第133回 : 常磐津〜落語の「景清」〜介護(2002年2月1日)

2月になっちゃいましたネ。まだ、1月のことで書いていないことがあったのに。というわけで、久しぶりのコーヒーブレイクです。

去る1月23日のこと、偶然チケットが手に入って、池袋演芸場で行なわれた「〆治・志ん弥ふたり会 その48」を聞きに行きました。演目は、開口一番=「元犬」(いち五)「厄払い」(志ん弥)「松山鏡」(〆治)「和歌三神」(志ん弥)「寿うつぼ猿」(常磐津社中)「景清」(〆治)というものでしたが、珍しいなと思ったのは常磐津が聴けることでした。大変よくしたもので、口上と歌詞を記した印刷物が配布され、それを読んだり、舞台に目をやったりしながら聴いていました。ちゃんと常磐津を聴いたのは、初めてです(自慢しちゃいけないか・・・?)。170年ほど前にできた曲だそうで、生活実感に照らして言えばちょっと距離はあるのですが、いかにも正月らしい演目で、いい経験になりました。いま、江戸時代が見直されているのだとすれば、寄席でこうした音楽の種目が聴けるというのは、いいアイディアだと思いました。

この日、トリをとったのは〆治さんで「景清」をやりました。この噺は、盲人となった主人公が願をかけても一向に回復の兆しがみえずふてくされてしまいます。以前から懇意にしているご隠居がなだめても言うことを聞きません。しかし、最後には眼が見えるようになり、家で待っていたおかみさんに向かって「あなた誰?」「お前さんの女房だよ」「ああ、それは初めまして」というとぼけたサゲがついていて笑ってしまいました。しかし一番の見所は、ご隠居と主人公のやりとりです。具体的な再現は無理ですが、要するに、主人公は身の回りの世話をしてくれるおかみさんに対する強い感謝の念をもっていますが、同時に、経済的な負担も負わせている負い目も感じています。百日、願をかけて視力の回復がままならないとすると、この状態がさらに続くわけで、主人公は顔を高潮させ半べそをかきながら「俺は死ぬ!」と言います。ご隠居は、なだめ役ですからね、できるだけ落ち着いた表情と語り口で主人公に語りかけます。二人の人物は交互に会話していくのですが、顔を高潮させたり、その後すぐにおちついた表情にもどったりしながら、〆治さん、迫真の噺でした。

実は、私はこの噺を聞きながら、1月19日の土曜日に行なわれた桝添要一さんの介護をテーマにした講演会の内容を思い出していました。誤解のないようにお断りしておくと、私は桝添さんのファンでもないし、まして支持者でもありません。ただ、この年齢(ちなみに1月24日で満49歳になりました)になると「介護」は少しばかり気になる話題となってくるのです。といっても、私の場合は断片的な情報しか持ち合わせていない情けない状態でした。しかしそれでも、本を買って読むというのは気も重く、荷も重いというのが正直なところ。でも2時間じっと坐って、とりあえず1回、経験者の話を聞くくらいはしておこうと思って行きました。

はじめの1時間ほどは、介護は経済と深い関係があるということで、現在の不況にまつわる話題で、介護に特化した話は後半の1時間。ちょっと肩透かしを喰らった感じです。介護における問題として、一つは誰が身の回りの面倒を見るのか、もう一つは必要なお金をだれが出すのか、という2つを提示しました。この部分、まさしく「景清」の主人公が気にしていたのと同じことなのですよねぇ(今回は、これ以上桝添さんの話の内容には立ち入りません、悪しからず・・・)。

「景清」という人情噺を聞きながら、現代と結び付く糸をみつけて帰ってきました。


トップページへ
コーヒーブレイクへ
前のページへ
次のページへ