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世界史・納得のツボ(現代編)
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1910年〜1930年:1

(6)日本の侵略と米国の外交

不平等条約が改正できたのに、どうして日本は朝鮮や中国への侵略を続けたのでしょうか。
このような日本に対して米国はどのような外交を展開しましたか。

不平等条約の改正

不平等条約の改正の取り組みと日本の朝鮮・中国侵略とが並行して進んでいく様子が年表からよく読み取ることができます。この間、日本は大国である清国とロシアを破り、国際政治の世界においてその地位を高めました。

しかし、その代償として失ったものは決して小さくありませんでした。日本は隣国の信頼を失い、中国や朝鮮は自立へのエネルギーを得ました。

中国の革命

1905年、孫文等が東京で結成した中国同盟会はその後勢力を伸ばしていきました。中国では日本の近代化の成果に刺激されて、国のあり方から改革する機運も現れましたが、実現することはありませんでした。

清朝政府は鉄道を国有化し、それを担保に外国から借金をしようとしたため、1911年、それに反発して四川省で暴動が起き、鎮圧のために軍隊が移動し始めると、各省で軍隊が清朝からの独立を宣言しました。これを辛亥革命と言います。

孫文は東京から中国に帰り臨時大総統に付くと、1912年中華民国を宣言しました。しかし、事態の収拾のため、清朝を裏切った元高官の袁世凱と取引をし、政権を奪われてしまいました。独裁をめざした袁世凱のもくろみは実現しませんでしたが、中国はその後各地に割拠する軍閥の支配下におかれていくことになりました。

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東アジアの第一次世界大戦

そんな折り、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発します。日本は日英同盟の立場から対同盟軍の一翼を担い、主に中国と南太平洋のドイツ領を攻撃しこれを支配下におきました。さらに日本は袁世凱政府に対して21カ条の要求を突きつけ受け入れさせました。

中国の主権を侵すに等しいその内容に多くの中国人は怒り、それが反日の動きの原点となっていきました。第一次世界大戦の講和会議が行われたパリに、中国は代表を派遣して日本の21カ条要求の無効を訴えましたが、聞き入れられず、日本の中国侵略の行為は既成事実となっていきました。

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五・四運動と三・一運動

パリ会議で抗議が受けいれられなかった中国では、1919年5月4日北京大学の学生達が中心となって抗議行動が展開されました(五・四運動)。この動きの中に、1921年中国共産党を結成する胡適らもいました。また、孫文らも体勢を立て直し、1919年中国国民党を結成して新中国の建設をめざしました。

1910年日本に併合された朝鮮では、日本の厳しい支配に反対する集会が1919年3月1日ソウルのパゴダ公園で開かれました(三・一運動)。これは日本軍により弾圧されましたが、この事件は長く続くことになる抗日運動の原点となっていきました。

今では3月1日と5月4日はそれぞれが韓国と中国では国民の記念日となっています。