第158回 : 本田宗一郎と井深大展(2002年11月2日)

両国にある江戸東京博物館では、12月8日(日)までの会期で「本田宗一郎と井深大展」が特別展として開催されています。休館日は毎週月曜日ですが、11月4日は開館し翌5日が休館となります。料金は1200円となっています。ちなみに音声ガイドも用意されていました(500円)。

会場は次のように区分されていました。
   第1章 生い立ちと夢
   第2章 創業と発展
   第3章 失敗を恐れるな
   第4章 夢のつづき
どの章も、井深大と本田宗一郎、あるいはSONYとHONDAを対比できるようなディスプレイになっていました。

第1章「生い立ちと夢」
本田宗一郎は1906(明治39)年、静岡県で鍛冶職人の息子として生まれました。小さい頃から手先は器用で、しかもいたずら好きで学校の成績はイマイチだったといいますから可笑しくなります。7歳のとき初めて自動車を見て、いつかは自動車を作ってみたいという夢を抱くようになったといいます。一方、井深大は1908(明治41)年、栃木県で生まれました。小学生の頃から機械いじりが好きで、中学時代に無線に邂逅。ま、ここはイントロダクションですが、本展の音声ガイドの特性が早くも発揮されていました。というのも、本田宗一郎が見た自動車のエンジン音はこんな音だっんのだよ、と実際にその音を聞かせるのです。この手法は、のちの章で、本田が開発したオートバイのエンジン音を聞かせるなどして繰り返されます。美術の展覧会での音声ガイドの使用法とは一味違った面白みがありました。

第2章「創業と発展」
本田は15歳で自動車修理工としての道を歩みだします。やがて、その会社の浜松支店をもちますが、やがて修理業だけというのに飽きがきました。そしてピストンリングの製造を学びますが、その製造が軌道に乗ってきたところで太平洋戦争に突入しました。一方、井深は早稲田大学に進み「学生発明家」と異名をとります。卒業後はPCL、日本光音工業を経て、戦時中は日本測定器という会社を立ち上げました。

本田の工場は1944(昭和19)年に自身で倒壊していました。終戦になり、本田は休業宣言します。1946(昭和21)年に浜松に本田技術研究所を開設、活動を再開します。さいしょにやったのは、自動車に補助エンジンをつけた乗り物を作ります。1948(昭和23)年、本田技研工業株式会社を立ち上げ、しばらくはオートバイ作りを手がけます。1961(昭和36)年、通産省は「特定産業振興臨時特別措置法」を示し、国際競争力の弱い特定産業を行政主導で強くしておこうと考えました。もっともらしく聞こえますが、乗用車でいえば、その製造の新規参入を規制し、既存メーカーも3グループに集約しようとする統制経済的発想に基づくものでした。これが実現すれば、ホンダの四輪進出の夢は断たれます。通産省に乗り込んだ本田は、「バカヤロー、おまえたち官僚が日本を弱くしてしまうんだ」と叫んだといいます。これまで触れてきた乗り物は、実際に会場に展示されています。補助エンジンつきの自転車など、はじめ少しペダルをこいで足を離すのです。すると、いつまでもというと大げさに聞こえますが、相当の距離ペダルをこがなくても進んでいけるスグレモノ(?)なのです(映像が流されているので目で確認できます)。四輪の自動車にしても、最初はスポーツカー、その次に出したのが「N360」という軽自動車。クルマは不得手な私ですが、それでも子ども時代、このカタチの自動車はよく見かけたような気がします。さて、こうした技術の研究をこころおきなくできるようにした、会社の経理面を預かった人物がいました。藤澤武夫という人です。やりたいことを好きなだけやる人間(本田宗一郎)が企業の主としてやっていくには、こういう存在が不可欠なのですね。

さて井深の番です。終戦後まもない9月に疎開先から上京し、さっそく日本橋白木屋の一室を借りて、ラジオの修理と改造を手がけ、当たります。この様子が新聞で報道され、音信不通となっていた盛田昭夫と再会、いっしょに事業をおこなってゆくことになります。その後、ラジオの修理だけでなく、「電気ざぶとん」や木製のお櫃で作った「電気炊飯器」などを売り出します。前者はよく売れたようですが、ふとんが焦げるなどの苦情が殺到。防炎素材も使用していなければサーモスタットのような安全装置も付いていないのですから当然といえば当然なのでしょう。現在の目から見ればよくぞこんな欠陥商品を売ったものだと思ってしまう代物なのですが、こうした失敗はきっとその後のどこかに生かされているのでしょう。後者は、当時の電圧供給が一定していなかった事情が災いして、ご飯がうまく炊けることがごく稀れだったといういわくつきの代物です。そうこうするうち、いよいよテープレコーダーの開発を手がけるようになり、その後はトランジスタ・ラジオ、さらには失敗も経験しますがトランジスタ・テレビとSONYの製品開発は続きます。このあたり、会場の展示品も用意された映像なども、興味深いものがありました。実は以前、飲み屋さんで年配のお客さんからソニーで働いていたことと初期のテープレコーダーに使用されたテープは紙製だったと聞いたことがあったのですが、そのテープの具体的なイメージがどうしても頭の中に思い浮かべられませんでした。今回、会場に足を運んで、そこで映像を見て疑問は解決しました。蓚酸第二鉄をフライパンで熱し、色が黄色から茶色に変わったところで、これがガンマ・ヘクタイトになっており磁石に反応するようになります。これを溶かして紙に筆で塗る(驚きました!)、次にそれを6ミリ幅にカットする。おおなんと時間のかかる行程でしょうか!! さて、こうして次第に世界のSONYとして伸していくわけですが、もともと井深同様研究者だった盛田の経営手腕が高く評価されています。ここでも、経営のバックボーンを支えるブレーンをもった企業のサクセスストーリーを見せられましたね。

第3章「失敗を恐れるな」と第4章「夢のつづき」は割愛しても、許されるでしょう。興味がある方はぜひ足を運んでみるといいと思います。ちなみに、私は帰りがけに寄った喫茶店で話をしたら、マスターも、そばにいたお客さんも、ホンダはあの当時こんなふうだった、そういえばソニーもこんな製品を出していた、といった具合に話に花が咲きました。会場を回っていると、後半すこし企業の宣伝臭が感じられた部分もあるのですが、現在の日本人の暮らしに深くくいこんでいる独創的な企業の創業者たちがもっていたユニークな発想や、その製品を目にすることは、まちがいなく楽しいことでもあります。


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