第206回: こまつ座『紙屋町さくらホテル』公演(紀伊國屋ホール)

8月6日から20日まで紀伊國屋ホールで行なわれた、こまつ座の標記公演を見てきました(8日)。

■主なスタッフ
作   井上ひさし
演出  鵜山 仁
音楽  宇野誠一郎
美術  石井強司


■キャスト
辻 萬長・・・・・長谷川清(62歳)
土居裕子・・・・・神宮淳子(38歳)  
木場勝己・・・・・丸山定夫(45歳)  
森奈みはる・・・・園井恵子(33歳)  
久保酎吉・・・・・大島雅彦(43歳)  
河野洋一郎・・・・針生武夫(37歳)  
大原康裕・・・・・戸倉八郎(27歳)  
粟田桃子・・・・・熊田雅子(29歳)  
前田涼子・・・・・浦沢玲子(18歳)
  

■時と場所 
1945(昭和20)年12月19日午後、東京巣鴨プリズン
1945(昭和20)年5月15日(火)午後6時から2日後の17日午後9時まで、広島市紙屋町の「紙屋町さくらホテル」


戦時中、演劇関係者は移動演劇隊なる小劇団を編成して全国各地を回りました。工場や農山漁村などで働く人々を対象に、芝居を見せて慰労し、その後の増産態勢に一役買わせようという国のもくろみだったといえるでしょう。それが1945年ともなると、戦局はひどく悪化し、演劇人たちの移動にまで鉄道を用立てることが難しくなってきたのだといいます。そして「さくら隊」という移動演劇隊は広島市内の宿、「紙屋町さくらホテル」を定宿とすることになったのでした・・・。

幕が開くと、そこは東京巣鴨プリズン。終戦の年の12月、ここを訪ねて自分を戦犯として収監せよと要求する元海軍大将長谷川清と、その必要はない、いやそんなことをされては困るのだという元陸軍中佐針生武夫の会話から始まるのです。やがて長谷川が針生と会ったことを思い出し、舞台は二人が時間をともにすごした広島へと移っていくのでした。

劇のさいしょの場では、登場人物が少しずつ登場し全員が揃う仕組みになっていて、あわせて時代状況なども把握できるようになっていました。さくら隊の正規の俳優(というかプロの俳優)は丸山定夫と園井恵子で、二人とも実在の人たちです。丸山は生粋の築地小劇場出身の俳優で活躍し、園井はさいしょ宝塚、のちに映画女優のキャリアを積んで築地小劇場の演劇理念を良しとして丸山とともにさくら隊にいたのです。せっかく丸山と園井が広島にいるのだからということで、県が大きな施設を提供して、なにかやってもらおうということになったのでした。しかし二人ではたいしたことはできないし、丸山は人を集めて芝居をやろうということを計画しました。そこで、さくら隊のメンバーとして加わったのが、宿の経営者とその家族、すなわち淳子(日系2世)、正子(名目上の経営者)と玲子。そこへ海軍大将で天皇の密使である長谷川清が偽名を使って泊まりにきます。どの宿もいっぱいでここへ辿りついたのですが、さくら隊専用の宿となるため、そのメンバーになることを勧められます。いっしょに稽古をして明後日の舞台に立つことをよしとすれば、宿泊は可能になります。長谷川もメンバーになります。そのあとに続いて針生が泊まりにきて、この男もメンバーになります。実は針生は陸軍中佐で長谷川の行動を監視し、陸軍にとって都合の悪い行動を長谷川がとろうとするならば、「刺す」(つまり殺す)権限まで与えられて尾行してきたのでした。さらに、日系2世である淳子のもとに、戸倉という特高刑事が24時間の監視(!!)を命じられたと言ってやってきます。登場人物に関してこれだけの事情が絡めば、いったいどんな展開になるのか興味津々で見ることができました。

戦時中であるが故のさまざまな制約についても、作者は知恵を凝らして(あるいは、そうした事例が当時あったのかもしれませんが・・・)見せ場を用意していました。たとえば、明後日の出し物について丸山は一計を案じ、淳子の24時間監視が容易になるといって、特高刑事の戸倉を巡査役として仲間に引き入れます。周囲からもその気にさせられ、やる気になった戸倉は、上官の許可をもらい、しかも普通ならば発行までに3ヵ月はかかろうかという技芸鑑札まで全員分をもらってきました。戦時中はこういう制度があり、実力のある俳優でもなかなか発行してもらえない場合があるといった話が披瀝されたりもしました。しかし、何度か挿入された空襲警報のサイレンの音は、舞台上を暗くして舞台転換をやりやすくする実際上の役割ももっていたようにみえましたが、なんといっても命を落とすかもわからない恐怖と戦いながら(それが一番強く現れたのが園井でした)、日常を過ごしたり芝居の練習にいそしむ姿を映し出していました。

作者によって練りに練られた数々の台詞は印象に強く残り、大いに笑ったり、時にジンときたりしました。芝居の稽古というものは、こういう手順を踏んで進むのかということも門外漢の私にはわかりやすくできていて、戦時中の設定とはいえ面白かったです。芝居全体を通じて振り返ると、休憩直後の「返し」の場で出てきた戸倉の台詞はとりわけ心に響きました。芝居の稽古を積んできて、自分が最初から舞台下手にいて台詞を言い始めるよりも、駐在所にいたときに話を聞いて雨の中を走ってきて台詞を言うように変更しないかと、戸倉が言い出したのです。ただ、その変更は素晴らしいのですが、淳子を24時間監視するという条件をほんの少しですが満たせません。戸倉は一座の中に「監視する・される」という関係を持ち込んでいるあいだは芝居の中で役になりきれないといい、さらに同じ一座の神宮淳子さんを信じる、なによりも一座の皆さんを信じる、そうでないと芝居なんてできない気がすると言うのですね。この場はあとで上官の許可を貰うことで先に進むのですが、当初、戸倉は芝居とか俳優といった存在にろくろく価値を認めていなかったのです。戸倉は、当初、芝居とか俳優の存在についてろくろくその価値を認めていませんでしたが、芝居はそこに集まった人間が日常の利害を超えて信頼しあってこそつくっていけると言うように変わるのですから、すごいです。ここでは、戸倉の例を挙げますが、それぞれの登場人物について、こうした見せ場が用意されているのでした。

こうして芝居の本番に向けて稽古を重ねるメンバーでしたが、さいごにどんでん返しが用意されていました。それは新しくできる敵性外国人(つまりスパイ)に関する法律の運用に関係して、淳子が本番当日の午後5時までに強制収容所に収監されるということでした。驚く一同。しかし、丸山が不屈の精神を見せます。そこへ敵機襲来です。淳子は舞台を踏めないまま収容所送りなのかと思ったところ、部隊は再び東京巣鴨プリズンへ。長谷川がなぜ戦犯とせよといっているのか、天皇に対して本土決戦を回避して和平工作をと進言はしたものの「早急に」と繰り返し迫らなかったために、広島、長崎などその後大勢の命が奪われたことに対する責任があるというのです。そして再び部隊は広島へ。淳子は舞台を踏み(正直驚きでした!)、収容所送りも免れて、英語を生かした仕事につくことになりました。こうした措置がとられたことに、淳子は長谷川の影響をうすうす感じ取っているのですが、長谷川もそれを認めるわけにはいきません。つかの間のハッピーエンドですが、それはまた約3ヵ月後の原爆投下の序曲の始まりだったのかもしれないと思って見ているうちに幕になりました。

辻萬長の海軍大将、木場勝己の丸山、土屋裕子の淳子などいずれも引き込まれて観てしまいました。ほかの俳優も、それぞれの役をこなしていましたが、大原康裕は特高刑事が素人俳優となって人間性まで変化(あるいは取り戻したというべきか)してゆくさまを見事に演じていて、素晴らしかったです。音楽は「ドミレファミソファラソー、ソミファレミドレシドー」という音型が全体のかなりの場面でつかわれていましたが、いい意味で耳タコになりました。。また観てみたい芝居でした。休憩を挟んで3時間とちょっと。でも、時間的な長さは全然感じませんでした。

【2006年8月20日】



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