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1870年〜1910年:4

(4)ドイツの世界政策がポイント

19世紀は海のイギリスと陸のロシアが対立していました。20世紀はイギリスにロシアが挑戦する構造でした。ロシアの敗北が決定的になると、ドイツが台頭し、イギリスに挑戦します。
それはドイツの「世界政策」によって始まりました。欧米列強の国際関係はどう変わったのでしょうか。

フランス孤立化政策
と三国同盟

第二次産業革命で急速に力をつけてきたのがドイツでした。ヨーロッパではこのドイツの躍進を中心に国際関係が変動をはじめ、やがてイギリスとドイツの対決という形に進んで行きました。その経過を整理してみます。

1871年
プロイセンの宰相ビスマルクは周到な準備の末、フランスを負かしこの年、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の建国式典を行いました。
1873年
フランスの報復を恐れたビスマルクは、フランスとロシアが手を組んでドイツを両方から攻撃することのないように、ロシアをドイツに惹きつけておこうと考え、ドイツ・ロシア・オーストリアの間で三帝同盟を結びました。
しかし、ロシアとオーストリアはオスマン帝国の領土をめぐって対立していましたから、三国の関係は発展していきませんでした。
1882年
三帝同盟が意味をなさなくなると、ビスマルクはドイツ・イタリア・オーストリアで三国同盟を結びました。
1887年
三帝同盟が消滅すると、ビスマルクはロシアと再保障条約を結び、どちらかの国が第三国と戦争になったときは中立を守ることを約束しました。
1891年
ドイツ帝国建国の父ヴィルヘルム1世に替わって帝位についたヴィルヘルム2世は父の代を支えたビスマルクを罷免しました。そしてロシアとの再保障条約の更新も拒否しました。ヴィルヘルム2世は「ドイツはもう大国になったんだ。これからはイギリスと対抗して世界に出ていく。」と「世界政策」を打ち出しました。
このドイツの政策転換こそ、ヨーロッパの国際関係の枠組みが大きく変わるきっかけとなりました。
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ドイツの世界政策と三国協商

イギリスにとってドイツの台頭は脅威でした。しかし、イギリスは当時、フランスやロシアとも対立し、「光栄ある孤立」を自任していました。欧米の列強はドイツの台頭を許すことになったのでしょうか。

1894年
ビスマルクの「フランス孤立化政策」が終わると、フランスはロシアと手を結び、露仏同盟が成立します。
ロシアはフランスからの資金で、遅れていた工業の近代化に取り組むと同時に、シベリア鉄道の建設を急ぎました。
1902年
世界中で戦争を展開するイギリスはロシアが進出を図る中国まではとても手が回りませんでした。
そこで、「栄光ある孤立」の立場を捨て、ロシアとは対決が避けがたい日本と同盟を結び、日本を支えることでロシアを牽制しようと考えました。1902年、日英同盟が成立しました。
1904年
イギリスはエジプトと南アフリカとを結ぶ「縦断政策」でアフリカに進出していました。フランスはサハラからマダガスカル島を結ぶ「横断政策」でアフリカ進出を進めていました。
しかし、ドイツがアフリカに進出を始めると、それまでは対立していたイギリスとフランスでしたが互いに妥協し始めました。ここに英仏協商が成立する背景がありました。
1907年
日露戦争に敗北したロシアは日本と関係を修復し、イギリスは日本を中継することでロシアと接近していくことができました。
これにより英露対立という19世紀外交の枠組みが壊れたことになりました。
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1870年〜1910年のまとめ

第二次産業革命によって生まれた独占資本が活路を求めて世界へ進出し、政府もそれを支援します。機械化された大規模工場に職場を奪われ、生活に苦しむ労働者を政府はさまざまな手段で抱き込み、「豊かな生活」を国内に演出していきました。例えば、普及し始めた学校教育は子供達に将来の可能性を約束し、弱った人びとには社会保障の手をさしのべるなどして、国民意識を高めていきました。それはやがてライバルの国への敵対心や愛国心を国民の間に培う力につながっていきました。

「豊かな生活」と「世界の一体化」と「国家の役割」の別れがたく結びついて時代はこの先、どのように変わっていくのでしょうか。

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