To the bright side

 別の地域格差
 最近、「地域格差」ということをよく聞く。地域格差というと、一般的には地域の所得格差を指す。私は、別の地域格差を見つけて、そのことをグラフにしてみた。

 これはあまりマスコミでも取り上げられないし、(気付いている人もいるのかもしれないが)公になることが極端に少ない。

 話は交通事故統計から始まる。昨年の全国の交通事故死者数は、54年ぶりに6,000人を下回ったと、年初に報じられた。 それによると交通事故死者数が最も多い都道府県は愛知県の288人、最も少ないのは鳥取県で34人とあった。(警察庁の交通事故統計)

 これって、人口が多いところは、交通事故による死者数も多いということなのではないか、と思った。それで、それぞれの都道府県の人口10万人当たりの交通事故死者数を計算してみた。平成19年の上位、下位5都道府県はそれぞれ次のようになる。

人口10万人当たり交通事故死者数の多い都道府県
高知県 8.36
岐阜県 7.79
山口県 7.75
香川県 7.73
栃木県 7.39
人口10万人当たり交通事故死者数の少ない都道府県
東京都 2.12
神奈川県 2.68
大阪府 2.81
沖縄県 3.14
埼玉県 3.22

 最も多い高知県は、最も少ない東京都に対して4倍近く交通事故で死亡する確率が高い。
 総じて大都市圏では人口10万人当たりでみると、交通事故による死者は少なくて、地方では多いということがわかった。

 これって明らかに地域格差ではないか。

 ただし、年によって変動があって、たまたま平成19年は高知県がワースト1で、それに岐阜県、山口県が続くという結果になった。因みに平成18年のワースト1は香川県で、2番目は三重県だった。

 これに対して、10万人当たり死者数が少ないのは、東京都、神奈川県、大阪府で変わらない。考えられるのは、大都市圏では地下鉄や電車など公共交通が発達していて、自家用車に乗る人が地方ほど多くないのではないか、ということだ。

 自家用車の利用者が多い地方ほど交通事故も多く、人口10万人当たりで比較すると事故による死者数も多く出る。ここで、疑問なのは、沖縄県や長崎県の死者数が少ないということだ。上の表には沖縄県しか出てないが、長崎県は3.89人で7番目に少ない県になっている。

 そこで沖縄や長崎は大都市圏と似た地域構造になっているのではないか、ということを考えた。どういうことかというと両県とも細長く、四方が海に囲まれている。

 その地形的制約のために、日本の一般的な地方のように市街地を区画整理事業などにより縦横に拡大していけなかったのではないか。そのため大都市圏のように人口が密集する地域構造になった。

 実際、平成17年国勢調査の結果を見ると、長崎県は地方の中では、ややDID(人口集中地区)人口密度が高いという程度だったが、沖縄は、顕著に高かった。

 公共交通が発達するには人口が密な方が都合が良い。日本の一般的な地方では市街地が拡散型になっていて人口密度が低いため、公共交通が発達せず、自家用車利用が多くなっている。

 それが結果的に、交通事故による死亡者の増加という別の地域格差を生むことになってしまった。グラフ(都道府県別人口10万人当たり交通事故死者数)は、横軸にDID人口密度、縦軸に人口10万人当たり交通事故死者数を取って、47都道府県をプロットしたものだ。

 左側にある都道府県は人口密度が低く、人口10万人当たり死者数は多い。逆に右側に行けば死者数は少なくなる。

 右側にある都道府県の方が人口密度が高く、コンパクトな構造になっている。コンパクトシティのような地域構造を持っている方が交通事故に遭う確率は低く、人間にやさしいと言えるかもしれない。
(2008.2.8)

 納得のいかないこと
 どうしても納得のいかないのは、政府・自民党の道路特定財源を維持しようという姿勢だ。
 衆参両議長のあっせんもあって「つなぎ法案」こそ撤回されたが、これからもう2ヶ月間、自民と民主の攻防が続く。

 そもそも高速道路をどんどん建設して、自動車を高速で走らせても渋滞の解消にはつながらないし、日本の巨額の財政赤字を必要とする財政システムは温存されたままだ。

 これが高速道路を車間距離1m、時速130kmぐらいで走らせれば、少しはラッシュアワーの解消になるかもしれない。
それが
(当たり前のことだが)できない、運転しているのは人間だから。すぐ玉突き事故を起こしてしまう。

 自家用車は大量輸送には向いてない。それに環境にも良くない。40人がそれぞれ40台の自家用車で行くのと、1台のバスで行くのでは、どちらが環境に良いか。

 それでも政府・自民党は、ガソリン税の暫定税率を継続し、道路特定財源を維持しようとする。そして既定の方針のとおり高速道路を整備しようとしている。

 最初に納得のいかない云々と書いたのは、最近は暖房の設定温度を19度にするようにとか省エネ運動が盛んだが、自家用車から公共交通に乗り換えよう、という声があまり聞かれないことだ。

 国(政府・自民党)が率先して、高速道路を整備するという姿勢を示している。これは、もっと自動車に乗りましょう、と言っているのと同じだ。地方も国に追随しているのは、財源をしっかり国に握られているからだ。

 日本は環境先進国だとよく聞くが、私から言わせれば、言葉の誤用以外の何物でもない。

(2008.2.2)

 「新風舎」の破綻
 先週、自費出版大手の「新風舎」が倒産したというニュースがあった。
 実は、私もこの会社に原稿を送ったことがあって、そのときはその盛況ぶりに我が目を疑った。

 ニュースによれば、契約して、まだ未出版の著者が約1,000人もいるという。これって昨年破綻した、例の英会話学校と似ているな、と思った。

 破綻のきっかけは、どちらも客(著者、生徒)がクレームを出して、裁判沙汰になったことだ。それまでは、成長路線を歩んでいた。飛行機みたいなもので、順調に飛行していると思いきや、突然、墜落してしまう。

 どちらも夢を売る商売だ。顧客も会社と一緒に夢を見続けてくれればいいが、夢からさめてしまえば、会社の憎らしさばかり目立つということか。

 私の場合は、あまり出版する気もなかったので「新風舎」とのお付き合いは、それ以上発展しなかったから良かった。そもそもネットの時代になって、紙で印刷しなくても、いくらでも情報発信ができる。

 20年以上前に自費出版を一度経験したので、相当のことがない限り、自費出版はもうやらない。資源の無駄遣いのような気もするし・・・・。
(2008.1.26)


 意見交換会
 一昨日の意見交換会は、提案者8人全員出席だった。
 朝から年休を取っていたので、『自分の考えを「5分でまとめ」「3分で伝える」技術』(和田秀樹著 新講社刊)を軽く読んで、それから意見交換会のときに言うことを紙に書いて、何回か話す練習をした。

 プレゼンのときもそうだったが、パワーポイントで時間を測りながら練習をすると、途中で口が回らなくなって、よどみなく、流れるように話すことは自分にとって不可能なのではないか、とさえ思われた。
 それでも4、5回それを繰り返し、紙に書いたことを手直ししたりしていると、何とかなりそうだという気がしてきた。

 本番では、会場を設営した事務局、それからその地区のトップの心づかいもあって、自分の考えてきたことは、緊張しないで、ほとんど言えた。もちろん昼食の弁当も完食した。

 トップには耳の痛いことだったかもしれないが、言ったことはすべて事実なのだから仕方がない。あとはトップの決断を待つだけだ。
(2008.1.20)

 前日の決断

 いよいよ明日、トップとの意見交換会がある。提案者は当地区で8人ということだったが、みんな出席するんだろうか。提案者はオレ1人だけの出席なんてことにならないのか。不安がよぎる。

 復活した英会話学校のレッスンも最初だけ生徒2人で、それ以外はラッキー・マンツーマンという状態が続いている。この意見交換会もトップとのラッキー・マンツーマンだったりして・・・・。

 昼食会をはさんでの意見交換会ということだが、昨年10月のプレゼンでは、待ってる間、喉がカラカラになった(ブログ「プレゼンが終わって」)。ラッキー・マンツーマンだったら、ごはんが喉を通らないような気がする。

 去年から、この意見交換会の話が来ていて、いろいろ考えた。
 結局、トップと間近に会って話すなんてことは滅多にないから、考えてきたことは、時間の許す限り全部話すことに決めた。

 出席者は少なければ少ないほど良い、自分の意見を言う時間がそれだけ多く持てるから。

 しかし、プレゼンでは原稿を読むだけだったが、こういった自由討論の形式で、うまく話せるのか、口下手のこのオレが。
 やっぱり『自分の考えを「5分でまとめ」「3分で伝える」技術』(和田秀樹著 新講社刊)を再読しよう。まだ1日ある。

(2008.1.17)

 「コンパクトシティ」ノート
 先週、コンパクトシティのことをブログに書いたら、すぐに反応が来た。(NHK『日本の、これから』を見て
 意見を寄せてくださった方のリンクにも行ってみたが、コンパクトシティについては誤解が多いような気がして、簡単に要点だけまとめてみることにした。

都市化
 戦後日本は、地方から都会へ、地方の中では郡部から都市部へと人口移動があった。「都市化」と言われる現象だ。都会では過密、地方の郡部では過疎の問題が生まれたりした。人口が流入してくる都会や地方の都市部では土地区画整理事業などをして居住地面積を増やした。都市の市街地は拡大してく。

 市街地を把握するモノサシとして人口集中地区(DID、Densely Inhabited District)がある。例えば、「市」という名前が付いていても実際は田園地帯だったり原野だったりすることがよくある訳だが、人口集中地区であれば、そこは間違いなく市街地、真の市街地ということになる。(ある市の中でも人口集中地区とそうでないところがある。「町」であっても人口集中地区になっているところがある。)

地方の低密度居住
 その人口集中地区に住む人の割合が戦後一貫して増え続けていて、それが、都市化社会と言われる所以だが、そしてさらに大都市と地方を分けて観察すると、そこにまた大都市と地方の特徴を見てとることができる。大都市では、地方と比べて人口集中地区内の人口密度が高いが、地方ではさらにそれが年々下がってきている。

 どう言うことかというと、これは自家用車利用に関係する。大都市の場合は高密度で人が住んでいるため、その1人1人が自家用車で通勤したり買物に行ったりすることは事実上、不可能だ。大渋滞を引き起こし、都市生活が麻痺してしまう。そのため電車やバスなど公共交通機関が発達している。

 これに対して、地価が低く、もともと大都市と比べると人口密度の低い地方では、自家用車利用が一般化してきており、ますます人口集中地区内の土地利用が低密度で行われるようになってきている。

中心商店街の状況
 最近の郊外型店舗を思い出してほしい。どこも広い駐車場を備えていて、客が自家用車で来ることを前提に建てられている。最近の地方都市では、このためバイパス沿いに、こういった郊外型店舗が立地し、従来からの中心商店街には客が集まらず、寂れてくる、という現象が全国どこでも見られる。

 このため1998年にまちづくり三法(中心市街地活性化法、改正都市計画法、大規模小売店舗立地法)が制定されたが、その結果、旧大店法の廃止により、逆に大型店の郊外立地が加速されたりして、効果があらわれてない、というのが大方の見方だ。

 昨年は、その反省を踏まえ、中心市街地活性化法と合わせて、都市計画法も改正され、延床面積1万uを超える大規模集客施設は今年の11月から商業地域、近隣商業地域、準工業地域以外は立地できなくなった。

コンパクトシティとは
 私が思うに、コンパクトシティの考え方は、これらの施策のバックボーン、まさしく理念ともいうべきものであって、直接、個別の施策に当てはめるようなものではない。国でコンパクトシティの旗振りをしているから、中心市街地にばかり投資が集中し、郊外は切り捨てられるという、そういう次元の話ではない。

 自家用車は利便性も高いが、マイナス面もあるということを自覚し、過度な自家用車利用を避けるとか、公共交通機関利用に切り替えるなど、住民1人、1人の意識を変えていく必要がある。我々は、そういった大きな時代の転換点に立っているような気がする。

キーワード:人口集中地区(DID)
(2007.5.27)

 去年見た映画
 去年(2006年)見た映画をまとめてみた。

タイトル 鑑賞日 満足度
空中庭園 1/2
ミュンヘン 2/11
嫌われ松子の一生 6/3
花よりもなほ 7/2
X−MENV 9/12
デスノート 11/5
硫黄島からの手紙 12/22

 7本だけで、あまり多くない。
 全体を通して言えるのは、最近は洋画よりも邦画の方が面白いということだ。

 『硫黄島からの手紙』はクリント・イーストウッド監督のアメリカ映画ということになっているが、登場人物はほとんど日本人だから、これも日本映画に含めると、昨年、自分の見た7本の映画のうち5本が日本映画ということになる。

 去年はがっかりさせられた映画がなかった。どれも自分好みで、良い作品ばかりだった。
 特に『硫黄島からの手紙』はブログやホームページにも書かなかったが、時々「書く」という行為について考えさせられた。

 硫黄島の日本兵は本土の家族に向けて、よく手紙を書いていた。書くことによって苦しい戦闘を忘れて、書いている間だけ気持ちは本土にあったのかもしれない。
 自分も書くことが好きだが、硫黄島の日本兵も同じなのだ、と思った。

 それから『嫌われ松子の一生』を見て、言いようのないショックを受けた。
 今思うのは、この映画は自分の生き方に影響を与えたかもしれないということだ。

 以上が去年の映画からの収穫だった。
 (2007.5.11)

 映画『バベル』を見て 
 菊地凛子さんがアカデミー賞助演女優賞候補になったことで話題になった映画『バベル』を見に行ってきました。

 映画を見ての感想は人間の本性を描いているのかな、ということです。性に関係する描写が結構ありました。

 よく分からなかったのはモロッコとメキシコの風景が似ていて(どちらも砂漠)、どうして急にメキシコからモロッコへ移動できるのか、と思いました。家に帰ってから世界地図を見たら、やはりモロッコは北アフリカにありました。

 ネットで映画の解説を見て、納得しました。
 リチャード(ブラッド・ピット)とスーザン(ケイト・ブランシェット)はモロッコに旅行していて、残された幼い子ども達は、家政婦に連れられてアメリカからメキシコへ行く。そして何故か日本も三つ目の舞台になっていて、菊地凛子さんが体当たりの演技を見せてくれるのです。

 詳しく知りたい方は映画をご覧になってください。
 メキシコの結婚式が何か賑やかで、人情味があふれていて、日本が失ったものが残っているような気がしました。

 これに対して、日本(東京)の街は華やかで、高層マンションに住んでいて、いかにも裕福そうなのですが、心の中は虚ろな感じ、何か満たされない感じなのです。題名の「バベル」は日本のあの高層マンションをバベルの塔と見立てて名づけたのでしょうか。

 モロッコのあの少年達は学校に行かないで、羊飼いの仕事ばかりしていたのでしょうか。息子に「もっと勉強したら」とプレッシャーをかけている自分が小さく思えました。
(2007.4.29)


 真面目と責任感について
 げんのうつ病闘病記というホームページを見ていたら、真面目な人や責任感の強い人がうつ病になりやすいとあった。それで考えたのは、真面目と責任感についてだ。

 真面目を広辞苑で引くと「真剣な様子」とあった。「真面目」には融通が利かないといった負のイメージもあって、誉め言葉としては、最近はあまり使われないのではないか。

 それに、一体何に対して、真面目なのか、真剣なのかということもある。収入を得るためなのか、出世するためなのか、有名になるためなのか、目的や対象がはっきりしない。

 これに対して責任感は、具体的な対象があるように思う。

 責任を広辞苑で引くと「人が引き受けてなすべき任務」、また、責任感は「責任を重んじ、それを果たそうとする気持ち」とある。人が引き受けてなすべき任務には、家族、職場、社会といった具体的な対象が考えられる。

 ただ問題だと思うのは、「人が引き受けてなすべき任務」をどの範囲までとするかだ。

 人それぞれで、それを広く捉える人もいるだろうし、狭い範囲に限定する人もいるだろう。あまりに責任感が強くて、いろいろなことを抱え込んでしまうと確かに、心配事ばかり増えてうつ病にもなりやすいような気がする。

 逆に狭い範囲に捉える人は、「あいつ自分のやらなければならないことをやらないで、好き勝手なことをしてる」と思われるかもしれない。人によって「人が引き受けてなすべき任務」の範囲にはズレがあると思うからだ。

 自分が普段生活している場で、どの程度までがその範囲なのかを、常々考えて行動する必要があると思う。
(2007.3.12)

 映画『それでもボクはやってない』
 昨日、映画『それでもボクはやってない』を見てきた。評判どおり良い作品だった。

 見終わった後、ネットで調べたら周防正行監督は、痴漢で間違えられた青年が一審で有罪判決を受け、二審で逆転勝訴となった事件をきっかけとして現在の裁判制度に疑問を抱き、あの映画を制作したとのこと。

 あれだけ、反証が出て有罪にした一審の裁判官もスゴイ(酷い)な、と思った。「疑わしきは罰せず」という昔習ったようなことが現実には通用していないという訳だ。
 痴漢犯人とされた被告は99.9%裁判で勝てない、と映画の中で言っていた。

 映画を見ていて高裁に控訴しても、どうせダメかもしれないと思ったが、実際は逆転無罪を勝ち取ったのだから日本の裁判制度も全く捨てたものではない。

 映画の中では、そのことについて触れてないから、とにかく周防監督は現在の「人質司法」制度とかを問題提起したかったんだと思う。自分自身や家族が犯人扱いされたら、嫌だもんね。人間のつくったものだけど、天災みたいな感じなんだから。
(2007.2.25)

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