第109回 : 卒業してから30年〜高校の同期会〜(2001年6月12日)

去る6月10日(日)、中野サンプラザ「皐月」の間を会場にして、都立武蔵丘高校第23回卒業生同期会が開催されました。私たちの同期は高校を卒業してから、ちょうど30年が経過したことになります。みんな、どのように変ったのか(あるいは変らないのか)、顔と名前が一致するかなど期待と不安をもちながら、私は会場に足を運びました。受付を済まし、名札やプログラムなどをもらって辺りを見渡すと、どこかで見たことがあるような無いような人たちがかなりいます(笑)。やはり不安をもったとおり、そう簡単に人と名前は一致しませんでした。会場に入ると、昔将棋を教えてくれたO君が「覚えてる??」と言って声をかけてくれました。ほっとする瞬間でしたが、はじめのうち参加者は、多かれ少なかれ似たような感覚を味わったに違いありません。

プログラムはコピーで作った簡単なものですが、「ムサ高23回生 我ら3年間 社会は、学校は」と題する年表が載っています。同期生以外の方で、このページを見ていただいた皆さんがいらっしゃることと思いますので、この年表を参考にしながら、私が在学していた当時の都立武蔵丘高校(東京都中野区に所在)を少しだけご紹介しておきましょう。

1968年4月、武蔵丘高校入学。学校群2年目です。5月にはパリで5月革命が起きたり、秋には川端康成がノーベル文学賞を受賞したり。配布された年表では1968年10月31日の項に「文部省 高校生の政治活動禁止を通達」とありますが、これは1年後の1969年のこと。この情報、実は私から幹事に送りましたが、メールの書き方が悪かったみたいで・・・(参加された同期生の皆さん、スミマセン)。さて1969年の3月、武蔵丘高校では卒業式会場に高校生20数名が乱入し、卒業式粉砕闘争が起こり、機動隊が導入されました。実は、この事実が高校の60年史に一行も書かれていないというのです。驚きましたね。同年、制服が廃止されセーターなどでもOKになりました。修学旅行も楽しい想い出です。1970年、高校3年生となり、仕方なく(?)受験勉強に身を入れるようになっていきました。三島由紀夫が割腹自殺したのもこの年です。私たちは1971年3月に卒業しましたが、実は「卒業式」は行なっていません。先ほど紹介した卒業式粉砕闘争の影響が尾を引き(いや、あるいは既成の権威が問われたことになるのか?)、各クラスごとに「卒業証書授与ホームルーム」を行なって、それぞれの道に進んだのでした。

さて、同期会に戻って、写真を交えながら当日の模様をお話しましょう。始めの2枚は同期会が始まって間もない頃の画像です。手もとに書類のようなものを広げ見ている人たちが多いでしょう。配られたプログラムや名簿に目をやり、過去の記憶を引き出したり、同期の消息を案じたりしているのでしょう。まだ、画像が小さいので目立たないかもしれませんが、まだ硬さがほぐれていない頃です。










こちらもやはり、始まって間もない頃です。開会が宣言されて、梅田元校長の挨拶を聞いている時ですね。やはり、手もとの資料に目が行く・・・。私も同じでしたから、よく気持ちがわかります。会場の奥の方には、国語の岡村先生、保健体育の本間先生、英語の山崎先生もいらっしゃいます。この画面ではわかりませんが、保健体育の内藤先生もおみえになりました。同期生は、約65名の参加だったと思います。








歓談も進み同期会も後半に突入しています。すでにお互いがかなり打ち解け、各クラスごとに皆の前に出て、一人30秒以内で近況報告をしあっているところです。これは、3500(3年5組をムサ高では、こう呼びました)の皆さん。一番向うにいるのは、幹事の加藤由正君。

それから同期会ですが、5年後にまた会おう、ということになりましたよ。











この画像は、ちょっと雰囲気が違うでしょ? 同じ建物の地下にある居酒屋に移動して、二次会の最中。デジカメを撮っている人間(一番壁ぎわ)もいれば、それを撮って喜んでいる私みたいのもいますし、めいめい話が弾んで和気あいあいとやってます。






二次会が終わったのが午後7時くらいだったでしょうか。外は雨。大方の皆さんとは中野駅でお別れしましたが、残った男7人は「まだ早い!」とカラオケボックスへ。さらに約2時間、70年代和製ポップスを歌いまくって、さいごは小田和正さんの「さよなら」を合唱(?)し、お開きとなりました。

楽しい一時でしたが、いまごろは皆、ふだんの自分に戻って仕事や生活をしているのでしょうね。それにしても幹事の皆さん、お骨折りありがとうございました。また5年後に元気に会いましょう!!


トップページへ
コーヒーブレイクへ
前のページへ
次のページへ