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黄泉の薫り

その香は、死の香りがした
行商人の宇奈月は、佐伯七生から香を譲り受ける。
死者との束の間の再会を果たせるという、反魂香。
亡き妻を黄泉から取り戻すために香を焚いた宇奈月の前に
あらわれたのは……。
毒草園シリーズ番外編(読み切り) B6size/64page/300円





 初夏を迎えたばかりのその日。
 毒草園の庭には、強いひざしが降り注いでいた。
 芽吹いたばかりの木々には鮮やかな葉が茂り、その足元では色とりどりの花たちが妍を競う。
 華やかな光景が広がっていても、ここが毒草園であることに変わりはない。ほとんどの植物が毒を持ち、なかには人を死に追いやる猛毒を持つ種類もある。見た目の美しさだけを愛でる人間には、ひざしが生みだす影の濃さに気づくことはないだろう。
 そして平屋建ての母屋の奥で、漆黒の闇たちが息をひそめていることにも。
 そんなことを考えながら、毒草園の主である佐伯七生は台所を出た。
 湯気をたてる茶碗を乗せた盆を持ち、目指したのは庭に面した縁側。ガラス戸を開け放ったそこにはほどよいひざしが差しこみ、風の心地よさを堪能することができる。
 七生が台所にいたのはわずかな時間。だがその間に、縁側にいたはずの客と猫の姿が消えていた。
 客が携えていた革製のトランクは残されたままだから、帰ったわけではないだろう。母屋に侵入された気配もない。我知らず吐息をもらしながら、庭に視線を投げる。
 自分を呼ぶ猫の鳴き声が聞こえてきたのはそのときだ。
 縁側でまどろみを楽しんでいた猫の琥珀は客が現れてもその場を動かず、体を丸めたまま冷ややかな視線で客をみつめていた。自分こそが毒草園の主であると錯覚している猫だ。主の許可も得ずに客が敷地内をうろつくことを見逃しはしないだろう。
 盆を置いて、七生は庭に降りた。
 琥珀の声が聞こえてきたのは台所の裏あたり。石造りの蔵もあるが納めているのはがらくたばかりで、その周囲で稀少な毒草を育てているわけでもない。客の真意がつかめないまま母屋ぞいに歩いていくと、地面に座る琥珀の姿が目についた。蜂蜜色の双眼が、じっと何かをみつめている。
 その視線の先に、客がいた。
 白い長袖のブラウスに紺色のスカート。うなじでまとめた髪型も、時代錯誤なほどに地味だ。だが不思議と野暮臭さはなく、涼しげな雰囲気を漂わせている。
「すみません。懐かしくなって、つい」
 七生に背をむけたまま、女がみつめているのはバラだ。母屋ちかくの小さな花壇では杏色のバラが咲き乱れ、独特な芳香を漂わせている。
「毒草園のことを思いだすと、決まってこのバラが脳裏にうかんでくるんです。別の場所で、おなじ品種を見たときも。だけどこれほど美しい花には出会えませんでした。やはり特別な肥料を使っていらっしゃるんでしょうね」
「ろくに手入れもしていませんよ。放っておけばそのうち枯れると思ったのですが、なかなかしぶとくてね」
 もとは観賞用として植えた苗だ。初心者でも育てやすく、丈夫な品種を選んでやった。
 楽しげに花の手入れをしていた人間はすでにいない。だというのに、バラはいつまでも七生の元で咲き続けている。
「そういえば、あなたは昔からバラがお好きでしたね。来るたびに花壇の前にしゃがみこんで、一輪さしあげるまで動かなかった」
「いただいた花は私の宝物でした。枯れたあとも捨てることを拒否して、あの人を困らせたこともあるんですよ」
 最後に花を渡したとき、女は十七、八歳だった。あれから十年は過ぎているはずだが、目の前に立つ女は二十歳程度の外見を保っている。
 だがその程度では、女が不老を得たという証拠にはならない。
「お望みなら後でお分けしましょう」
 子供の頃、毎年のように毒草園を訪れていたのは彼女の意思ではない。いつしか姿を見なくなり、連絡を受けるまで彼女の存在すら忘れていた。
 そう。単身で毒草園に現れた女の目的は、花を見るためではないはずだ。
 世間話に時間を割くのも馬鹿らしい。茶が冷めてしまうからと促して、七生は女に背をむけた。

 あらためて客間に通そうとした七生を制して、女は縁側に腰掛けた。いまはその立場にないと、しおらしく謙遜してみせたのだ。
 自分は七生の目にかなう人間ではない。その自覚を持ちながらも、七生が白磁の湯飲み茶碗をさしだすと、ためらいもなく手を伸ばしてくる。
「いいにおいですね」
 湯気とともに立ちのぼる芳香はあまく、最高級のダージリンを連想させる。だが独特の渋みはなく、一口飲めば口内に柑橘類のさわやかさだけが残る。
 その変化に驚いたのだろう。茶碗から口を離した女は、瞬きも忘れて茶に見入っている。
「お気に召したようですね」
「ええ。口をつけたときは甘いと思ったのに。……薬効をおうかがいしても?」
「それはサンプルです。たいした効果はありませんが、皮膚の新陳代謝を整えるぐらいはできるでしょう。どのみち、あなたには必要のない薬ですが」
 肌の代謝を整えれば、キメが整う。はやい話が美肌効果だ。だが女の肌は茶碗に引けをとらぬほどに滑らかで、そして白い。
 だが肌が美しい分、右目の下にあるちいさなホクロが目立ってしまう。
「商品になったら、声をかけてくださいね。かならず購入させていただきます」
「私の顧客になりたい、と?」
 毒草園の看板を掲げる七生の職業は薬種商だ。それも医術と妖術の区別がなかった時代の薬種商である。毒や薬と考えられたものであれば、それがミイラだろうと宝石だろうと取り扱い、七生自身も薬類の調合を手がけている。需要が高いのは薬草茶で、薬効ではなく味そのものに価値を見いだす顧客もいるほどだ。
 とはいえ多くの顧客が望み、毒草園に利益をもたらしているのは不老不死の妙薬だ。なにしろ調合を手がけた七生自身がその効力を証明しているのだから、客が減ることはない。
「顧客に加えていただけるなら光栄ですけど、高望みはしていません」
「では、何をお望みです?」
 七生は客を選ぶことで知られた人間だ。わずか一時間前に電話をしてきた女を招き入れたのは、めずらしく好奇心がうずいたからにすぎない。
 そう。この女の姿を、いまさらこの目にするとは思っていなかった。
 人が良さそうに見える表情を崩さないまま、七生は棘を秘めた言葉を女に投げつける。
 それに気づかないほど鈍くはないだろう。女は艶のある微笑みをうかべて厭味を聞き流してしまう。
「今日はご挨拶にうかがっただけです。わたしのことなど、あなたはとうに忘れていると思っていたんです。だから思いだしてもらうことが目的だったとも言えますが」
 答えながらも、女の手は傍らに置いたトランクに伸びていた。まだ真新しいトランクを膝に乗せて、蓋を開く。かすかに漂ってきたのは漢方薬を思わせるにおいである。



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