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徒花は血のごとく 1

〈珠玉の毒〉は、自分自身を殺せない。
過去のしがらみを自らの手で切り捨てたフェイツイ。しかし決断を迫ったはずの七生は、平然と彼女を裏切っていた。
フェイツイと七生の「約束」。旭春がついに気づいた七生の本性。さまざまな絆が揺らぎ始めたとき、彼らのまわりには不穏な影が忍びよろうとしていた。
シリーズ第9-1弾 B6size/74page/400円





 赤は嫌い。
 凍てついた暗闇に育ったわたしにとって、太陽の光や炎の熱はひどく遠い存在だった。赤で示される情熱や活気や愛情も、わたしは知らずに生きてきたのだ。
 唯一、身近な赤といえば血液のそれぐらい。
 だが体内を巡る血の色を、生命力の象徴と考えることには納得がいかない。いくつかの例外を除いて、血液が目に触れるのは怪我や病気のときだけだ。ならばその赤は「生」ではなく、「死」に分類されるべきものだ。
 赤い色は大嫌い。
 なのに何故、わたしの体は赤にまみれているのだろう? 

 嫌悪する赤の世界に閉じこめられて、少女は途方に暮れていた。瞬きさえも忘れ、呆然と床に座りこんだまま動けない。
 視界に映っているのは、中国趣味で統一された室内の光景。床には精密な散花文様が広がる色鮮やかな段通が敷かれている。黒壇製の家具はすべて機能美に特化した明朝時代のそれで、空間を彩っているのは唐三彩や白磁に青磁など、この土地で花開いた文明が誇る陶磁器たちである。
 だが建物自体は石造りの洋館だ。ちいさな窓から射しこむひざしは、調度品に落ちる影を強調するものでしかない。
 薄暗い屋内も、屋敷を囲む毒草ばかりの庭も、少女は好きになれなかった。だというのに、少女の世界はこの家の敷地内で完結していた。この世に生まれ出た瞬間から、彼女はあの老人の玩具にすぎなかった。
 二階のバルコニーに面したこの部屋で過ごす時間が長いのは、窓から少しだけ街並みが、そのむこうに広がる海を見ることができたからだと、いまさらのように少女は思う。
 だがそれも過去の話だ。
 気に入りの場所を汚してしまったのは少女自身。自分は、二度とこの部屋に足を踏み入れることはないだろう。
 自嘲に口元を歪ませていると、床に投げだしていた足に柔らかな感触を覚えた。見ると、ちいさな白猫が少女の膝頭に前足を乗せている。
 まっすぐに少女を見上げる双眼は澄んだ蜂蜜色。どうしたの、と問いかけるような鳴き声が響いてきて、少女は愛おしさに目を細める。
「ダメよ、虎魄」
 否定の言葉を放ちながらも、右手は無意識のうちに猫へと伸びる。だがいまさら自分が猫に触れることはできないのだと、己自身に言い聞かせて腕を降ろす。
 薄汚い赤に染まった室内。そのただ中にいる自分もまた、鮮血に塗れている。自分のせいで、真っ白な猫の体を汚したくはなかった。
 だがそんな思いは猫には通じない。何故抱きあげてくれないのかと、不満げな目が訴えている。そして待ちきれなくなったのだろう。足にかかる力が増して、猫はみずから少女の膝に乗りあげた。
「ずいぶんと面倒なことをしてくれましたねえ」
 間延びした男の声が聞こえてきたのは、猫の行動を制止しようとしたときだ。
「癇癪持ちのあなたのことだから、いつかは仕出かすと思っていましたが。とはいえ、もう少し場所を選んで欲しかったものです」
 倒れた椅子。重量のあるテーブルはわずかに位置を変えるに留まったが、その上に置かれた食器は破損を免れなかったらしい。ぽたり、ぽたりと卓上から何らかの液体がこぼれ落ちていくのが見えた。
 水滴が落ちゆく先を目で追うと、ヒトであった物体が視界に映りこんでくる。辛子色の漢服はテーブルからしたたり落ちる液体と本人が吐きだした血に染まり、もはや本来の色彩を留めていない。
 元々、枯れ木のようにやせ細った老人だった。その外見以上の年月を生きてきた男の目は黄ばんでいて、その目にみつめられるのが苦手だった。貧相な体つきとは裏腹の、我欲を隠さぬ視線の強さに怯えていた。
 光を失った老人の体は、ひとまわりもふたまわりもちいさくなったように見える。だが老人が死してなお浮かべる苦悶の表情が自分を責めているような気がして、少女は震えた。
「この段通は、明時代の貴族が金にあかして作らせた最高級品だったんです。こんなに汚してしまっては、もう捨てるしかない」
 もったいないことを、とつぶやく男は床に膝をつき、老人の亡骸を検分している。老人の死相を、皺だらけの喉を己で掻きむしった痕を見れば、その死因が穏やかなものではないと理解できるはずだ。
 そう。この老人を、己の父親を。死に追いやったのは、珠玉と呼ばれる猛毒なのだ。
「においから察するに、使ったのは血液でしょう。知っていましたか? あなたの毒は、その効力を発揮したそのあとに、もっとも強く薫るんです」
「……怒らないの?」
 死体を前にしているとは思えないほど楽しげな口調。ふだんは感情を浮かべることも希な男の口元が笑みを形作っていると気づいて、思わず問いかけてしまう。
 佐伯七生は老人の弟子として、十年以上前からこの屋敷に住み着いている男だ。幼い少女の世話を任せられることには不満があったようで、慇懃無礼な態度にはずいぶんと泣かせられた。だが師と崇める老人には従順で、命じられれば顔色ひとつ変えずに人を殺すこともあったと知っている。
 飼い主に忠実な番犬。そんな印象を抱いていた男はしかし、飼い主の死をあざ笑うような表情を崩さない。
「あなたの毒は強力ですが、味も、においも強すぎるのが難点でしてね。それを誰よりも理解していながら、毒の存在に気づかず飲み干した。油断がこの男を殺したのですよ」
 老人の死は自滅なのだと、七生の表情が告げている。弱肉強食のこの世の中。老人よりも少女のほうが強かった。ただそれだけのことだと、七生は己の師匠の死を切り捨てる。
 少女には理解できない思考だった。ただ他人の命を省みない姿は、老人のそれとよく似ている。結局七生も、少女が嫌悪した老人とおなじ世界の住人なのだ。そして簡単に老人を殺害できる手段を持つ自分も、また。
 ふいに強い恐怖を覚えて、少女は震えた。膝に乗る猫がひときわ大きく鳴いて見せたのはその瞬間。呼びかけを無視できず、少女は猫を抱きしめた。
 乱暴な動作を咎めもせず、猫は少女に体をゆだねた。自分を慰めようとする猫が愛しくて、そして自分に付着していた血液が体毛を汚してゆくことに胸が痛んだ。
「いまさら、なにを怯えているんです」
 大仰な吐息が、やけに近くから響いてくる。顔をあげると、老人の側にいたはずの七生が目の前に立っていた。
「あなたは自分の勝利を祝うべきだと思うのですがねえ。それとも父親を殺したことを後悔しているのですか、フェイツイ?」
 父親殺しは衝動的な行動に過ぎず、いまになって怯えているのか。暗い笑みを含んだ視線が、冷ややかにフェイツイを見下ろしている。
 これがこの男の素顔なのだろうか。
 そんなことを考えながら、フェイツイは無言のまま首を横に振る。老人を殺害したことに悔いはない。悔いているとしたら、お気に入りの部屋と服を汚してしまったことぐらい。
「では、なにを嘆いているのです」
 猫を抱きしめても、体の震えは止まらない。感情を映さないエメラルドの瞳で七生を見上げながらも、少女の体は声なき悲鳴をあげている。
「わたし、殺せなかった」
 顔を伏せれば、足下に広がる血溜まりに沈む小刀が目についた。湾曲した刀身。柄の部分に宝石を散りばめた護身刀だが、その刃は鋭く、少女の力でも簡単に肉を引き裂くことができた。
 その瞬間に走った痛みも、己の首から吹きだした鮮血に視界が赤く染まったことも覚えている。そう、あれは幻ではない。
 フェイツイは、たしかに己の頸動脈を切り裂いた。それでも彼女は、自分を殺すことができなかったのだ。

      〈中略〉

 毒を扱う七生のまわりには、死が溢れている。  摂取した瞬間に人を絶命に至らせる猛毒や、それとは真逆の遅効性を誇る秘薬。毒草園に出入りするようになって、旭春はさまざまな毒の話を聞かされてきた。
 七生の口調はひどく軽くて、だから旭春は、その話をおとぎ話のように捉えていたのだ。七生の毒が、そして七生本人の手が実際に生物の命を奪っているという可能性を考えないで来てしまった。
 変わり者だが憎めない隣人として馴染んでしまったいま。七生が行ってきた行為についてどう反応すればいいのかが、旭春には分からない。
 旭春と七生を隔てているのは、薄暗い廊下。その闇に足を踏み入れることができずに、旭春は三和土に立ちつくす。
「フェイツイにマンションを贈られたそうですね」
 言葉を探しあぐねる旭春に痺れが切れたのか。唐突な七生の言葉に旭春は耳を疑った。
「つまりは伯爵の持ち物ということですから、そのマンションには近づかない方がいいでしょう。だがいまのアパートから引っ越すことには賛成です」
「佐伯さん?」
 鍵を投げ渡されたマンションの存在を、何故七生が知っているのか。何故、引っ越しを勧められるのか。そして何故このタイミングで、七生はそんなことを言いだしたのか。
「あなたの前では猫をかぶっていますが。琥珀がこれまでに何人もの命を奪ってきたのは事実です。そして私自身の手も、琥珀以上に血にまみれている。あなたは、それが許せないのでしょう」
 だからこそ、有毒生物の実験にどれほどの犠牲が出たかを確認しようとした。そう告げて、七生はわずかに口元を歪めた。
「あなたを顧客に迎えたのは、琥珀が懐いてしまったからです。あの猫に気安く触れるあなたには、毒を分解する薬草茶を飲んでもらう必要があった。ですがあなたがこの町から出て行くなら、その必要もなくなります」
「待ってください。俺が言いたいのはそんなことじゃなくて……」
 旭春に口を噤ませたのは、冷ややかすぎる七生の視線。ふだん浮かべている人が良さそうに見える表情はいつの間にか消えていた。ただまっすぐに旭春をみやる七生は無表情で、それがひどく冷酷に映ったのだ。
 廊下に落ちる闇を挟んで向かい合っているのはこの一年、それなりに交流のあった変わり者の隣人。理性はそう判断しているのに、感情がそれに異議を唱えている。表情を消した七生は、それだけで別人のように雰囲気が変わった。威圧されているわけでもないのに、その視線の暗さに飲まれて体が強ばる。彼を包む闇がひときわ濃く感じるのも、気のせいだけではないはずだ。
 ……ああ、そうか。
 旭春は意識してゆっくりと息を吐く。
 いまの七生であれば平然と、顔色ひとつ変えずに人を殺めてしまうだろう。その姿を想像することに違和感さえ覚えない。そう、彼は数多の毒を自在に操る薬種商。その手が血の穢れに塗れていないと考える方が不自然だ。
 ただ自分が、それを見抜けずにいただけで。
 旭春が見慣れた姿は擬態に過ぎず、いまの姿が七生の本性なのだと、ようやく気づいた。



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