第163回 : 作・演出=鴻上尚史『ピルグリム』公演(新国立劇場中劇場)

去る1月18日(土)、標記の芝居を見に行きました。でも事前にチケットは購入していなくて、会場に着いてからZ席(1500円・・・当日券専用の席種として用意されています)を入手しました。この席種のホントの隅っこの方は、若干見ずらいのでしょうが、中央に近い方は、さほどでもなく、ラッキーでした。

新国立劇場では、シリーズ「現在へ、日本の劇」と題して、20世紀の日本で誕生した4本の戯曲を上演していきます。今回は、その1回目というわけで、『ピルグリム』は来る2月2日(日)まで上演されています(27日の月曜日は休演)。詳しくは新国立劇場の「現在へ、日本の劇」というページをご覧いただきましょう。

今回上演された『ピルグリム』は、鴻上尚史ひきいる「第三舞台」が1989年に初演したのだそうです。初演当時は「伝言ダイアル」が大流行していて(そういうのありましたっけかね? もう、よく覚えていません・・・)、今回は代わって「メール」が登場。私は「第三舞台」を見に行ったことはないのですが、かつて一度、鴻上が演出した『ゴドーを待ちながら』(サミュエル・ベケット作)を見たことがあります。BGMを大音量でガンガン鳴らすところもあったし、台詞のやりとりにも、いわば彼らの業界のネタ話を多く取り込むなどの工夫が凝らされた舞台でした。そんな経験もあって、では鴻上自身の本で舞台を作るとどうなるんだろうという興味が湧いてきたのです。

ストーリーは、こうでした。雑誌の連載を打ち切られた作家・六本木実篤(市川右近)は、編集者・朝霞悦子(富田靖子)や同居中の書生・直太郎(山本耕史)から説得されて長編小説を書くことになりました。やがて、その小説の中の様子が舞台に登場します。マッド・サイエンティスト(雨宮良)は自ら創ったタンジェリン・ドリーム(宮崎優子)と旅をしていますが、その途中でウララ(山下裕子)とウララから生まれたハラハラ(佐藤正宏)、きょうーへい(高岡蒼佑)と出会い、オアシスを探し求めていくつもの障害にチャレンジしていきます。このようにして舞台上では、舞台上の現実(作家たちの物語)と劇中劇(小説の展開)が行き来しながら進みます。一幕もので、2時間15分ほどぶっつづけで上演されました(ちょっときつかった・・・)。

役者で一番印象に残ったのは富田靖子さんでした。台詞のひとことひとことが全部聞き取れたうえ、表情も豊かに感じました。佐藤正宏さんはワハハ本舗で名前だけはよく知っていましたが、とてもとぼけた味があって笑わせてもらいました。今回も、テレビでしか見たことがなかった役者さんたちを何人かナマの舞台で見られたのは、私にとっての収穫でした。

劇には、おかしくて笑ってしまう仕掛けが、それはたくさん用意されていました。ダジャレは言うに及ばず、歌や踊りもありましたし、タンジェリン・ドリームや黒マントといった登場人物を空中に吊り上げるしかけもありました。ですから、会場は何度も笑いの渦につつまれるのですが、かといって、面白く楽しいだけの劇作品かというと決してそうとはいえないばかりか、難解な面すらあわせもつものだと思いました。というのも、共同体からはじき出された人間たちがオアシスを求めて旅を続け、やっと見つけたと思ったオアシスは想像とは異なり、決して心や身体が休まる場ではなかった、言い換えれば、われわれ現代人にとってオアシスなんてないのさという展開になってくるからなのでしょう。作家・六本木実篤が20年前にコミューンを作ろうとして、ある島で実践に移したものの、当の本人が挫折したことが明らかにされることなども、やはり一種の暗さをもたらします。

ただ、こうした劇の展開を振り返ると、初演された1989年当時であれば、なお一層のインパクトをもったであろうにという感想をもちます。なぜなら、その当時から20年さかのぼった1970年前後、場所が「島」かどうかはまったく別として、理想的な社会やましな社会をめざしてコミューンづくりに奔走していた人たちがけっこういたはずでしたし、1989年当時のいわゆるバブル期の社会にオアシスなり、ある種のユートピアを夢見た人たちもいたかもしれません。ですから、きっと作品に現代劇としての生命が満ち溢れていただろうと想像するのです。それがいまは、もう少し白けてしまったのではないかなと思ってしまうのですね。それだけに旧作を手直しをして上演するよりは、新作を書き下ろしてくれたら良かったろうに、と一人勝手に思っていました。
【2003年1月22日】


トップページへ
コーヒーブレイクへ
前のページへ
次のページへ