第一次世界大戦が終わると世界経済の中心はイギリスからアメリカへ移っていました。パクス・ブリタニーカの時代からパクス・アメリカーナの時代へリーダー達はどのようにそれを切り替えていったのでしょうか。
米大統領ウィルソンの「14カ条の平和原則」まさにアメリカ中心の戦後世界構想でした。「平和原則」の内容を分類すると、次の4つの柱でできています。
よく見ると、ドイツのことが一つも書かれていません。ここに盲点がありました。イギリスもフランスも、徹底的にドイツへの報復一点張りで突っ走ってしましました。領土の縮小、軍備の徹底的縮小、莫大な賠償金。ヴェルサイユ条約とはそうした条約でした。
第一次世界大戦を挟んだ十年の間にユーラシア大陸からは伝統的な大帝国はすべて消え去りました。大帝国は多民族を支配していましたから、多くの民族がその中から現れ、それぞれが自分の国を持とうとしました。ここに「民族自決」という言葉が使われ出した歴史的な背景がありました。
パリ会議のキーワードとなった「民族自決」の原則が適用されたのは結局、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあった民族だけでした。それはちょうどソ連の西側に縦に並びヨーロッパとソ連の緩衝地域にあたっていました。つまりパリ会議での「民族自決」とは対ソ連対策の別名を超えることはできませんでした。
オスマン帝国は途中紆余曲折はありましたが600年余り続きました。寛容な宗教政策で多民族を帝国に抱え込んできたのです。繁栄したアジアの大帝国の多くが寛容な宗教政策を政策をとってきました。
同盟側で参戦したオスマン帝国は英・仏・伊三国により分割され、ギリシアがバルカン半島の一部に残った領土とアナトリア半島の領土を狙って侵入してきました。
この時、ケマル・パシャらが中心となってギリシア軍を撃退し、カリフを廃位させオスマン帝国は消滅しました。ケマルは政教分離の原則で国づくりを進めヨーロッパ型の近代国家を目指しました。
19世紀、衰退するオスマン帝国からエジプト・ギリシア・スラブ系諸国が独立しました。そしてオスマン帝国の解体からトルコ人とアラブ人の国が生まれました。アラブ人の国が誕生するにあたってパレスチナ問題とクルド人問題が新たに生まれ、現在もそれにより多くの人びとが苦しみ続けています。
第一次世界大戦中、いかにイギリスは苦しい状況にあったかがよくわかりますが、イギリスは戦勝後の独立を代償にアラブ人にオスマン帝国への攻撃を依頼します(フサイン・マクマホン協定)。
一方でユダヤ人からは戦費を調達するためにパレスチナの地でのユダヤ人国家の建設を認めました(バルフォア宣言)。
しかし実際はロシアとフランスとの間で交わされていた秘密協定(サイクス・ピコ協定)により、フランスとイギリスが統治することになりました。
約束どおり、ユダヤ人はパレスチナに建国するようになりますから、そこに住んできたアラブ人は土地を失い難民化します。アラブ人とユダヤ人の長い戦いは今も続いています。
また、トルコ人とアラブ人の狭間にあって、自分たちの国家を持てなかったのがクルド人です。彼らは現在もトルコ人とアラブ人から迫害されながら自分たちの国を持つために戦い続けています。
多民族国家が解体し、複雑に混じって住む多民族が独立する時、新しい国はどこに・誰のために・どんな国家を建国したらいいのか、独立闘争は誰が誰のために戦われるべきなのか、アジアの独立運動にはいつもそんな悩みがついて回りました。
インドではムスリムとヒンディーが独立のあり方をめぐって争いました。そのために独立運動の指導者ガンディーは暗殺されました。多数の民族が複雑に住み分けている東南アジアではそもそも国家というまとまりがまだ形成されていませんでした。