第126回 : 奏楽堂特別展 日本のオーケストラ(2001年12月7日)

去る12月2日(日)にこの展示会に行ってきましたが、実は、この日が最終日。というわけで、単にご報告という結果になりますが、ご容赦の程を。今回展示されたのはコンサートのプログラムが主で、そのほかにポスター、写真、声明書などのドキュメント類などがあり、年代順に並べられていました。

始めのセクションは「明治・大正のオーケストラ」です。東京音楽学校のオーケストラのプログラムが、何通りか紹介されていました。これらは、ベートーヴェンの交響曲が徐々に紹介されていく様を示していましたが、1902(明治35)年11月の曲目には(たしか)単に「交響曲」と記載されているのみで、何番を演奏したのかわかりません。しばらくすると、軍楽隊のプログラムがありました。陸海軍いずれも、弦楽パートを加えた軍楽隊を組織し、演奏したことがあったのですね。そして、山田耕筰が活躍した東京フィルハーモニー会管弦楽部、さらに南葵楽堂でのオーケストラ演奏、東京シンフォニー・オーケストラ、東京・京都帝国大学音楽学部合同演奏会プログラムなどが続き、有名な日露交驩交響管弦楽演奏会などのプログラムが展示されています。

昨年のように個人に焦点を当てて展示が構成されている場合は、会場のBGMにその人が作曲した作品(演奏家なら録音とか)を流してイメージを具体的にさせたりすることもできますし、展示をじっくり見ながら足跡をたどっていく作業がしやすいのです。ところが、今回のようにプログラムを主な媒体として日本のオーケストラのあれこれをイメージしようとするのは、とても難しかったです。この点は明治・大正についてだけでなく、それ以後もほぼ同様でした。

そう、東京フィルハーモニー会のプログラムを見ているときに一つ思い出したことがありました。それは、(現在改築中の)東京国立近代美術館が所蔵している神原泰(かんばら・たい)の≪スクリアビンの『エクスタシーの詩』に題す≫(1922年)という油絵で、この画家がスクリャービンを知っただけでなく、彼の音楽作品を題材に絵画作品を制作するその時期の早さに驚いたことでした。宇佐美承の『池袋モンパルナス』には、里見勝蔵、佐伯祐三らの画家たちがそろって音楽好きだったとあり、「山田耕筰が指揮する東京フィルハーモニーや外国の音楽家を聴きに、フランスふうの帝国劇場や神田のYMCAへかよいつめた」と書かれています(p.52)。音楽と絵画が、あるいは文学がそれぞれに刺激しあっていたのかもしれません・・・。

2番目のセクションは「昭和のオーケストラ ― 戦前・戦中編」です。新交響楽団[NHK交響楽団の前身]、コロナ管弦楽団、宝塚交響楽協会、東京音楽学校、PCL管弦楽団、コンセル・ポピュレール、青年日本交響楽団、中央交響楽団などの団体のプログラム等が並んでいました。そして1940年に行なわれた紀元二千六百年奉祝曲発表演奏会プログラム、やがて戦中に進んで、日本交響楽団のプログラムが、という具合です。ところどころ写真が配置されているのが良いですね。「へえー、伊藤昇って案外背が高いんだな」とか「これがシフェルブラットの顔か」とか、まあ、いつまで記憶にとどめておけるかはわかりませんけれど、こういうものは見られて良かったなと思います。

戦後間もない時代も、動きが激しくて展示資料一覧が手元になければこんがらがってしまうです。日本交響楽団[現在のNHK交響楽団]は戦後いち早く活動を再開しています。1945年8月30日付で決済された文書「社団法人日本音楽文化協会附属管絃楽団及吹奏楽団設置趣旨」をざっと読み、その次にあるプログラムを見ると、東京都フィルハーモニー管弦楽団第1回定期演奏会プログラムとあります(東京フィルハーモニー交響楽団でもなければ東京都交響楽団でもありません)。アーニー・パイル交響楽団というのも、以前一1度かニ度、その名を聞いたことがあるだけでした。やがて、東京フィルハーモニー交響楽団、東宝交響楽団[現在の東京交響楽団の前身]をはじめ、なじみのある名前が続々と見出せるようになります。シンフォニー・オブ・ジ・エアー(来日オケ)、近衛管弦楽団、イムペリアル・フィルハーモニー交響楽団など、いまとなっては、その名を聞くのも珍しいオーケストラのプログラムを初めて見ることもできました。

この日の上野公園は、行く秋を惜しむような美しさがありました。写真は、国立西洋美術館の前を通りかかったときのものですが、素通りするには、あまりに惜しくてデジカメに収めました。本日の付録です。Ueno Park

















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