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香妃の末

その香りは、己を偽ることを許さない
亜沙花が道端で出会った猫がくわえていた、赤い実のついた枝。その枝が放つ芳香は亜沙花を魅了し、虜にしてしまう。
猫が毒草園で飼われていることを知った亜沙花は、〈伯爵〉のみちびきによって佐伯の元を訪れる。
それが悲劇の幕開けになるとも知らず……。
シリーズ第2弾 (読み切り) B6size/88page/400円





 いつからだろう?
 自分が人形つかいなのだと思うようになったのは。
 操っているのは、自身の肉体。本当の自分は地上よりもずっと高い場所にいて、見えない糸で肉体を動かしているのだと考えるようになったのは。
 そしてそう感じてしまう自分が異質なのだと、気づいてしまったのは一体いつのことだったろう。
「人間なんてね、所詮は地球上に存在する生物の一形態でしかありません」
 深いバリトンの響きが私を呼んでいる。
 目を開くと、いつの間にか私は見知らぬ男とテーブルごしにむかいあっていた。
「生き物というのは、本能に従って活動するものなのです。だというのに人間だけが道徳などという、自らが生みだした枷に縛られてあがいている。滑稽な話だと思いませんか?」
 唄うような抑揚で言葉の刺を隠しながら、男は同意を求めてくる。
 まっすぐに私をみつめる男の目は、深淵の闇をも連想させる暗い青。顔立ちは独特で、あらゆる人種の良いところだけを凝縮して作りあげたようだ。髪は白いが肌には皺ひとつなく、五十を過ぎているようには見えない。しかし目の色の深さは、彼が外見以上の年を重ねている証だろう。

<中略>

 きまぐれな風が、ふたたび亜沙花の体をなぶったのはそのときだ。
 瞬間、亜沙花は自分を目覚めさせたものの正体を悟った。それは風に流され、どこからか漂う楽園の香りであったのだ。
 たとえるならそれは、人がいまだ踏みいれたことのない、深い森に包まれた湖のほとり。したたり落ちた朝露が若葉に弾ける瞬間の、清涼感あふれる緑の匂い。幻想的な光景までを脳裏に描かせるほどのかぐわしさだ。
 匂いの正体をたしかめようと、亜沙花は風上へと視線を投げた。そして舗道の隅で体を丸める白い猫に目を止める。
 ちいさな猫は、瓦葺きの屋根を持つ古ぼけた木塀に寄り添うように体を丸めていた。
 足音を殺して、猫へと近づく。
 だが一歩近寄っただけで、猫は亜沙花の気配に感づいた。
 頭をもたげて、蜂蜜色の双眼で亜沙花を見据える。子猫のそれとは思えないほど不敵な視線。だが亜沙花が立ち止まったのは猫にひるんでのことではない。
 猫は口に小枝をくわえており、それこそが亜沙花が求める香りを放っていると気づいたからだ。
 深緑色の葉はベンジャミンとよく似た形をしている。南天を思わせる小粒の実は、鮮やかな朱色が輝くよう。そして枝は、その全身から芳香を放っているらしい。
 香りに心を奪われたまま、亜沙花は微笑む。
 猫は枝をくわえたまま、警戒の視線を亜沙花にむけている。
 その耳が、ぴくりと動いた。
 人気がないとはいえ、ここは住宅街だ。当然、家屋には人が住んでいる。猫が聞きつけたのは、どこかのドアが開閉される音だろう。ついで金属製の階段を歩く足音が響いてきた。姿はまだ見えないが、猫には足音の持ち主が分かっているようだ。
 猫は亜沙花に尻をむけ、舗道を走りだしていた。木塀に囲まれた民家の隣は、木造モルタルの二階建てアパートだ。猫はその敷地の前で立ち止まると、だれかを出迎えるようにアパートへと視線を投げる。
「やあ琥珀。散歩かい?」
 アパートから出てきた男は、そう問いかけながら猫の前で膝をかがめた。
「なにをくわえているんだ? まさか毒草じゃないだろうな」
 鼻筋の通った横顔に不安げな表情をうかべる男を、亜沙花は知っていた。名前は神庭旭春。部署は違うが、亜沙花とおなじ会社に勤めている男だ。昨年入社したばかりの旭春は、亜沙花よりも三歳年下だったろうか。
 琥珀と呼ばれた猫は、甘えるように旭春へとすり寄った。旭春もまた、慣れた手つきで猫を抱いて立ちあがる。旭春の胸のなかで目を細める猫は、いまだ亜沙花を魅了した小枝を口にくわえている。
 そう気づくと同時に、亜沙花は地面を蹴っていた。衝動に駆られるまま、旭春にむかって駆けだした。
「……坂部さん?」
 とまどい気味の旭春の声すら亜沙花には届かない。
「その猫、離さないで!」
 叫びながら猫へと腕を伸ばす。声に驚いたのか、琥珀はびくりと体を強ばらせた。小枝を求めて猫の口元へと伸ばした指先が、わずかにその葉に触れる。
 しかし枝をつかむことはできなかった。旭春が猫を頭上に持ちあげてしまったからだ。
「どうしたんですか、坂部さん」
「ダメよ、はやく猫を貸して」
 猫を降ろさせようと旭春の腕を引くが、男の力には敵わなかった。無理と分かっていても諦めきれず、亜沙花は旭春の腕を放さない。
「待ってください。この猫に触ったら……。琥珀、おまえも暴れるなって」
 猫もまた、旭春の制止をきかなかった。喉の奥から拒絶の声をもらして身をよじる。
「猫が逃げるわ。もっとちゃんとつかんで!」
 不安にかられるまま、さらに旭春の腕を引く。一瞬、旭春の注意が猫からそれた。猫はその隙を見逃さず、旭春の手から飛びだした。
 旭春の頭を経由して、音もたてずに地面へと着地する。同時に猫は駆けだしていた。白い毛糸玉を思わせる姿が見る間に遠ざかり、アパートの壁にあいた穴をくぐって消えてしまう。
 それは人間には決して通ることのできない、ちいさな穴。
「ええっと。坂部さん?」
 状況を理解できない旭春が、亜沙花の名前を呼んでいる。無用のいらだちを誘うほどに不安げな声だ。その感情を隠さずに、亜沙花は旭春をにらみつけた。
「どうして手を離したのよ? 逃げちゃったじゃないの!」
 亜沙花の剣幕に驚いた旭春が後ずさりかける。それを許すまいと、亜沙花は旭春のシャツを掴んだ。
「あの猫、あなたが飼っているの? どこに行ったか分からない?」
「すみません。琥珀がなにか悪さでも?」
「猫じゃないのよ、用があるのは、小枝のほうよ!」
「坂部さん、お願いですから落ち着いてください。俺にはもう、なにがなんだか……」
 途方にくれた声をもらして、旭春は亜沙花の肩を押さえた。遠慮がちな感触を覚えたとたん、亜沙花は正気をとりもどした。
 気がつけば、亜沙花は体が触れてしまいそうなほど旭春に接近している。
 ……これでは、彼に抱きついてしまったようなものだ。
 羞恥に全身が熱を帯びた。旭春の腕を振り払って背後に飛び退く。
「ごめんなさい! わたし、つい……」
 感情が入り乱れて、うまく話すこともできなかった。視界に映っているのは己の足元。いまさら旭春の顔を見ることはできない。
「琥珀は、隣の家で飼われている猫です。変わった体質をしているから。触るだけでも肌がかぶれてしまうと説明されていて」
 だが旭春は平然と猫を抱いていた。亜沙花の形相に驚いて、とっさに猫を庇ったというのが実状だろう。
「そういえば、坂部さんもこのあたりにお住まいなんですよね。何度か駅でみかけたことがありますよ。散歩ですか?」
「……猫が。猫がくわえていた小枝が、とても良い匂いをしていたから。だからどうしても欲しくなって」
 会話がかみあっていないことにも亜沙花は気づかなかった。何故あんな行動をとってしまったのか。亜沙花自身、考えても理解はできない。己の愚かさを呪っても、呪い切れずに亜沙花は拳を握りしめる。惨めさにさいなまれて、心は張り裂ける寸前だった。
「本当に、ごめんなさい。だから」
 忘れて。
 その一言を告げる前に限界が訪れた。旭春に背中をむけて、逃げるように走りだす。
「坂部さん?」
 予想外の行動に、旭春はすぐに反応することができなかった。数秒遅れて腕を伸ばすが、指先はむなしく宙をさまようだけだ。
 亜沙花から目をそらすことも、その後を追うこともできずに立ちつくす。
 そんな旭春の注意をひくように、隣家の門扉が音をたてて開かれた。
 亜沙花と衝突しそうな勢いで門から飛びだしてきたのは小泉蓮だ。この春に小学校六年生となった少年は、ひどく慌てているらしい。
「神庭さん! 琥珀を見なかった?」
 旭春にむかって駆け寄りながらも、その視線は落ち着きなく周囲を見回している。
「琥珀なら、アパートの壁をくぐっていったけど」
「それっていつ頃のこと? あいつ、なんか持ってなかった?」
 息を切らせているのは、家の内部でも琥珀を探していたためか。
「ほんの一、二分前だよ。赤い実のついた枝を持っていたけど」
「やっぱりあいつの仕業だったんだ!」
 叫んで、蓮は目じりを吊りあげた。
「ほんとにろくなことしないんだから。あいつが悪さするたびに、俺が師匠に叱られてるのに!」
 罵りながらも、蓮の視線は琥珀を探し続けている。
「あのさ。あの枝が一体なんだっていうんだい?」
 亜沙花も蓮も、何故あんな枝に執着するのか。そして何故自分が八つ当たりを受けなくてはいけないのか。首をかしげる旭春にむけられたのは、氷のように冷ややかな蓮の一瞥。
「あいかわらず鈍いね。ウチの看板になんて書いてあるか、もう忘れちゃったんだ?」
 旭春が住むアパートの隣家には、少々変わった看板が掛けられている。「佐伯毒草園」というのがそれだ。「人体に有害につき立入禁止」という注意書きは、人をからかってばかりいる主人の性格をよく表していると言えるだろう。しかし旭春には七生の話がすべて嘘だと言い切る自信もない。



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