第122回 : 私の同窓会考(2001年10月20日)

去る10月13日(土)、高校の同窓会がありました。講演会→総会→懇親会という順序で進むのですが、やはり何と言っても人が一番多く集まるのは懇親会です。今年は私たちの一期上級の皆さんがメインになって進行やら受付等をこなす年に当たっていて、その下の私たちもお手伝いをしたわけです(当然、来年の布石という意味もありました)。当日の私は、実を言うと風邪をひいていました。でも、朝の体温は平熱(プラスごく僅か)かなといえる範囲でしたし、昼間飲んだ風邪薬が適度に効いてくれて、受付の方は何とかこなすことができました。

会場は、6月に同期会をやった時と同じ東京の中野サンプラザ。懇親会のスタートが近づいてくると、総会の会場から移動してきた人や、懇親会のために来た人などがやってきます。記帳→会費徴収→ネームプレート渡しという順序で受付をするのですが、その際、校歌のプリントを渡します。

私の出た東京都立武蔵丘高等学校は、府立21中から新制高校へ移行したのですが、ということは校歌も2曲あるということ。初めて知りましたが、両方とも、安部幸明さんの作曲なのです。「へえー!」と思いながら、ネームプレートの扱い方(ちょっとクセがある)を説明していた私でしたが、そうこうしているうちに、なんと安部幸明さんがいらっしゃったのです。驚きましたねえ。もちろん、すぐに来賓受付のコーナーへお連れしました、ハイ(ちなみに、安部さんは1911年9月の生まれですから、満90歳です! オーケストラ曲、室内楽曲、歌曲などを作曲なさっていますが、とりわけ15曲の弦楽四重奏曲は、流亞風弦樂四重奏團によって全曲演奏のコンサートが進行中です)。

会は、お決まりの挨拶をこなしながら進んでいきました。そして、比較的早い時間に、いくつかのグループに分けて、参加者の記念写真を撮影し、近くのDPEにフィルムを持ち込みます。今は、ざっと1時間で写真ができますから、それを確認して焼増しし、お開きの時には皆さんにお渡ししちゃおうという趣向です(いいですね、感心しました)。90名の参加者のうち先生方が15名、それと私たちの12年上の皆さんが懇親会のすぐ後に同期会をなさるというので20数名の参加を得たのが特徴的でした。私たちの代の6名は全員受付のお手伝い、ひとつ上の代はもう少し人数がいたように思いますが、やはりパーティを支える役回りで、こうした人間の数も参加者にカウントされます。そして、どちらかというと年代の上の皆さんたちが、パーティの主役という感想をもちました。ごく自然に楽しんでおいでなのです。それはいいのですが、その一方で中年よりも下の世代の出席が少ない。こうして今回は、同窓会というものについて少しばかり考える機会になったようです。

私が同窓会という催しに出始めたのは、40歳に近づいてからです。同窓会がなかった出身中学でこれを作ろうという動きが出た時期だったらしく、同窓生の集いという催しを行なったことがありました。ざっと10年前のことになります。行ってみると、懐かしい顔ぶれに会えて、あっという間に「俺」「お前」の間柄に戻れたのが印象的でした。

その数年後、私は大学卒業から20年、42歳になっていました。私の出身大学(正確に言うならば、大学を含めた学園全体)の同窓会は、パーティを盛り上げる趣向なのでしょう、卒業後10年、20年、30年といった区切りにあたる卒業生に「ハッピー10」[以後20、30と続きます]と銘打って人を集めているのですが、案内をもらった私は、さすがに「そうか、大学を卒業してもうそんなに経つのか」という思いを強くしたのでした。その時考えたことは、若い頃には自分のことで精一杯だった気がしたことと、同窓会のパーティ会費もばかにならなかったので正直なところ「行ってみよう」という意欲が湧いてこなかったな、ということでした。思い切って行ってみると、やはり懐かしい人たちに会えるもので(中学ほど大勢ではないにせよ)、それ以後、賀状の交換がはじまった人すらいるくらいです。

それにつけても高校の同窓会の懇親会です。来年は、私たちの代が同窓会の機関誌や行事を切り盛りしていくようで、可能な人ができることを少しずつ手伝うことになるのだろうと思います。そのこと自体は嫌ではないのですが、たとえば、先に触れた卒業後区切りのいい年の卒業生にアピールするなどの方法を考えて、私たちの前後の世代も、あるいはもう少し若い世代も広く参加できるよう呼びかけることができないだろうかと考えたりしました。


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