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珠玉の毒

それは、この世で最も美しい〈毒〉
かつて佐伯が従事していた師の娘・フェイツイは、何者かに狙われていた。おなじ頃、佐伯の弟子だった由岐が十年ぶりに姿を見せる。佐伯が生みだした「珠玉の毒」の調剤法を求める由岐の脅迫と、フェイツイが引き連れる災い。
複雑に交錯する思惑に巻きこまれた旭春が見た「珠玉の毒」の正体とは。
シリーズ第8弾 B6size/158page/700円





 ふと目覚めると、あたりは闇。
 天窓から射しこむ月明かりは弱く、闇の濃さを強調するものでしかない。
 日が昇る気配すら感じられない時間に、何故眠りから覚めてしまったのだろう?
 ぼんやりと月を眺めながら考えて、そしてその理由を思いだす。どこからか、自分を呼ぶ声を聞いたような気がしたのだ。
 とても、懐かしい声だった。だから自分は、慌てて眠りの底から浮かんできたのだ。
 ……馬鹿なことをしたものだ。
 こみあげる苦笑に口元を歪めながら寝返りを打って、枕に頬を埋める。
 だかかすかに響いた短いに悲鳴に、女は上半身を起こした。
 凍てついた真冬の空気に震えながらも、耳を澄ます。聞こえてくるのは崖にうち寄せる波音だけで、女が住む屋敷は静寂に包まれている。
 だがそれは、気妙に緊迫した静けさだった。
 海を眺めるために建てられた屋敷は三方を山に囲まれており、隣家というものすら存在しない。世俗からは完全に切り離された場所なのだ。屋敷に住んでいるのは女と、女のために遣わされた数人の使用人のみ。
 厳格に躾られた彼らは昼間であってもほとんど物音をたてず、女はときおり自分が幽霊か妖精たちと暮らしているような錯覚に襲われたものだ。
 だから、そう。廊下を走って近づいてくる足音を聞いたのは初めてだった。
 そしてノックもなく、扉を開けられたことも。
「失礼します」
 ひそめた声とともに現れた女は、自分の姿を見て明らかに安堵していた。だがすぐに表情を引き締めて、小走りに近寄ってくる。その手に握りしめているのは自分の外套だろうか。
 そう思っている間に、外套を羽織らされていた。促されるまま靴を履いた次の瞬間には腕を引かれて、自分は絨毯を歩きはじめていた。
「何があったの」
 許可も得ず自分に触れる相手ではない。手首を掴む女の指が、ひどく緊張していることにも気づいていた。
 それに部屋の入り口を塞ぐように立っているのは屋敷の庭師だ。廊下からの襲撃に備える男が握っているのはライフルだろうか。
「……屋敷の中に、何かがいます」
 女がささやいたのは、男の元に合流してからのことだ。
「諏佐と伊吹は調理場で。宮津は玄関脇で倒れていました。大型の獣に襲われたようです」
 その首筋には、肉を突き破る牙の跡が残っていたという。
「死んだの」
 確認の言葉を投げると、女は無言のまま息を飲んだ。つまりはそれが答えということだ。
 拳を握ったのは無意識だった。だが感傷に浸る余裕もないらしい。
「すぐに他の仲間たちが到着するでしょう。ですがいま、屋敷内に留まっているのは危険です」
 肩を抱いていたはずの女の手が、そっと自分の拳を包む。我にかえって女をみやれば、訴えるような視線が自分をみつめていた。
 いまは少しでも早く安全な場所へ。
 無言でそう訴えられて、力を抜いた。
 その気配を察したのだろう。銃を構えたまま、男が足音も立てずに廊下へと進む。ふたたび女に背中を押されて、男の背中を追って走りだす。
 否。走ろうとした。
 廊下に風が流れたのは、その瞬間。
 同時に、目の前にあったはずの男の姿が消えた。
 くぐもったうめき声とともに床に倒れた男の上に、何かがいる。
 闇を見透かそうと目を凝らすが、正体をたしかめることはできなかった。背後にいたはずの女が自分の前に立ちふさがったからだ。
「さがりなさい」
 自分を守るために、女は自身の肉体を盾にするつもりなのだ。
 そう気づいたとき、闇の中でふたたび風が唸った。
 女は目前に迫る金色の双眼を見た。狩りを行う肉食獣のそれだった。
 だが獣が牙をむけた相手は自分はない。自分の前に立っていた女の体が、獣とともに床に倒れる。倒れながらも、女が自分の名前を呼んでいた。
「お逃げください。……はやく!」
 牙に裂かれた女の腕は、すでに血にまみれていた。
叫ぶ声にも、苦痛がにじんでいた。
 そんな状態にあっても、女は主人である自分を守ろうとしているのだ。
 女の判断を察した瞬間、こみあげた怒りに全身が熱を帯びた。どくり、と鼓動が響くたびに、あつい血が体内を駆けめぐる。
 闇に包まれた室内に、いつしか淡い光が灯っている。その光に包まれながら、いまだ執拗に女の命を狙う獣の姿を睨めつける。
 背後から伸ばされた奇妙な影に気づいたのはそのときだ。
 それは人間の腕だった。
 自分の真後ろ、しかも体が触れるほどの距離に、誰かがいる。
 声にならない悲鳴が喉をついた。だがそのときにはもう、相手に体を拘束されていた。
 見知らぬ人間の体温を肌で感じてしまい、全身に鳥肌が立った。逃れようと必死でもがくが、体に回された腕の力はわずかにも緩まない。
 自分より頭ひとつは背が高いであろう、男。
 とはいえ腕力で自分を支配しようなどと、思いあがりも甚だしい。
 驚愕ではなく屈辱に身を焦がして、血が滲むほどに唇を噛みしめる。
 そんな自分の感情すら見抜いたというのか、苦笑を思わせる男の吐息が耳元で響いた。
「その癖は、まだ直らないようですね」
 節度を保ちながらも、わずかに親しみがにじみ出る口調。耳慣れた、懐かしい声だった。
「お体を傷つけるような行為は改めてくださいと、何度もお伝えしたはずです。お忘れですか?」
 ……そう、忘れてしまえばよかったのだ。
 乱れかけた感情を鎮めようと、意図して静かに息を吐く。
「あの獣を退かせなさい」
 女の体には、いまだ牙を剥く獣がのし掛かっているのだ。だが床に視線を戻したとたん、ふたたび感情を乱された。
 男に気を取られていた間に、獣の牙は女の首に食いこんでいたのだ。
「死んではいませんよ。一時的に機能を停止させただけです。とはいえ、あの男が彼らの失態を許すとは思えませんが」
 喉を鳴らして、男が笑っている。他人を見下し、嘲るような声だった。
「いまさら……何をしにきたの」
 そんな笑い方をする人間ではなかった。自分の記憶に残る男はもっと善良であったはずだ。
 いつの間にか拘束は解けていた。だが変わってしまった男の姿を視界に映す勇気がなく、毛繕いをはじめた獣をみつめてしまう。
 しなやかな体つきはネコ科のそれだろう。名の知れた猛獣たちに比べれば、小さな体。それでも、猫と呼ぶにはためらいの残る体躯だ。
 舌を動かしながらも、獣は威嚇するような視線を自分にむけている。そのせいだろう。
「お迎えにあがりました」
 男が告げた言葉を、すぐに理解することはできなかった。
「ようやく貴女の望みを叶えることができます。俺と、一緒に来ていただけますね」
 ……この男は、何を言っているのだろう?
 自分と離れている間に性格が歪んだだけでなく、正常な判断力さえ失ってしまったのか。
「そんなこと、できるはずがないでしょう」
「できます。貴女が、俺を信じてくれるなら」
 即座に言い切ってみせるのは、それだけ自信があるからだろう。
「行きましょう。貴女はもう、あの男に捕らわれている必要はないのです」
 誘うように、左腕をとられた。男の指は節くれ立って、皮膚も荒れていた。長いこと苦労を重ねてきたのだろう。
 だがそれは無駄な苦労だ。
「久々に現れたと思ったら、ずいぶんとつまらない男に育ったものね」
 鼻で笑って、男の腕をふりはらう。
「あなたのこと、買いかぶりすぎていたみたいね。これ以上、失望させないで」
「来ていただけないのですか?」
 冷ややかに言い放ってみせても、男は怪訝そうに問いを重ねるだけだ。おそらく彼は、自分の答えに予想がついていたのだろう。
「では仕方ありませんね」
 さも残念そうにつぶやいて、男はふたたび自分の手首を掴んでいた。
 何をするつもりなのか。手のひらを上にむけたまま、前方にむけて腕を伸ばさせられる。
「かわりに、これをいただいて行きます」
 宣言とともに視界に映りこんできたのは、男の右手。その手が握るナイフの輝きだった。
 刃渡りは十五センチほど。乳白色の光に目を奪われている間に、手首を拘束された左の前腕にナイフを当てられた。
 日に焼けることもない腕の内側。そこに、鋭利な刃の感触を覚えたのは、つかの間。
 ざくりと肉を裂かれて、我知らず声をあげていた。強い痛みに、全身の筋肉が強ばった。だが何よりも熱いのは、傷口から溢れでた血液だ。
 前腕を染めあげた血は留まることを知らずに肌を伝い、手のひらを、そして指先までをも真紅に染めて、床へと落ちる。
 鼻をつく血のにおいは、ひどく甘い。
「ああ、これは香しい」
 耳元で放たれた感嘆の声が煩わしくて、自分は無意識のうちに唇を噛みしめていた。

      〈中略〉

 辻の中央に立ち止まって、落ちつきなく周囲を見渡している。腰まである黒髪が揺れるさまが、いかにも不安げだ。
 そんな態度を見れば、道に迷ったのだろうと見当はつく。真白なコートに包まれた女性は小柄で、もしかしたら子どもなのかもしれない。
 ……声をかけるべきか、否か。
 判断に迷いながらも、旭春は歩き続ける。その足音が聞こえたのだろう。唐突にふりむいた女性が、訴えるような視線で旭春を見上げてきた。
 その瞬間に息を飲んでしまったのは、彼女の虹彩が艶やかな緑色をしていたからだ。
 わずかに金を帯びた瞳に、旭春が連想したのは宝石のエメラルド。その輝きの高貴さにたじろいだ。
 アーモンド型の目はアジア系の証のはずだが、彫りの深さは白人のそれを思わせる。だが不思議と調和が取れていて、独特の美しさを醸しだしている。
 生きて、動いていることに違和感を感じるほど美しい女だった。否。二十歳ぐらいにしか見えないから、まだ美少女と呼ぶべきだろうか。
 呆気にとられたまま、旭春は女をみつめてしまう。不躾すぎる視線だった。だがそんな反応にも慣れているのか、女は何かを訴えるように旭春を見上げている。
「ええっと……。どうかしたんですか?」
 日本語が通じるのか、不安に感じながらも問いかける。学生時代に習ったはずの英語は、簡単な単語ひとつ思い浮かべることができなかった。
「覚えているのと、道が違うの」
 だから女の口から日本語が聞こえてきたときは、それだけで安堵してしまった旭春である。
「このあたりのはずなのに、町の景色が記憶と違うから、分からなくなって」
 聞けば、彼女がこの土地を訪れるのは十五年ぶりなのだという。
 幼い頃の記憶というのは意外と歪みやすいものだ。自分の経験から言えば、それは当時との背丈の違いが原因であることが多かった。
「住所は分かりますか? それか、家の特徴を教えてもらえれば」
 目的地は案外ちかいはずだと考えながら提案すると、その瞬間に女性の表情が晴れ渡った。
「ありがとう! わたし、毒草園を探しているの」
「……え?」
 はっきり聞き取ったはずの単語が理解できず、旭春は思わず問い直してしまう。
「だから、佐伯毒草園よ。背の高い古びた木塀に囲まれていて、門は瓦葺きの腕木門で。看板には『人体に有害につき立入禁止』というふざけた注意書きがあるはずなんだけど」
 だが旭春の期待を裏切り、女性は毒草園の特徴を事細かに説明してみせる。彼女はたしかに佐伯毒草園を見知っているのだ。  ……もしかして、佐伯さんの顧客なのか?
 自分の判断が信じられず、旭春はまじまじと女性をみつめた。流れるように伸びる鼻筋は涼やかで、キメの整った肌は赤ん坊のそれのよう。だが気がつけば、緑色の瞳に視線を吸い寄せられている。
 見れば見るほど美しい女性である。だが言葉を失ったままの旭春に、怪訝そうに首をかしげる姿は子どもっぽくもある。
「毒草園は昔からこの街にあるんだから。あなたなら、場所が分かるでしょう?」
 呆然と自分をみつめ続ける旭春に、さすがに痺れを切らしたのだろう。その瞳に非難の色が浮かんだことに気づいて、旭春は我に返った。
「すみません。毒草園なら、もうひとつ先の角を曲がったところですよ」
 慌てて女性から目をそらして、視線で毒草園の位置を示す。ふたつの四つ角沿いに建つ家々は同時期に売りに出された分譲住宅らしく、雰囲気がよく似ているのだ。
「おなじような家ばかり建てちゃって。前は、もっと遠くからでも毒草園の樹木が見えたのよ?」
 つぶやいて、女性は唇を尖らせた。道に迷ってしまったのは自分の記憶ちがいではなく、分かりづらい町並みのせいだと判断したようだ。
「この十年でずいぶん畑が減ったって、俺が世話になった不動産屋も言っていました」
 そんなことを話しながら、肩を並べて歩いてゆく。
 七生の顧客には近づくなと、たびたびくり返された忠告を忘れたわけではない。だが旭春が住んでいるのは毒草園に隣接するアパートなのだから、行動が重なるのは仕方がないことだろう。
 ただしい角を曲がれば、すぐに毒草園の木塀や樹木が視界に映りこんでくる。記憶にある光景を目にした女性が、短い歓声をあげる姿は微笑ましい。
「じゃあ、俺はここで」
 普段は堅く閉ざされている毒草園の門だが、いまは運良く施錠がはずれているようだ。女性が門扉に手をかけたのを確認して、旭春は女性に背をむける。
 左腕に奇妙な圧迫感を覚えたのは、その瞬間。
 ふりむいた旭春の視界に映ったのは、己の左腕に抱きついている女性の姿だ。
「ええっと……あの、まだ何か?」
「何って、決まっているでしょう」
 体を引いて後ずさろうとするが、両手で旭春の腕を抱き留める女性を振り払うことはできなかった。一体何を考えているのか。分からないながらも、旭春は表情を引きつらせる。ひどく厭な予感がした。
「あなたも一緒に行くのよ、旭春」
 教えた覚えのない名前を平然と告げて、女は満面の笑みをうかべてみせる。
 それは、まごうことなき小悪魔の笑みだった。



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