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世のすべての男子諸君へ 『富士日記』(上・中・下)
武田百合子
中公文庫








「女子はよく食べるのだ」
ということを、世のすべての男子諸君はもっとよく理解すべきである。少なくとも、いまだ未婚の、今まさに彼女とつきあっている最中だという、あるいは未知なる女性の身体と心に憧れとときめきを抱いている最中だという、そんな男子諸君には、ぜひとも理解してもらいたい。
女子はよく食べるのだ。
食べる食べる。ホントに食べる。食べて食べて、そしてまた食べるのだ。

女子は何が好きといって、おしゃれよりも買い物よりもおしゃべりよりも旅行よりも占いよりもテレビドラマよりも、いけ好かない子の悪口を言いあうことよりも「きれいだね」って言われることよりも、それより何より、ずばり、
「ごはんを食べること」
これがいちばん好きなのだ。そう決まっているのだ。(ちなみに、二番目に好きなのは、眠ることである。)
よく食べるものが必ずしも女子であるとは限らないが、女子たるもの必ずよく食べる。女子の定義の中に「よく食べること」は不可欠だ。
マザーグースの中に、
「女の子って、何でできてる?
 女の子って、何でできてる?
 お砂糖とスパイス、
 素敵なものいろいろ。
 そんなものでできているのよ」
というような歌があるが、こんなものは嘘っぱちである。出鱈目である。たしかにお砂糖やスパイスや素敵なものでできていることを認めるのはやぶさかではないが、しかしながら女子を構成する成分として第一に挙げねばならぬのは、ほかならぬこれ、
「胃袋」
をおいてほかにないのだ。
食べることを抜きにして女子は存在しない。好気性細菌が酸素からエネルギーを取りだして生きている細菌であるように、サラリーマンがサラリーをもらうことで働く人であるように、女子はよく食べることで存在しているものなのである。いつでも食べる。どこでも食べる。どんな状況においても食べる。それが女子なのだ。
「おなか減った」
と言っては食べ、
「あー、おなかふくれた」
と言っては食べ、
「おいしい」
と言っては食べ、
「げー、まずい」
と言っては食べ、暑いと言っては食べ、寒いと言っては食べ、うれしいことがあったと言っては食べ、へこんだーと言っては食べ、
「彼氏できた」
と言っては食べ、
「フラレター」
と言っては食べ、
「今ホントはダイエット中なの」
と言っては食べ、
「ダイエット失敗したー」
と言っては食べ、とにかく、あらゆる機会にあらゆることを口実にしてよく食べるのだ。女子にとって、食べ物と無関係なものは何もない。

そのあたりの事情を世の男子諸君は、まったく、といっていいほど理解していないのではないか。
それは、彼らが女子に対してしばしば口にする次のような台詞にも如実に表れている。
「太る太るって言いながら、どうして食べるんだよ」
愚問である、と言わざるをえない。
女子の何たるかを、少しも認識していない。
太る太ると言いつつも、食べてしまうのが女子なのだ。太ることがわかっていても、食べざるを得ないのが女子なのだ。定義上、食べなければ女子ではないのだ。太る太ると言って食べないでいられたら、それはもう女子ではない。そう断言してさしつかえないのである。
女子に向かって「食べるな」などと言うのは、好気性細菌に向かって「酸素からエネルギーを取り出すな」と言うようなもの、あるいはサラリーマンに向かって「給料もらうな」と言うようなものなのだ。

どうであるか。
世の男子諸君は、わかってくれただろうか。
女子とは、そういうものなのだ。これが、女子なのだ。
女子と正しくつきあいたいと思うなら、男子たるもの、このことをわきまえておかねばならぬのだ。
どうだ。
エッ、どうだ。
わかったか。
とくに、あんた。タカシ。あんたのことよ。エッ、どうなのよ。わかった? 理解した?
だいたいねー、あんた、うるさいのよ。男のくせに。
あたしが何食べようと、勝手でしょ。あたしの身体なんだから。食べるのはあたしなんだから。
それを何? いつもいつも、
「エッ、そんなに食べるの?」
とか、
「まだ食べるの!?」
とか、
「これ食べたら、ブタになるよ」
とか、わざとらしく目を丸くしたりなんかして。
挙げ句の果てに、何よ。あたしが、
「最近ちょっと太ったかも」
って、なにげなくつぶやいたら、鬼の首でもとったみたいな顔して、
「ほーらごらん、だから言ったでしょ。これ以上食べるとブタになるって」
キーッ!
何よ何よ何よっ!
あんたなんかにそんなこと言われる筋合いはないわよ!
女子っていうのはねえ、こ・う・い・う・も・の、なんですからね!
フン、今まで何人の彼女とつきあってきたか知らないけど、女子のこと、まったくわかってないじゃないの。
バカバカバカッ、タカシのバカ!

と、以上のように、世の男子、なかんずくつきあっているタカシ、じゃなかった彼氏に対して憤懣やるかたない思いを抱いている女子は少なくないのだ。
世の男子諸君、とりわけいまだ未婚の、今まさに彼女とつきあっている最中だという、あるいは未知なる女性の身体と心に憧れとときめきを抱いている最中だという、そんな男子諸君は、ぜひともここにあげる本を読んで、女子に対する理解を深めてもらいたい。
武田百合子『富士日記』。
天性の随筆家・武田百合子が、夫・泰淳、娘・花子とともに過ごした富士山麓の別荘での日々をあるがままにつづった日記である。純然たる日記である。そして、日本日記文学の最高峰である。

笑いあり涙ありのこの日記の中で、日々欠かすことなく書き入れられているものがある。
「ごはんの献立」
である。
たとえば昭和40年10月24日(日)晴
《朝 ごはん、ハムエッグ、味噌汁
 昼 ごはん、サンマ干物
 夜 トースト、カレースープ》
たとえば昭和41年3月24日(木)晴
《夕陽が遅くまで射しこんで、久しぶりに陽に一杯あたりながら、昼と夜兼用の食事をとる。錦松梅入りのやきにぎり、サラミソーセージ、しそとしょうが塩づけ、タラコ、味噌汁。
 山にくるとお茶がおいしい。お茶がおいしいので、ごはんのあと、クローバーで買ってきたアマンドパイを一切れずつ食べ、まだ、お茶がおいしかったから、チョコレートとポテトチップを食べる。ポコには魚のソーセージ一本。》

もちろん、献立ばかりではなく、味の評価や分析にも余念がない。
昭和42年7月5日 くもり 風つよし
《朝 ごはん、鮭かん、大根おろし、しょうがおろし、卵を入れた味噌汁。
 昼 手製クッキー(今日は、バターと卵を沢山入れて軟らかく焼いてみた。まずし。作っているとき想像していたのとちがうし)。スープ(トマトと玉ねぎ)、ベーコン。》
昭和43年5月21日(火) うすぐもり、暖かし
《私は今朝、海老名の食堂でハムサンドのほかに、主人のカレーライスを半分食べ、野鳥園でそばを食べ、そのほか、正式に自分の分を食べたので、食べすぎたようだ。》

というか、よく見たら、話題になっていることの3分の1くらいは食べ物に関してのことのような気がする。
昭和43年9月22日(日) 晴
《罐ビールを買いに店内に入った主人の話。「中は満員だ。女はすごいねえ。そばをとって、その上、焼きもろこしをとって、そばを食べちゃあ、もろこしをおかずにしていた」。》
昭和44年8月30日(土) 晴
《タテジワの深い、色の濃い、トゲトゲが全くつぶれていない、とれたてのこのきゅうりは輪切りにすると歯車のような形になる。汁がひゅっとにじんで出る。ナマのまま、味噌をつけてすぐ立食いする。おいしい。》
昭和45年5月28日(木) 晴、風なし
《談合坂食堂で。カレーライス(主人)百五十円、三色弁当(私)三百五十円。
 この三色弁当のまずさ!! 卵の部分は無味、ひき肉の部分は味はあるが、その味がまずい!! 犬の肉ではないかしら。これをとって食べるものはバカである。》

まあとにかくそんなわけで、どんな技巧もかなわぬ魔術的なまでに天衣無縫な文章のトリコになりつつ夢中になって読んでいると、これほどまでにごはんの話ばかり出てくることが、ごくごく自然で当たり前のように思えてくることであろう。そうして、上中下3冊を読み終えたころには、心の底からしみじみと納得しているに違いない。
「女子はよく食べるのだなあ。そうなのだなあ」
世のすべての男子諸君がこの『富士日記』を読み、こうした境地に達してくれれば、われわれ女子としては、これ以上の望みはない。
あるいは別に世のすべての男子諸君ではなくとも、タカシさえこれを理解してくれるのであれば、私も誰はばかることなく、ごはんをもりもり食べられるというものである。



(注)武田百合子に関しては、(こ)心ないことを口にしないために も参照してください。
ちなみに、タカシに関しては、クリスマスより、大切なこと を参照すれば、いっそう理解が深まります。
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