大規模な犠牲者を出し、武漢、重慶へと国民政府を追いつめて行きましたが、日本軍が占領できたのは都市部だけでした。農村部では共産党のゲリラに悩まされ、国民党は東南アジア経由で米・英・ソの支援を得ていました。日中戦争は長期化の様相を帯び始めていました。