第26回 : 日本音楽文化協会の発会式(1999年8月6日)

8月になると、マスコミがこぞって戦争中のことがらを特集したり特番を組んだりする傾向が強かったのですが、昨今はそれも薄まってきたように思われます。私の「コーヒーブレイク」では、今月中に2〜3回、戦争ネタを取り上げるつもりでいます。
というわけで、去る8月4日、国立国会図書館へ行って調べた結果の一つをご報告しましょう。

さて、日本音楽文化協会は戦時中の楽壇を統制するために作られた団体です。その設立総会は1941年9月13日にあり、その2ヵ月半ほど後に発会式を行なったのですが、その日時に関するデータが、20年ほど前には2種類ありました。10年ほど前には、さらにもう一つの発会式日時を見つけ、私は「驚き桃の木山椒の木」状態に陥ったのでした。
今回は、それらの日時のうち1941年11月29日が正しいことを証明します。

それでは発会式日時のいくつかのヴァリエーションを順不同に見ていきましょう。

その1)発会式=1941年12月9日という記述がある文献の例
・ 『音楽之友社25年のあゆみ』(音楽之友社 1966)p.8の年表。
・ 「戦後音楽史のためのいくつかの小品(一)」/馬場健 (『音楽芸術』 1973年7月号 p.27)
その2)発会式=1941年12月29日の記述がある文献の例
・ 『文庫版 昭和の歴史 7 太平洋戦争』木坂順一郎(小学館 1989)p.186
* 正確に言えば、1941年(昭和16)12月20日に日本少国民文化協会を結成し(中略)同月29日に日本音楽文化協会を創立した、と書いてあります。
その3)発会式=1941年11月29日の記述がある文献の例
・ 戸ノ下達也「戦時体制下の音楽界」(『文化とファシズム』赤澤史朗・北河賢三編 日本経済評論社 1993所収 p.111参照)

さて、1941年11月29日が日本音楽文化協会発会式であったことを証明してみます。

1)『音楽公論』第2巻第1号の記事「日本音楽文化協会発会式祝辞」(p.92−93)などからも、発会式は1941年11月29日、情報局講堂で行なわれたことがわかります。
2)『朝日新聞』1941年11月30日(夕刊)の記事も同様です。
少々長くなりますが、引用してみます。

力づよき発足譜
音楽文化協会の結成
わが楽壇を打って一丸とする社団法人日本音楽文化協会は、昨秋音楽新体制運動が起ってから約一年二十九日午後一時半から情報局講堂で盛大な発会式を挙行した、会員約一千名が参集、先づ会長に徳川義親侯を頂戴、副会長に山田耕筰氏就任、顧問、参与の委嘱、名誉会員の推薦があってのち谷情報局総裁、橋田文相の祝辞あり、山田耕筰作曲交響楽「昭和讃頌」の演奏があった、なほこの日委嘱された役員次の通り
【顧問】岡部長景子、大倉喜七郎男、加藤成之男、京極高鋭子、近衛秀麿子、守井武成男、武富邦茂吹奏楽報国会会長、徳川頼貞候、乗杉嘉寿音楽学校長、藤山愛一郎【参与】石倉小三郎、川上淳、神戸絢子、小松耕輔、鈴木のぶ子、田辺尚雄、田村虎蔵、外山国彦、颯田琴次、永井幸次、福井直秋、堀内敬三、増澤健美、三浦環【名誉会員】田中正平、幸田延子、安藤幸子

そのほかに、これらを補強する材料として
3)『音楽公論』第2巻第1号のp.37−38「独唱会評」中にあるグレゴリアン学会演奏会の項にも、11月29日は日本音楽文化協会の発会式があったので一部聴けなかったという記述が見られます。

以上です。

補足すると、馬場健「戦後音楽史のためのいくつかの小品(一)」は、発会式の日時は間違っていますけれど、日本音楽文化協会が解散して、間髪を置かずに戦後の新しい団体を作ろうとした動きを取り上げた論文で、こうした角度からの論文は、いまだにほとんどないのではないでしょうか?
『文庫版 昭和の歴史 7 太平洋戦争』の誤りもがっかりです。日本近現代を扱う歴史家たちにとっては、音楽は傍流にすぎず(と捉えては言い過ぎでしょうか?)充分な調査がなされなかったのではないかと推測してしまいました。



トップページへ
コーヒーブレイクへ
前のページへ
次のページへ