テレジンの子どもたちから ナチスに隠れて出された雑誌『VEDEM』より 林幸子編著 新評論 2000 234p. 2000円(本体) |
■はじめに■
本書は、昨年の晩秋にざっと読み終えました。暮に行なわれた読売日本交響楽団の第400回定期演奏会でテレジンの作曲家が特集で取り上げられるのを知って、これまで無知だったテレジンについて何かを読んでおきたいと思ったからです。ふと立ち寄った書店で本書を手に取り、興味を惹かれたのですが、いい本でした。
■目次■
第1章 「VEDEM」までの道 3 1 テレジンとの出会い p.4-8 2 初めての「ユダヤ人強制収容所」 p.9-13 3 「VEDEM」を読んでみたい p.14-18 第2章 なぜ、ユダヤ人は迫害されたのか? 19 1 ユダヤ人の歴史 p.20-24 2 ユダヤ人がナチスに迫害された理由 p.25-38 3 強制収容所と絶滅収容所 p.39-48 第3章 「VEDEM」には何が書かれていたか? 49 1 「VEDEM」について p.50-54 2 1号室の子どもたちの組織 p.55-63 3 テレジンへ来るまで p.64-74 4 テレジンでの生活と環境 p.75-97 5 生活の中の生と死 p.98-115 6 社説と論文 p.116-132 7 テレジンの文化とスポーツ p.133-159 8 仲間たち p.160-176 9 詩と創作 p.177-191 10 そのほかの記事から p.192-216 第4章 子どもたちのその後 217 ■内容その他■
強制収容所というと、ついアウシュヴィッツと口をついて出てしまいますが、その強制収容所は「強制労働収容所」「強制収容所」「絶滅収容所」の3つに分けられることを、今回初めて知りました。強制労働収容所はユダヤ人を働かせるための場所だったといいます。そこに入るほど若くて元気でないユダヤ人たちは強制収容所に送られました(といっても労働から逃れられたというわけではないのだそうで)。そして、もう働けなくなったり生かしておく必要がないとみなされた人たちが送られるのが絶滅収容所・・・。さて、こうした中でチェコにあったテレジン強制収容所は少し意味が違う収容所で、ここはアウシュヴィッツやほかの強制収容所へ送られるまでの中継地として存在し、またナチスがユダヤ人に対する迫害や虐殺行為を隠すことを目的として、ユダヤ人の新しい町を造っていると宣伝するために利用した場所でもありました。
テレジンに送られてきたユダヤ人家族は、10歳以下の子どもは親と一緒にいることが許されたそうですが、10歳から15歳の子どもたちは親と離されて、男女それぞれの家に入れられたといいます。「VEDEM」を発行したのは「L417」という建物の1号室に収容された男子と、その部屋のアイシンゲル先生でした。ナチスは、これらの建物に収容された子どもたに対して、当初、教育の場を持つことを許しませんでした。畑仕事や材木仕事をさせて、やがて疲れて使い物にならなくなったら、あの世に送って終わりだという露骨な考えの現われです。それが1942年になって、ようやく週1回だけ子どもたちを集めて遊ばせてもよいことになりましたが、歌うこととゲームをすること以外は許されなかったのです。そこで大人たちはドイツ軍に隠れて、子どもたちの勉強の時間を作り、その時間には見張りを立てたというのですから驚きです。
やがて、「L417」という建物の1号室には”自治組織”ができ、「VEDEM」が発行されることとなりました。「VEDEM」とはチェコ語ですが、「僕たちは導く」とか「勝利する」という意味になるそうです。1942年12月18日から1944年6月ごろまでの約1年半に渡って出され、総ページ数は800ページにも及ぶといいます。
自治組織ができたことについて、テレジンに連れてこられるまで、日常生活(目覚まし、食事券、食べ物、先生に対する造反、イタズラなどなど)、生活の中にある生と死(霊柩車、火葬場、散歩のときに見られる死体・・・)等々、彼らが死と向き合った極限状況に身をおきながらも、その日常を冷静に、しかもウィットをもって描き出しているのです。でも、読んで驚かされるのは、まだほかにもありました。社説や論説がそうです。たとえば、民族主義を論じた長い文章の中には「宗教は町や政治集会や学校などの外部の世界から、人減の心に移らなければならないということです」というくだりや、「外部および町から、民族主義は人間の心の中に移動します。心の中に入ることによって民族主義は深まり、情熱が増します。これだけが、民族主義の助かる道です」といった箇所など、もともとのコンテキストに置いて読むと、なんと説得力のあることか。どうして、自分たちがテレジンに収容されるようになったかを批判的に描いた論説、「自分の父親を尊敬せよ・・・・・・!」では、1918年、第一次世界大戦から再び健全な世界を建設することに参加できた父親の世代は、労働者の進歩や社会平等に反対する保守的な権力者との戦いに出かける選択肢をとらず、静かに個人や家族だけを大切にする、穏やかで簡単な道を選んでしまった、そのことが世界の奇妙な変化や大変動について何も知らず、今日につながってしまったと指摘します。こういう文章を読むと、一瞬、ドキッとさせられる自分がそこにいました・・・(汗)。文化やスポーツを扱った記事も多数あります。ハンス・クラーサが作曲した子どものためのオペラ≪ブルンジバール≫について、練習から本番までを描いた、当事者ならではのレポートが載っていたりもします。
今の日本でいえば、中学生にあたる男子が作った刊行物。ものごとを冷静にみつめて展開していく批判の数々に驚嘆し、ちょっとした記事に見られるウィットに微笑み、しかしそれらと隣り合わせにある「死」に気付いて「うーん」と考えさせられる、そんな本に仕上がっています。
【2002年1月23日】
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