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世界史・納得のツボ(現代編)
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1870年〜1910年:1

(1)日本の近代は不平等条約から

二百年以上続いてきた鎖国政策を止め、開国した日本の未来は順風満帆だったんでしょうか。当時の日本はどんな課題を背負っていたのでしょうか。

日本の開国

この14年の間に、日本は二百年以上続けてきた鎖国政策をやめ、武士中心の身分制社会から四民平等の契約社会へと大きく舵をきりました。これだけの大転換がたった14年間でなし遂げられたことは驚異的ですが、それには参考になる見本がありました。

隣の清国(中国)が開国を拒否してイギリスと戦ったアヘン戦争で敗れた1842年から、英仏連合軍と再び戦って敗れる(1860年)の間に、清国がいかに惨めな変貌を遂げなければならなかったか、当時の日本の幕府もそれに批判的な勢力もこのことを熟慮できたのでした。

「欧米列強を甘く見たら清国のようになってしまう。」この認識があったからこそ、日本は激流のような当時の世界に泳ぎ出ていくことができたのでした。

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不平等条約改正

徳川幕府から天皇を仰ぐ討幕派の人びとに政権は移りました。しかし、彼らには時間がありませんでした。欧米の列強が競うように東南アジア・中国へと進出してきていたからです。しかも、日本は開国にあたり、米英仏独露を相手に日本側にとって圧倒的に不利な条件で条約を結んでいました。

相手国(五カ国)の人びとが日本国内で侵した犯罪は相手国の法で裁く治外法権を認め、さらに関税自主権を放棄して輸入品に日本側が自由に関税が課せられなかったのです。日本側に不利なこんな状態が長く続けば、大きな損失です。

明治政府はこの不平等条約を改正するために、長い年月と大きなエネルギーをさかなければなりませんでした。日本を欧米の列強に劣らぬ近代国家にしなければなりません。新しい文物が取り入れられ、人びとの暮らしにも大きな変化がおこり、社会の仕組みも欧米のそれに習って作り直されました。人びとは精一杯それに付いていきました。

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征韓論

日本は欧米の列強に強いられたことをそのまま真似るようにして、隣国の朝鮮に接しました。外交文書の受け取りをめぐっる対立からおきた両国の緊張は日本軍艦による発砲事件までに発展し、日本は強圧的なやり方で朝鮮側に開国を認めさせました。そして、韓国内には日本に従う勢力と清朝に従う勢力が形成され、やがて日本と中国は朝鮮への影響力をめぐって軍事的対立に至るのです。その間、日本は国内の近代化を急速に進め、軍隊にも近代的な組織や武器が導入されたのでした。

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