隅田川神社  墨田区堤通2丁目17−1



ご祭神:速秋津日子神 速秋津比賣神 鳥之石楠船神 大楫木戸姫神  (配祀)水波之賣神 御井鳴雷神

境内の末社:粟島神社、金神社、天神社
若宮八幡神社、三財稲荷神社
(荒川放水路に水没した社で江戸地図では旧若宮八幡神社は四つ木橋付近、旧三才稲荷は新荒川橋付近)
境外末社:下稲荷神社、香取神社
(旧下稲荷神社は隅田小学校の南、東武伊勢崎線上にあった、香取社は不詳)

隅田川の総鎮守であり、水上安全の守護神として崇敬を集め、古くは「水神」又は「水神宮」と称しておりましたが、明治5年に隅田川神社と改称しました。
治承(1177-1180)の頃、源頼朝が関東に下った折、暴風雨に逢い、当社に祈願したと伝えられています。

現在の御社殿は嘉永元年造営のものが、安政2年の大地震で倒潰したため、安政5年に再建されたものです。
関東大震災及び太平洋戦争などで被害を受けましたがその都度修理を加え、現在の位置より北約25mに南面して鎮座していましたが、高速道路が神域をかすめることとなって御社殿に大修繕を加え、昭和50年6月現在の位置に遷座しました。


新編武蔵風土記稿に御神体龍神にて長七寸とあります。
速秋津日子神や鳥之石楠船神は伊弉諾伊弉冉神の子。
創建年代は不詳ですが、水神が亀に乗ってこの地に上陸されたという伝承が残るそうです。
古代ではこのあたりが利根川の河口ですから、海からやってきた人々がここに上陸していたかもしれません。

1487年の尭恵法師の北国紀行に「利根、入間の二河落ちあえる所に、かの古き渡りあり、東のなぎさに幽村あり、西のなぎさに孤村あり」とあります。
各地で戦国大名が旗揚げし、関東では北条早雲が伊豆を奪う頃です。
西の孤村が石浜、東の幽村が関屋(旧関屋、新荒河橋付近)でしょうか。

当社は浮島の宮とも呼ばれていたようで、入間川と古隅田川の水流がぶつかりあう関係で中洲が生じていたのでしょう。
(神社庁平成祭データ記載の当社縁起による)
中洲が東岸とつながってゆくのは利根川東遷によって古隅田川の水量が減り、ついには廃河となる1700年頃と思われます。

江戸時代での奥州路は千住大橋経由となっていて、当地は江戸庶民の観光地となっていたために水神という古典的な形を残したのかもしれません。
江戸名所図会に隅田堤は1574年に小田原北条氏が三圍神社から木母寺の間に築き、堤の左右に桃、桜、柳を植えられて、スミレなどの野草も絨毯のごとくで賞するに壮観であるとあります。

また、木母寺の北にある内川がかっての古隅田川の名残りだったようで、新編武蔵風土記稿によれば、かっての内川の川幅は100間(約180m)あり、北国紀行にも入間川と劣らぬ様子であったことが書かれています。

古隅田川と入間川はほぼ直角にぶつかっていて、たいへん複雑な水流になっていたと思われます。
その川筋のせめぎ合いの間に洪水にならない中洲があってそこに水神社(浮島の宮)が作られたでしょう。
古隅田川と入間川の合流部分の推定図



江戸名所図会に、昔は橋がなかったが今は浮橋がある、鹿島詣に浮橋を渡った「夫木和歌抄、1310頃」、とあります。
安藤広重 富山の船橋
こういう情景だったのでしょう。

また、太田道灌(1432-1486)が下総の千葉氏を攻めるために長橋三条を構えたという文の紹介と、1750年頃の文献の引用で、隅田川の渡しより一町ほど川上に昔の橋の古杭が水底に残っていて船の通行の障害になっていたとあります。

ここでいう隅田川の渡しがどこかはわかりませんが、当社のある中洲などを利用した飛び石伝いの橋だったのでしょう。
これが隅田川に最初に架けられた橋とみえますが、江戸時代にそれが修復されなかったのは軍事的な意味があったからかもしれません。

現在は高架道路に遮られて隅田川を見ることはできず、当時の面影はなくなっています。