マザー・ネイチャー

―「母親」はいかにヒトを進化させたか―

サラ・ブラファー・ハーディー (塩原通緒 訳、早川書房、2005)

 

本文だけで700ページに及ぶ大著。著者は人類学者ですが、社会生物学(行動生態学)や霊長類学も含めて、「母性(母なる自然)」に関するこれまでの知見、理論の総決算を試みています。

古来、「女性」は「母性本能」なるものを有し、自分の子供を無条件に、時には自分を犠牲にしてまでも、愛し育てるものだと考えられてきました。いや、そもそも、子供を産み育てることこそ、女性の本質なのだと。しかし、このような考え方は「家父長社会が生み出した神話」だというのが、フェミニストの主張です。どちらの側も、それぞれ根拠となるような「事実」を、動物や原始的部族社会の例から探してくるので、なかなか決着がつきません。

そこに登場したのが、20世紀英国の精神科医ジョン・ボウルビーの「愛着理論」。赤んぼうは、信頼する人物(=保護者。一般的には母親)との間に、愛着(アタッチメント)の関係を形成することが、後の心理的発達に重大な影響を及ぼす、というもので、この理論の影響で後に「3歳児神話」などという俗説も生まれました。これはフェミニストたちにとって重大な挑戦状となり、また本書の著者を初めとする女性人類学者・社会生物学者にとっても、この理論との格闘が大きな課題となったのです。

というわけで、本書はその「愛着理論」の科学的な正しさを認めるところから始まっています。愛着理論というのは、子が親に愛着することに関するものです。それでは、親、特に母親の方はどうなのか。出産直後に子と密接に接触することによって、またそのことによってのみ、わが子を大切に育てようとする意識が生まれるのか。その臨界期はあるのか。これが大きな争点となりました。本書の問題意識は最初から最後まで、この点に集中しています。

とはいえ、その他にも本書の主題は多岐にわたっています。哺乳類、特に霊長類と人間にみる「母性」の表現型の違い、人間のネオテニー(未熟な状態で生まれてきて、成熟に長期間がかかること)や出産間隔が異常に短いことの生物学的意味、人間における結婚や家族の役割、新生児・乳児の可愛らしさへの淘汰圧、などなど、興味尽きない話題が盛りだくさん。これらの話題を通じて、人間の女性も男性も、そして子供や赤ん坊も、それぞれが生きるため、繁殖価を高めるために、自然と社会の環境条件に応じて様々な策略を用いていることが、よくわかります。とくに、人類社会における子捨てや子殺しについての歴史的事実や文化人類学的知見が紹介され、このような行動に関する自然選択のメカニズムが詳しく追究されていますが、私の知らないことばかりで衝撃を受けました。

なお、第23章ではハリスの『子育ての大誤解』が批判の対象となっていますが、その批判はきわめて一面的で、反証例も少なく、ハリスの主張とかみ合っていないように思われます。おまけに、その10ページ後で著者が高く評価しているフランク・サロウェイの生まれ順に関する研究については、ハリスが『子育ての大誤解』で相当なページを割いて批判していますが、著者がこれを全く無視しているのはフェアではありません。

 

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