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世界史・納得のツボ(現代編)
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1910年〜1930年:5

(9)経済の大国・米国と政治の大国・ソ連

第一次世界大戦が終わると米国とソ連にはそれぞれ、20世紀を象徴する二つの潮流が生まれていました。その二つの潮流の共通点と相違点をあげなさい。

大量生産・大量消費

戦争が終わったら米国は世界最大の債権国になっていました。戦場となったヨーロッパに向けて米国は大量の生産物を届け続けましたから、戦後は過剰投資の状態になっていました。今度はその工場から多量の商品が社会に溢れます。大量生産方式の工場から同じ品物が大量に生産されるようになっていましたから、物価が下落し、たとえば労働者でも乗用車を買うことができるようになりました。フォード社は米国の労働者でも手が届く価格で大衆車フォードT型を発売しました。

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大衆文化

自動車に限らず、米国ではラジオ放送が始まり、ディズニー映画が上映され、プロ野球の試合が人々の話題になっていました。現在の私たちが楽しんでいる大衆文化はこの時代の米国から世界に広まっていきました。

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大衆政治

1917年、ロシアで起きた社会主義革命は労働者や農民が革命によって政権を奪ったという意味でも世界史で初めてのことでした。この出来事はロシアのみならず世界各国の労働者や農民にとって大きな希望となりました。

また、大戦中戦争に出かけて戦った庶民、戦場に行ってしまった男性の労働力を補って社会進出を果たした女性達は戦後になると選挙権を得て、発言力を増し、政治に大きな影響を与えるようになりました。社会党の政権が生まれたり、労働運動や農民運動も活発に行われるようになりました。政府もそうした大衆を無視して政治を行うことはできなくなりました。このような大衆政治を実現させたのも第一次世界大戦でした。

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対ソ干渉戦争

長く続いた帝政下で資本主義経済の発展が著しく遅れたロシアだったからこそ、労働者や農民達は自らの政権を樹立し、自分たちの国をつくろうとすることができたのでした。

革命が差し迫っているわけではない他の先進国にとっても、ロシア革命は脅威でした。それは自国に飛び火する前にたたきつぶしておかなければならない火だねでした。ソ連国内でロシア革命に反対する人びとを支援するために米・英・仏・日などの国々は軍隊を送ってロシア革命に干渉しました。結果的にはこれらは失敗したのですが、ソ連側にとってはそれは重い負担となりました。

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戦時共産主義とネップ

革命を防衛するためには戦争を優先させなければならないのですが、その革命は第一次世界大戦下で苦しんだからこそ起きたのでしたから、その革命を守るために再び戦争をするのは大きな自己矛盾でした。

戦争を優先する戦時共産主義という体制がとられ、多くの農民がその犠牲となって餓死しました。対ソ干渉戦争に勝利すると、レーニンはネップ(新経済政策)を行いました。限定付きで商品生産を許可したのです。これにより生産は革命前の水準に戻ることができたのでした。

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スターリン独裁

このように革命は前途多難でした。そうした中、指導者レーニンが病死し、残されたトロツキーやスターリンは革命戦略をめぐって激しく対立するようになりました。トロツキーは世界中から資本主義を一掃しない限り社会主義を実現するのは無理だと主張し、スターリンはまずソ連だけで社会主義を実現すべきだと主張しました。論争は深刻になり、対立は決定的になりました。スターリンは次々と政敵を追放し、独裁体制を敷いていきました。多くの政敵が処刑され、おびただしい数の人びとが流刑地に流されました。

権力闘争に勝利したスターリンは1927年、第一次五カ年計画を推進し、重工業優先の政策を断行しました。同時に進められた農業の集団化政策により、ここでも多くの農民が犠牲になりました。

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