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黒猫リンカの物語
-3-
異変は、その二日ほど前から起こっていた。
サフィックスが人を雇って、屋敷を掃除させていたのだ。
それも、玄関と、そして客間を使えるようにさせた、というのだ。
サフィックスの家に客がある!
それも、あのサフィックスが、掃除に気を使うほどの大事な客!
一体、どんな重要な客が、彼の家にやってくるというのだろう?
人々が好奇心ではち切れそうになっているところに追い打ちをかけるように、サフィックスは水晶亭にやってきた。そして、翌日、客と共に夕食を取るからテーブルを予約したい、料理は最高のものにして欲しい、と申し込んだのである。
好奇心では決して人後に落ちない女将はさりげなく訊ねた。
「お客様はどのような方ですの?お食事にお好みや、苦手なものがあるといけませんから」
「ふん、好き嫌いなんぞあるもんか。ただ...」
「ただ?」
「あの男は、街で出るようなしゃれたもんが好きなようだな。肉や野菜をそのまま食うんじゃなしに、ほれ、変なタレをかけたりするようなやつだ」
「ソースやドレッシングを工夫したものがよろしいのですね。フラッグスに伝えますわ。彼も張り切ることでしょう」
「ふん、とにかく任せるわ」
サフィックスはいらだたしげに帰っていった。
その夜の水晶亭ほど込み合った食堂は、どこの街にもなかっただろう。
というのはオーバーかもしれないが、とにかく子供を除く村中の人間が、入れるだけ入ってテーブルやカウンターにはりつき、エール酒やビール一杯でねばっていた。だが話し声はほとんどなく、みんな、ひそひそとどうでもいいことをささやきつつ、目だけを隅のテーブルに向けていた。
言うまでもなくサフィックスとその客のテーブルである。
客は、サフィックスより少し若いくらいの男で、旅慣れた人間のようだった。少しくたびれてはいるが、上等な布地のうわっぱりを着て、明るい色の布を首に巻いている。あちこちの土地に行っている商人、といった感じだ。
迎え入れた女将に陽気に挨拶し、飲み物を運ぶコール嬢ちゃんに優しく笑って礼を言う。
女将も嬢ちゃんも、おろし立ての真っ白なエプロンをつけている。肩までの波打つ金髪をきれいにとかしつけ、少し頬を上気させた嬢ちゃんの姿はフラッグスを惚れ直させたに違いない。
客はサフィックスとグラスを合わせると、椅子に座り直してゆっくりとあたりを見回した。
「ここはずいぶん評判のいい食堂のようだね、人がいっぱいだ」
客はそんなことを言ってまわりの人々に笑いかけたが、人々はなんとなく苦笑いをするだけだった。
だが、たった一人、そんなことを気に介さず答えた人間がいた。
例の、長逗留していた金持ちである。
彼は、サフィックス達のすぐ脇のテーブルについていた。
「ええ、ここの料理は抜群なんです。ソレリの街でだって食べられるかどうかわかりませんね。僕はこの料理から離れられなくて、もう三日も居続けなんですよ」
「ほう、それは楽しみだ」
サフィックスの客は愛想良く答えた。
サフィックスの方は相変わらず苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。
客と金持ち男は会話を続けたそうだったが、そしてそれはその場にいた人間すべての願いでもあったのだが、サフィックスの表情のせいで、尻すぼみに終わってしまった。
客はサフィックスと違って礼儀正しそうな人間なので、招待主の顔を立てた、ということなのだろう。
ちょうどコール嬢ちゃんが、フラッグスが奮闘して作ったスープを運んできた。
澄んだ、混ざり気のない琥珀色の熱い液体。
客は一口啜って、
「すごい!」
と呟いた。
「こりゃ、本物だ。なるほど、あんたがこんな田舎を離れないわけがわかるよ...」
「そうですかね。まあ、あんたが気に入ったならよかった...」
なんてぶっきらぼうな言葉だと思うかもしれないが、日頃のサフィックスを知っている者達にとっては、これは、彼の最上級のお世辞だとわかる。
よほど、重要な客なのだ。
コール嬢ちゃんがスープの皿を下げて、すぐに次の皿を運んできた。
春のいろんな野菜を盛り合わせたサラダだ。赤や、緑の色が綺麗に木のボウルの上に並んでいる。
サフィックスの要求した通りにフラッグスはドレッシングも作っていた。街でやるように、別のグラスに入れて、めいめいが自分の皿に好きなだけかけられるようにしてある。
と、その時、サフィックスのテーブルのあたりから飛び出した物があった。
「おっと?」
ブーン、という音を聞いたとたん、オレは、定位置のカウンターの上から飛び起き、そいつを追いかけた。
小さな蜂が食堂に入り込んでいたのだ。
「こら!リンカ!やめなさい!」
コール嬢ちゃんや女将が叫んだが、オレはそこらのテーブルの上や客の頭を踏み台にして飛び回り、蜂を追いかけた。猫っていうのは、そうするものだからだ。
やがて蜂は窓から出ていったのか、見えなくなって、羽音もやんだので、オレは、気まずそうにカウンターに戻って座り、手足を舐めて「身繕い」をした。
「リンカ!どうしちゃったの!悪い子ね!」
「にゃああ」
顔を真っ赤にして怒る嬢ちゃんに、オレはせいぜいすまなそうに鳴いてみせた。
「お客さん、すみません。この猫はいつもお行儀がよくて、こんなことはしたことがないんですよ。食堂や厨房でも、決して盗み食いなんかしないんで、いつも出入り自由にさせていたんです。お気を悪くされたんでしたらすぐに外に...」
女将は平身低頭謝ったが、客も、金持ち男も、
「いや、何も被害はなかったんですから気にしないで下さい。虫を追い払ってくれたんだから、いい猫ちゃんじゃないですか」
と、逆にかばうようなことを言ってくれた。
たぶん、あのスープのおかげだろう。猫なんかのことよりもさっさと次のコースを試したかったに違いない。
好き勝手に暴れたように見えても、テーブルの上の料理や酒にはオレは足でもしっぽでも絶対触らなかったから、実際、直接の被害はないのだ。
女将は、同じように何も文句を言わず黙っているサフィックスを不思議そうに見ながら引っ込んだ。
客は嬉しそうに野菜を自分の皿に取り、ドレッシングのグラスをちょっと振って匂いを嗅ぎ、
「クローブが入ってるな。よしよし」
そしてたっぷりとサラダにかけ、フォークで器用に葉っぱを巻いてほおばった。
「うん、こりゃあいい」
サフィックスは相変わらず眉根にしわをよせてつまらなそうに野菜をつついている。
「いい酢を使っているな。あなたもかけませんか」
「あいにく、私はそういうしゃれたのは苦手でね。塩だけでけっこう」
客はそれ以上サフィックスに構わず、自分の舌を喜ばせることに没頭し始めた。
何を言っても木で鼻をくくったような返事しか返ってこないのだから、これ以上礼を尽くしても無駄だと悟ったのだろう。
まわりの人々も、もうあまり情報を得られる見込みがないとわかると、少しずつ自分たちのおしゃべりの方に熱中しだした。
だから、しばらくしてサフィックスが声を出した時も、はじめは誰も気づかなかったのだ。
気づいたときにはサフィックスは喉をかきむしって苦しんでいた。
「ど、どうしたんです?」
「サフィックスさん?」
答えはなかった。
サフィックスは立ち上がったがそのまま崩れ落ち、床に倒れた。
「きゃあ!」
「だ、誰かお医者を!」
だが、金持ち男が素早く彼に近づき、手首をとった。そして言った。
「無駄です。彼は死んでいる」
to be continued
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