ーわたしの入院<胆石編>ー (2002.6.3〜6.11)

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―目次―

石が動いた<胆石の症状>(4/12) 歩いて入院(6/3) 手術前日は多忙(6/4)

手術日の過ごし方(6/5) 石を見る(6/6) 初めての外出(6/7) ドレンがとれる(6/8)

日曜日の公園(6/9) 院内探索(6/10) 退院(6/11)

ー番外編ー

チューブやコード 4個の石 傷だらけの人生


 

【2002年4月12日(金)】雨のち曇り  ー石が動いた<胆石の症状>ー

 4月のある暖かい夜中の3時ころ、突然腹が痛み出した。夢うつつだったので、胃袋の中に大きな サイコロがはまってしまったとのだと思っていた。なんでこんな四角いものが胃の中に入っている んだなんて悪態をついたところで目がさめた。

 痛みは胃の部分を異物で傷つけてしま ったようなジリジリとした痛さと、腹部から背中にかけての重い痛みで、どう対処すべきなのかを 迷ったが、まずは三共胃腸薬を飲んでみた。昨夜のコロッケは確かに食べ過ぎだなと反省しながら 効いてくるのを待ったが、一向に効いてこない。これは胃潰瘍系の痛みかもしれないとおもい、サクロンも 飲んでみたがそれでも痛みはどうにも収まらない。

 カミサンを起こして、背中を押して もらう。少しは楽になったが、相変わらず腹は痛いし、背中がとにかく張っていて痛い。そのうち 起きていれば少しは我慢はできそうなことがわかったので仕方なしに「医学事典」などを読みなが ら、夜が明けるのを待った。

  この症状は何だろうといろいろと推測しているうちに痛 みも少し和らいできた。朝になって、近くの内科医院で診てもらったら、胆石症との診断。紹介状 を書いてもらい、阿佐ヶ谷の河北総合病院で診察する。エコーで明らかに石が胆嚢内にあることが わかった。そういえば年に一度の人間ドックではいつも「ちいさな石がたくさんありますね」と言 われ続けていたので、診断にはすぐ納得できた。

 胆石は痛いおもいをしなければ、「サ イレントストーン」と言って、放っておいてもいいのだが、石が動き痛みが出たら取った方がいい と言われている。手術をする覚悟はできている。

診察がすべておわった昼頃には背中の張 りや腹部の痛みもおさまったが、結局その日は仕事を休み、家で安静にしていた。このようにして 私は胆石持ちだということがわかったのである。
 

【2002年6月3日(月)】晴れ ー歩いて入院をする。ー

   症状が出てから2ヶ月近くたつが、その後どこも痛くない。健康状態は極めて快調である。入院、手術はしなくとも大丈夫という思いがしないでもない。しかし石はあるし仕事も一段落している。10日ほど前に万歩計も買った。午前10時デイバッグを背負って、歩いて30分5000歩。阿佐ヶ谷 の河北総合病院に入院する。半年ほど前にそけいヘルニア(脱腸)の手術 を同じ病院でしたばかりで あるがこんなに早くまた入院する事になろうとは思わなかった。

 今度は本館3階の外科病棟。 我が家の財政を考慮して4人部屋、窓側のベッド。引き出しや棚に着替えや洗面道具などを置き、 昨日買ったばかりの早川謙之輔さんの「木工のはなし」(新潮社)を読み始める。

 午後 からは検査。まず左腕2カ所に注射液を打ってパッチテスト。次に肺機能検査で肺活量を測る。 「はい、思いきり吸って力一杯はいてください」というのでそうしたが、「まだまだ出ますよ、 まだまだ出ますよ」とおだてられ、もうこれ以上無理なんだけどなと思いつつもむせかえるまで 空気を出した。 全身麻酔の事前検査はこんなことをするのかと思った。

 検査が終わ ったので、さっそく外出許可証をもらい、喫茶「耕路」でコーヒーを飲み、杉並区役所前から 「すぎ丸」バス 浜田山行きに乗り、一時帰宅する。夕食を食べて8時に病室に戻る。

FIFAワールドカップ イタリアーエクアドル(2−0)。23時就寝。
 

【2002年6月4日(火)】曇り ー手術前日は多忙ー  

  手術を前に多少の不安感はあった。まず全身麻酔が未経験である。「眠っている状態で痛みは感じません」というが、目がさめなければどうしようという不安である。また麻酔が効いて意識がないときに、あらぬ言動をとり、本性がばれたりしないのだろうかと言う不安もある。

 そんな不安をかかえながら手術前日を迎えたわけだが、午後になると、そんなことは全然おかまいなしに手術の定番「剃毛」が始まった。手術をする部分の毛を剃るだけだから、おなかのまわりだけかとおもっていたら、下腹部も剃るという。そこは半年前に剃られたばかりで、ようやく生えそろったのにと残念な思いをした。

さらに複雑な思いは、前回は看護婦さんがやってくれたのに、今回は男性の看護師である。・・・。恥ずかしいけれど看護婦さんの方が絶対にいい。

 入浴をして身を清める。風呂はマンションタイプでどこにでもある風呂と同じであるが、大きく違うのは、浴槽に湯がなみなみと注がれていることである。子供のようになったつんつるの体を見ながらゆったりとつかり、ノンビリとしてしまった。

 夕方執刀するB医師とI医師の説明を聞く。CTスキャナの輪切りの画像データから3次元に復元した写真で、石の位置がよくわかる。この石を取り出すために胆嚢と総胆管を結ぶ管を切って、胆嚢を取り出し、切ったところはチタン製クリップでとめる。これを腹部4カ所に開けた穴からTVカメラや遠隔操作のワイヤーやメスで手術するのである。(腹腔鏡下胆嚢摘出術)手術そのものに対する不安はもともとなかったので、「おまかせします」とつたえた。

サッカーワールドカップ日本―ベルギー戦2−2で引き分け。病院内は静かに盛り上がっていた。
 

【2002年6月5日(水)】晴れ時々雨 ー手術日の過ごし方ー

  朝5時半に起床。目覚めは快調。6時半に浣腸をし、腸の中をすっきりさせて、手術に備える。8時から点滴が始まる。口当たりがシロップみたいに甘い薬を一口飲む。これが麻酔の第1弾。8時半カミサンがくる。9時にストレッチャーに乗って手術室に入る。病室を出る頃から夢心地で「パソコンが・・・」とか「仕事はもういいな・・・」とか言っていたそうだ。無影灯がシャンデリアみたいな形をして6〜8本のライトがついているなというところまでは覚えているがあとはもう全くわからない。麻酔の効いていく経緯や手順を少し知っておこうと思ったが、不覚にも何もわからなかった。

 手術は約3時間。執刀のB医師から「順調に終わりました」とカミサンは報告を受けたという。ドラマでよく見るあのシーンである。たぶん少し不安を帯びた表情で「ありがとうございました」と言ったのかもしれない。そんなやりとりがあったのかどうか本当はわからないが、私は手術室を出る時に意識が戻り、「父に無事終わったと連絡をしてくれ」とだけ言い、またしばらく寝てしまった。次に目が覚めたときはすでに夕方。今日はナースセンターの近くの回復室で1泊。体中の色々なところから チューブやコード が出ていた。

 手術した箇所は傷があるなという程度で痛みはあまりない。起き上がってはいけないが、寝返りはうってもいいといわれたのでよくそうしたが、その度に心音計が警告音を鳴らし波形が乱れ、看護婦さんがとんでくる。「俺は異常なのか?」と思ったが、あまりに頻繁に警告音が鳴るのでそのうち来なくなってしまった。機器の単なる接触不良だけであった。こうして手術当日の夜は更けていったのだ。

 サッカーワールドカップ ドイツーアイルランド戦1−1で引き分け  
 

【2002年6月6日(木)】晴れ ー石を見るー

  回復室にいてなかなか夜が明けなかった。2時、4時、5時とウトウトしてはまたすぐ目覚める。朝になって、回診がくればこの邪魔な管がとれると思っていたが、そういうときに限って、なかなか来ないのだ。

  担当のB医師が標本ケースに入れて「胆石」を持ってきてくれた。1センチ四方のサイコロ状の黒っぽい 石が4つ もあった。痛いときに夢に見たのと同じ石だ。手術をした甲斐があった。午前中に点滴も終わり、導尿管、鼻胃チューブ(マーゲン)、脊椎に射した痛み止めチューブなどが外された。気分がいい。

  回復室のベッドはとても硬く腰を痛めそうだったので横を向いて寝ていたら、右肩を痛めてしまった。腹の傷よりもよっぽど痛い。

   昼から5分粥が出た。手術後はじめての食事。昨日一日抜いただけだが、久々に食べる気がした。病院内を散歩。屋上へも行く。

 サッカーワールドカップ フランスーウルグァイ戦1−1引き分け。
 

【2002年6月7日(金)】晴れ ー手術後初めての外出ー

 午前中は車屋長吉さんの「文士の魂」(新潮社)を読む。この人の潔さを見習いたい。

 外出許可をもらって阿佐ヶ谷駅前を散歩。歩き方が遅い。「書楽」でパソコン雑誌を買い「ギオン」でコーヒー。西友でふりかけを買って夕食前に帰る。

 右腹部にさしてあるドレンはまだ抜けない。まだ少し血がにじんでいる。熱も37.2度ある。しかし不快ではない。

 サッカーワールドカップ イングランドーアルゼンチン戦 1−0でイングランドが勝つ。
 

【2002年6月8日(土)】晴れ ードレンがとれる。ー

  右腹部に入っていたドレンが抜けた。長さ20センチ以上、太さはボールペンくらいはあったろう。肝臓直下までいき、腹部内の出血状況をモニタリングしていた。抜けたあとの穴(傷口)は消毒とガーゼだけである。腹膜を貫通しているはずなのにとれればあとは自然治癒を待つばかり。不思議だ。

  これで体の中に入っているものはなくなった。腹部内がすっきりしたので落ち着いた気分だ。病院内は浴衣で通していたが、今日から甚平にした。

 中国詩人選集「陶淵明 寒山」(岩波書店)を読む。漢詩から今の心情に近いものを探そうとしたが、この詩人は酒の詩が多いので無理だった。

  午後はカミサンが来たので外出届けを出して「ナカヤ」珈琲店に行く。阿佐ヶ谷駅近辺も散歩。そのうち頭痛がしてきたので病室に戻り、横になる。頭痛は10代の頃からの持病で、病院だとロキソニンとかボルタレンという鎮痛剤が手に入るので、具合がいい。

  ナースセンター前の体重計で測ったら69.9Kg。ついに70Kgをわった。20年ぶりである。退院したらスーツでも買おう。

  サッカーワールドカップ イタリアークロアチア戦 1−2 イタリアは不運であった。
ブラジル−中国 4−0でブラジルの勝ち。これは順当である。
 

【2002年6月9日(日)】晴れ ー日曜日の公園ー

  朝のうち快晴だが風が強い。イザベラ・バード「日本奥地紀行」(平凡社)を読む。英国人の金持ちのご婦人が通訳を連れて、明治初期の日光や会津、新潟、米沢、秋田、青森、函館、室蘭への裏街道を徒歩や馬で旅したとてつもない記録である。今回持ってきた「日本地図」が役だった。(なお「世界地図」はサッカー参加国用として重宝した)

  10時に長女が見舞いにくる。11時洗髪。11時半に外出届けを出して一時帰宅。阿佐ヶ谷―浜田山を走るミニバス 「すぎ丸」 に乗る。日曜日の公園は人がたくさん出ている。公園にいる人はみんな元気で健康そうだ。実は自分はまだ入院中なのだがこうして散歩しているのだと知り合いがいたら教えたい気分である。

  家に帰っても子供たちは誰もいない。みんな出かけている。カミサンと二人で静かに日曜日の午後を過ごす。夕方車で病院まで送ってもらう。夜、主治医のB医師が来て「11日に退院しましょうか」という。即同意する。

 サッカーワールドカップ 日本―ロシア戦 1−0で日本が勝った。決勝リーグへ行く可能性が非常に高まった。
 

【2002年6月10日(月)】曇り ー院内探索をするー

  入院生活も今日と明日で終わりだからとペンとメモ帳を持って、院内探索。
 5F、4Fは内科中心。4Fは小児科もある。3Fは外科、泌尿器。2Fは整形外科と手術室。 看護婦さんの気質も診療科によって、実は微妙に違うのだ。

一階の目立たないところに「情報コーナー」があって、パソコンが置いてある。「家庭の医学」(保険同人社)しか見られないが誰も来ないので一時間くらいそこに座って「胆石」以外の項目もチェックしていた。

  屋上はこの病院で私の一番気にいった場所である。ここからは北の方角に阿佐ヶ谷教会、馬橋小学校、杉森中、鷺宮。西の方角には阿佐ヶ谷駅と中央線の電車それに荻窪のビルがよく見える。

  サッカーワールドカップ ベルギー―チュニジア戦 1−1引き分け。
 

【2002年6月11日(火)】晴れ ー退院するー

 退院の日も朝まで熟睡した。8時にはもう着替え終わっていたが、実はまだ腹部3箇所のホッチキスの針がとれていない。これを外してもらわないといけないので、回診まで待つ。

  カミサンが自転車で荷物を取りに来てくれた。紙袋2つと本7冊。10時、荷物が全くなくなったベッドの上で、縫合した箇所をニッパのような工具でパチンパチンとならしながら針がようやくとれた。同室の人と看護婦さんたちに挨拶をして退院。主治医のB医師は今日も手術中とのこと。感謝の意は1週間後に診察がまたあるので、そのときに伝えることにした。

  病院を出たその足で「ナカヤ」珈琲店に行き、ブレンドを飲む。阿佐ヶ谷駅11時15分発の「すぎ丸」に乗る。途中で自転車屋さんに寄り、入院前にタイヤ修理で預けた自転車に乗って帰宅する。

 夕方は荻窪まで自転車でいき、「ミニヨン」でコーヒーとクラシック音楽。退院したうれしさをかみしめる。明日から会社で仕事だ。

 サッカーワールドカップ デンマークーフランス 2−0、ドイツーカメルーン 2−0
 

◆【傷だらけの人生】

 人は一生のうちで何回傷を受けるのだろうか?私の体も傷だらけである。大小あわせると全部で90針くらいの縫い跡がある。その中で一番大きいのは右足30針、左足18針の傷である。小学4年生の時、近所の悪ガキ5人で山の貯水池まで遠征しての帰り道、坂で自転車のブレーキが壊れ、カーブが曲がれきれず、そのまま崖に突っ込んでしまったのだ。

 崖からはい上がり、傷の大きさに驚き、そのころは救急車なんてものはなかったから通りかかったトラックに乗せてもらい、市内の病院に連れて行ってもらった。手術室に母親が入ってきた時、ばつの悪さもあったのと何よりも親を心配させまいと思って、ニヤニヤと笑っていたら、母親は頭も打ってしまったのかと嘆いたそうだ。

 次は痔の手術。中学生の頃から痔持ちだったが高校2年の夏、山へキャンプに行った帰り、妙高高原(このころはまだ田口だったと思う)の駅で列車待ちをしている時が最悪の状態だった。横になっても、立っても、座っても尻がヒリヒリと痛く、もうこんな痛いのは我慢ならぬ、とってしまえ!とこの時決意した。

 帰宅してすぐ外科医をしている叔父の病院へいき、翌日手術をした。叔父はそのときはもう70歳を過ぎていて、「おまえが俺の最後の手術になるかもしれない」と言って、丁寧にあんな小さなところを20針も縫ってくれたのだ。

   ガラスのコップで左手の人差し指を切った時も忘れられない。縫うためにその傷近辺に局部麻酔の注射を打つのだが、みんな傷口から麻酔液が漏れてしまい、「我慢しろ」と言われ、結局麻酔なしで、5針も縫われてしまった。針が刺さるときよりも糸を結ぶときの方がはるかに痛く、麻酔がないときの手術を思い浮かべ、涙した。

  そして大きくなってから外傷数カ所と脱腸の手術(5針)と今回の胆石症の内視鏡手術(4カ所で計9針)でまたさらに新しい傷をつけてしまった。

 こうみるとなかなか輝かしい「傷だらけの人生」である。
 

◆【チューブやコード】

 手術が終わって、気がついたら、体の周りはチューブやコードだらけ。 重病人みたいに心電図のピッピッピという音は鳴っているし、口には酸素マスク、鼻の穴から喉を通って、胃にまで達しているチューブなどがあり、人はこうやって生かされているのかとおもった。

赤いX印4カ所が腹腔鏡手術の跡
(A)  点滴チューブ
(B)  酸素マスク
(C)  胃液をとるチューブ
(D)  背中から入れる痛み止め
(E)  心電図計
(F)  血圧計
(G)  腹腔内ドレン
(H)  尿バルーン
( I )  肺血栓予防レッグウオーマ
この他にも注射、点滴跡が数個




 

◆【4個の石】

 手術が終わった翌日、主治医のB先生が来て、取れた石を記念にどうぞと言って渡してくれた。
 石は フィルムケース大の資料ケースに4個入っていて、黒っぽいサイコロ状の形をしていた。胆嚢のなかで何年も転がっていたので角が取れていたが、ちょうどサイコロの「1」のような形の核のようなものも見えた。
 石の種類はコレステロール系。黒っぽいのは胆汁の色が定着したからなのだろうか。こんな大きいのが4つも取れたなんて感動してしまった。