第33回 : 京都・嵐山 『露営の歌』の碑(1999年9月3日)

10年ほど前、知人から嵐山に『露営の歌』(「勝ってくるぞと勇ましく」というあの歌です)の碑があると聞いて、驚いたことがありました。さらに調べてみると

『うたのいしぶみ − 文学紀行 日本歌謡碑大系−』松尾健司著(東京 : ゆまにて, 1977-1978)全5冊

がみつかり、その第5冊目「歌謡曲集(下)」に、この碑のことが詳しく書かれていたのです。
私自身は、その後一度立ち寄ったことがありました。そして今年たまたま、この場所を再訪しました。今回は先の資料を参考に、この碑について書いてみましょう。

まずは場所から。
京福線の側から渡月橋を渡り、桂川(保津川)を上流に向かって少し歩いた、左側にあります。

さて、碑の表面を見ていただきましょう。

露営の歌碑(京都、嵐山) 碑に見える緑のものは苔のようです。保存状態は決していいとは言えません。背景にあるのは何だ? と思うかもしれませんが、茶店の提灯や幕がはってあるのです。そうなのです、この碑のすぐ隣には店があって、ジュースなどを売っています。伺ったところ、47年ほど前からここで営業なさっているとか。歌碑にとって景観的にはマイナスなのですが、まあ仕方ないかなとも思います。

さて、この辺で『露営の歌』がどのような経緯でできたのか、それとどうして嵐山に歌碑があるのかをまとめておきましょう。

1937(昭和12)年7月、日中戦争(当時は日華事変と呼びました)が勃発した直後、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社は一般から『進軍の歌』の歌詞を募集します。同年8月6日締切、第1位入選作品は陸軍戸山学校軍楽隊が作曲しました。佳作第一席に入選したのが籔内喜一郎作詞の「勝ってくるぞと勇ましく」。こちらは古関裕而が作曲し『露営の歌』という曲名に改められました。この2曲を収めたレコードが発売され、B面に収められた『露営の歌』が入選作を圧倒する大ヒットをとりました。
作詞者の籔内喜一郎は当時、京都市役所に勤めていました。毎日新聞記者で友人の岸田正三という人が、碑を建てようと提唱、京都嵐山保勝会と右京区在郷軍人会連合分会が音頭をとって、場所を嵐山に決めました(本来は詩碑のようなものを建ててはいけない場所だったそうです)。1938(昭和13)年7月7日の建立となりました。

表面の碑の文字は、当時の陸軍大将・松井石根の書です。この人は陸軍きっての書家だったようで、私がかつて見た範囲では広島市の比治山墓地にある木口小平の墓碑も、やはり松井の書でした。裏面も見ましょう。
「大阪毎日新聞社 東京日日新聞社 選定歌 昭和十三年七月七日建」
「嵐山保勝会 帝国在郷軍人会右京区聯合分会」
これらが裏面・上段に刻まれています。私は今回、その下にある部分を見忘れてきました。以前行ったときは見たのですが、相当見づらかったんですよ。松尾さんの図書で補いましょう。
「作者 籔内喜一郎 作曲者 古関裕而 建設委員長 小松美一郎 委員 岸田正三 伊藤□□ 吉田□□ 小林□□ 井上正□ 井上源右衛門 彫刻者 西村寅吉」
(□ はハッキリと判読できないということです。)

碑は、隅から隅までじぃーーーっと見るのがいいみたいですね。


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