縄文時代の江戸  1450年以前の江戸  1590年頃の江戸  江戸の堀と河川  1643年頃の江戸市街  明暦の大火少考

以下は東京湾および低地帯の地盤データによって推定した縄文時代の地勢とその変化です。
縄文海進時代に利根川などの土砂堆積が作った沖積平野が有楽町層で、下図の青の濃淡は関東地質調査業協会の深度データを地中の有楽町層以前の地盤である高砂層(東京層→安定地盤)までの深度を示すものとして作図したものです。


氷河時代(7万年前〜1万5千年前頃)の海面は現在より80mほど低かったと推定されていますが、図の濃い青の部分(-70m)が氷河時代の東京湾にそそぐ河川の河床だったと推定できます。

千葉県側の現材の江戸川周辺では谷が多数いりくんでいて、現在の平坦な地形ではなかったことがうかがえます。
東京側でも東京湾岸道路のずっと南まで低地が延びていて、ここを平川と石神井川が縦に切り裂いていたことがうかがえます。

模式断面図に七号地層という地層が地中深くにありますが、洪積世後期(ウルム氷河期〜1万年ほど前)の軟弱な粘土層で、当時の河床に堆積物が貯まった跡と思われます。

関東ローム層は七号地層とおおよそ同時代で、火山活動が活発だった頃の火山灰が酸化した地層で、海中であった部分は洗い流されて海面上だった部分を10mほどの厚さで均一に覆っています。
その表面は腐植土(黒土)で覆われていて、旧石器が関東ローム中からでる例外を除き、ほとんどの遺跡はこの黒土部分からの出土です。

現在の東京湾部分の断面は東京湾アクアライン構造図を参照。


古利根川
以降BC2000頃までは縄文海進の時代で、関東では東京湾が内陸まで進出しています。
ここへ古代の利根川系の河川や荒川、入間川が運ぶ土砂が堆積して深いところでは70mにも達する有楽町層という沖積層ができてゆきます。

BC2000頃から縄文海退がはじまり、沖積層が海面から顔を出し始めて東京湾の沖積平野化がはじまります。
川の運ぶ土砂と潮汐と潮流が運ぶ海砂が1万年をかけて堆積し、微妙なバランスポイントに堆積丘を形成して現代の川筋の原形ができていったと思われます。

古入間川や古中川がうねうねと蛇行しているのは、沖積平野に起伏がなかったためで、河川の運ぶ土砂が自らの流路を塞いで新たな流路を作ることを繰り返していたことを示しています。


左図は隅田川西岸のBC1万年〜BC2千年頃の地勢変化の推定図です(年代はごくおおざっぱです)。
(★マークは江戸城と日本橋の位置)

平川と石神井川

1万年前あたりでは、江戸前島の西側に平川が南に流れ、東側には石神井川が南に流れ、江戸前島は本郷台の延長上の低地と丘であったと思われます。

以下は地形などによる推測です。
平川は真っ直ぐ南に流れていたと思われますが、石神井川は有楽町層の−40mの谷が食い込んでいることと、−30m部分が石神井川の堆積によるものとみて、東へも分流していた可能性もありそうです。

縄文海進ピークの時代では平川では九段下あたりまで、石神井川では根津あたりまで海が進出しています。
浅草周辺や江戸前島の大半(標高4〜5m)の地域は海中となり、かっての河床など低地部は堆積物で埋まって平坦化し、潮汐による海砂を含む土砂堆積が生じてゆきます。

往古に深い谷だった場所が堆積土で埋まってできた部分を埋没谷というそうで、地震のときに特有の揺れを生じる危険地帯なのだそうです。
この頃の平川や石神井川の谷筋であった部分がそれに相当するとみえます。

海没した地域の表土は10m近い厚さの関東ロームに覆われていたはずで、その土は海によっていったん洗い流されてそれが再度堆積しているはずです。
その場合にどのような土質になるのかの情報を持っていませんけれど、関東ロームのように堅く締まった土ではないでしょう。


平川と石神井川の流れがぶつかりあう部分では複雑な堆積が生じていたと思われ、これが現在見える地形の原形になっていったと考えられます。


縄文海進ピーク時代では江戸前島や浅草周辺の大部分が海底になっています。

縄文海進時代の平川と石神井川の運ぶ土砂、これが海にはいれば流速は急減して周辺に堆積します。

図の1は縄文海進ピーク頃の水流、2は縄文海退が始まる頃、3は弥生あたりの水流をイメージしています。

平川の土砂と石神井川の土砂がぶつかりあったであろうAB部分では他より堆積が激しくなって他より早くに堆積丘ができたと考えられます。
平川や石神井川は自らの堆積丘で流路を西あるいは北にシフトしながらCやDに沖積地を作っていたと考えられます
黄色はその水流が作る堆積丘のイメージです。


縄文末期に石神井川は王子と飛鳥山の陸橋を突き破って東の入間川側に流出して現在の流路になったと考えています(後述)。
(したがって石神井の流路に「3」はありません)
石神井川の水量激減と縄文海退によって鳥越丘や浅草島の内側の一帯が沼地となり後の姫ケ池や千束池の原形となっていったと思われます。


江戸湊や霊岸島や鉄砲州などの沖積地は縄文海進時代の石神井川と平川が運んだ土砂と潮汐で運ばれた海砂の堆積によるものと考えられます。
浅草や鳥越周辺から潮汐で洗い流された土砂(関東ローム)も堆積しているはずです。
(後の日本橋浜町や蛎殻町となる沖積地は、後の隅田川による土砂堆積によるものが大半と思われます)

「東国の歴史と史跡」で菊池山哉氏は、日比谷入江には平川は流れ込んでおらず、その土砂が堆積しなかったために入り江として残った、という解釈をしています。

それぞれの場所と深さの土質詳細がわかれば解析できると思いますが、縄文海退時代以降に平川は1〜3に流路を変えながら、大半の土砂は江戸前島の根本部分の沖積地化に使われたために日比谷入江は江戸時代まで入江として残ったのでしょう。

江戸前島に定住者が確認できるのは1261の「関興寺文書」のようで、「江戸郷の前島村では飢饉が続いて百姓がひとりもいなくなった」とあります。
これがどこであるかははっきりしませんが、江戸前島は平川とその湿地帯によって遮断された低地で、水利も悪く農耕には不利な地域だったと思われます。


石神井川と谷田川
(江戸末期の地図では根津あたりで谷戸川)

縄文末期の頃に石神井川の王子〜飛鳥山で流路が変わる大事件が起きたと考えています。

王子の西側は窪地でここに石神井沼があり、この水は飛鳥山の西側(標高約17m)を越流して上野台の西側を南へ流れていたと思われます(左図クリックで詳細)。

石神井沼の東側の陸橋は、王子側のピーク標高で18m、飛鳥山側のピーク標高で25mですから、飛鳥山の西側の17mの鞍部と大差のない標高の狭い陸橋だったと考えられます。

縄文末期は寒冷化へ向かう気候異常の時代で洪水が多発した痕跡が各地にあります。
洪水による増水で王子と飛鳥山の間で越流が始まれば、幅の狭い陸橋は水流で削り取られて一気にこちらに流路が変わるはずです。

あるとき突然に10mの落差の滝が生じた、そんな状況です。
現在みえる石神井川の峡谷地形は落差の大きくなった急流が石神井沼の土砂を流し出してできたと考えられます。

(歴史時代に人為的に開削したという論もありますが、その必要性も痕跡もみあたらず、賛同できません)



石神井川の水が流れ込まなくなった谷田川は上野台と本郷台の水を集めるだけの小川となります。
縄文海進と縄文海退に加えて石神井川の流路変化によって埋没谷が陸地化したのが左図の標高7mの明るい緑の部分だと考えられます。

根津付近は土木工事で土を掘るとずいぶん遠方までその振動が伝わりますが、埋没谷の軟弱な地盤だからかもしれません。
水量激減で押し流されなくなって堆積した土砂によってできた沼地、それが不忍池ではないかと思われます。

東国の史跡と歴史で菊池山哉氏は不忍池の語源に「篠輪津」の説を引いていますが、浅瀬が輪になっている地形で納得できそうです。
また、わずかな低地部が根津付近まで延びていて、根津とは津の根でもあってこれも納得できそうです。
ただし根津神社縁起と遺跡の状況から、往古の根津の位置は現在の根津よりもっと上流の団子坂付近にあったと思われます。


石神井川と谷田川ぞいに貝塚と縄文集落がならんでおり、道灌山は江戸時代では貝の山だったそうです。
江戸時代にこの山は胡粉や屋根材、土木資材などで取り尽くされたようで、現在は縄文遺跡とされています。
江戸末期の地図では石神井川は根津付近で藍染川あるいは谷戸川となっており、その上流は北区西ヶ原付近で西に向きを変えて巣鴨付近で溜池があるだけです。この川筋は農業用水として開削しなおされたものと推定しておきます。

縄文海進時代では根津あたりまで石神井川に潮が上がってきて、根津〜不忍池間の汽水混合域ではカキが大量に採れ、それが貝塚になっていたのでしょう。
(現在は6〜7mの標高ですが土砂堆積によるものと思われます)

もっと上流の神明町貝塚や西ヶ原貝塚の谷部分は標高10〜16mほどで、ここまで海が来ていたとは考えにくく、貝の加工と集散の拠点になっていたのかもしれません。

石神井川の流路が変わってからは貝塚のありようにも変化が生じるはずです。
中里貝塚はカキ養殖を行った可能性のある貝塚です。
この貝塚は20万トンに達する貝の山なのですが、それが形成された期間は短くBC2600〜BC2500とBC2000〜BC1900なのだそうです。
中間に空白の500年がありますが、この空白はなぜ生じたのでしょうか。

石神井川が流れ込まなくなった上野、浅草方面の貝塚も変化するはずで、これらの盛衰や変化の年代がわかれば石神井川の流路が変わった年代の推定もできるかもしれません。

千束池と姫が池
ある時代までは西側に石神井川が南へ流れる上野台の延長上にあった低地と思われます。
浅草周辺は砂利の台地であり、江戸時代では小山(関東ローム、真土山など)が連なっていたとされます。

鳥越丘〜浅草では縄文海進時代でも砂礫層(東京礫層)が海面上にあって関東ロームが洗い流されずに残ったと考えられます。
江戸時代に7つの小山があったと書かれるのがこれだと思われますが、江戸開発の土木工事や姫ケ池の埋立で掘削されてかっての地形がどうであったかは不明です。

浅草より北では砂礫層が海面下となって表土の関東ロームが洗い流されて重い砂礫だけが残ったと考えられます。
江戸時代では石浜は砂利の採掘場になっていました。
浅草の地名は砂礫のために草がまばらに生えることからという説があります。

浅草の真土山(待乳山)の真土は関東ロームの残る山の意味かもしれません。
ここは古墳であった可能性もあり、鳥越には日本武尊伝承などもありますから、弥生あたりでは鳥越丘や浅草丘(島)は本郷台地と陸続きになっていて漁労の人々が定住していたのでしょう。

「千束入江」には石神井川の運ぶ土砂が堆積し、後の千束池や姫ケ池の原形が作られてゆきますが、石神井川(谷田川)の水量の激減で千束入江には水も土砂も流れ込まなくなります。

縄文海退によって千束入江の平坦部は沼地化し、潮汐の運ぶ海砂と入間川の運ぶ土砂が入江を閉塞しながら姫ケ池や千束池、あるいは鎌倉時代にいう長江の入江ができていったと考えられます。

弥生時代あたりでの入間川と利根川(隅田川)はずっと北で浅瀬の海にそそぎ、その土砂は現在の足立区や墨田区となる沖積地を作っていたと思われます。
隅田川は石神井や平川とは桁の違うパワーを持つはずですが、表舞台に登場するのは歴史時代になってからなのかもしれません。



縄文海進時代の平川の汽水混合地域と思われる部分にも貝塚が並んでいます。
白鳥池の下流(現在の飯田橋付近)で小石川が合流し、この一帯は沼沢が連続する湿地帯であり、九段下から神保町付近は海がはいって汽水混合域となり、カキがたくさん採れたのでしょう。

その付近から出土した江戸時代の水道管にも蛎殻が付着していたそうです(江戸の堀と河川参照)。

鎌倉時代の創始とされる北野神社縁起に足下に海があったとありますが、縄文海進時代でも海は600mほど南であり、鎌倉時代にそこまで海が上がっていたとは考えにくく、白鳥池や小石川大沼などを海と表現したものであろうと思われます。





縄文〜飛鳥時代の奈良湖推定図(2015/01改訂)

大和川は北側の生駒山地(変成岩)と南側の金剛山地(火山岩)の断層部を大阪へ流れ落ちる川です。
石神井川では堤防状の地形が洪水によって突き破られ、「石神井池」が消えて渓谷状の地形となった。
大和川では渓谷状の地形が埋没して閉塞、奈良湖ができたと考えています。

青は弥生〜古墳時代に湖であったと思われる部分です。水面標高は45mあたりか。
濃い青は飛鳥時代あたりでも湖であったと思われる部分です。
黒い家マークは縄文集落、白は弥生集落、黄色の円マークは古墳類、逆Uマークは銅鐸出土地。

画像クリックで拡大図
黒い家マークは縄文集落、赤は弥生集落、緑は古墳集落、灰色は飛鳥奈良集落(登場年代による概略区分)
(銅鐸マークは鋳型と破片を含む)
標高は1mピッチですが、造成など過去の標高と異なっている可能性があります。
濃い青ラインは現在の主要河川ですが、地形からみて不自然な流路があります。
葛城川や曽我川など南北の直線的流路には、奈良時代あたりの中ツ道や横大路などと類似の意識が見え、この頃の開削である可能性がありそうです。
黄色のラインは弥生の古道推定。和泉市の池上曽根遺跡と紀ノ川遡上(最初の弥生人の奈良への入植と推定)との接続です。


大和川の奈良県と大阪府の県境付近、亀ノ瀬と呼ばれる部分の詳細図です。


亀ノ瀬部分の標高は約45m、その前後は10〜20mほど低くなっています。
盛り上がった部分、亀瀬と名のつく所以でしょう、なぜこんな地形になっているのか。
いつの頃か、大和川(北側?)の山体が崩落して大規模な土石流が発生して谷が埋没した、と考えるのが妥当と思います。
明治22年に大阪と奈良を結ぶ鉄道が開業しこの部分を通過していましたが地滑りで廃線となり、昭和7年にも地滑りが発生しています。
(現在の鉄道は大和川の南側を迂回するルートとなっています)

奈良盆地へ流入する河川の出口は大和川だけです。
もし、大和川が標高45〜50mで閉塞されれば、奈良盆地はその標高まで水没することになります。

1万年単位での過去の地形はおくとして、気候の寒冷化に伴う異常気象(豪雨)による大規模な土石流が発生した。BC1500頃か。
環境考古学ハンドブック/安井喜憲などによれば、縄文晩期BC2000頃から冷涼湿潤化がはじまり、BC1000頃にはピークに至ります。
東京の石神井川同様に大和川でもより大規模な異変が起きた可能性が高い。

奈良盆地の低地部には縄文遺跡がない、あったとしても奈良湖が出現すれば泥土に埋没するでしょう。
唐古・鍵を中心とする弥生遺跡は標高48mあたりにあります。
亀ノ瀬の土石流が自然に流出すれば奈良湖は徐々に縮小するでしょう。
しかし、人の手が加わって亀ノ瀬の河床が開削されれば奈良湖はより急速に縮小する。

亀ノ瀬の1kmほどを1年に5cmの開削でもよい、100年で水位が5m下がれば広大な農地が出現する。
弥生時代に九州から奈良に到達した農耕民である弥生人がこれに気づかぬはずはないと思います。
(おそらくは紀ノ川を遡上した人々、BC300頃か)。

そして唐古・鍵遺跡など弥生の集落が発達した(銅鐸を用いる人々)。集落を結ぶ道も整備されたでしょう。
和泉市の池上曽根遺跡、瀬戸内海へでるためには金剛山地を竹内峠で越える陸路が最短距離となります。
後に横大路と接続する竹内街道で、この奈良盆地側の出口にはキトラ山遺跡があり、高地性集落とされます。
この道の監視と管理を行う拠点であったのかもしれません。

唐古・鍵遺跡の環濠は弥生中期後半に洪水で埋まり、その後復旧された様子があります。
この時代は温暖から寒冷に転ずる時代で、異常気象に見舞われての洪水であった可能性があります。
全国規模の異常気象であれば、各地で農耕不振となって倭国争乱のきっかけになった可能性もあります。

大和川あるいは奈良湖の治水作業の痕跡が廣瀬大社(廣瀬神社)の砂かけ祭として残っているのではないか。
ただし、廣瀬大社の創建縁起は崇神時代とされています(AD250頃か、崇神時代の廣瀬神社の位置は現在と同じとはいえない)。
この縁起は奈良盆地が銅鐸時代から古墳時代に変わっても治水作業が継続していたことを示すものでしょう。

奈良盆地低部に古墳はありません。しかし奈良湖中央部には島の山古墳があります。
AD400〜450頃の古墳とされますが、奈良湖の水面(沼沢)に浮かぶ小島(標高約49m)に築造されたのでしょう。
島の山の呼称の由来だと思います。
馬見古墳群は葛城氏族のものとされていますが、この地域は微高地になっていて水没することはなかった。
河合大塚古墳はその北端の現在の廣瀬神社の隣にあって年代はAD450〜500頃。
この頃には標高47m以下に水面が下がり、ここに古墳や社殿の築造が可能になっていたと推測できます。

斑鳩宮(法隆寺)からのびる筋違道(太子道)はいったん東へ向かってから斜めに南に下っています。
本来なら直線的に飛鳥京(飛鳥時代の遺跡群)ないし藤原京方面へ向かうのが普通でしょう。
それができなかった、飛鳥時代でも「残存奈良湖」(泥沼地域、標高約43mあたり)が存在していたためだと考えられます。


なぜ斑鳩宮は「残存奈良湖」の北岸にあるのか。
「往古の四天王寺」は現在の大阪城の東にあり、大阪城の南には前期難波宮があります。
斑鳩宮は奈良と大阪を大和川の水運で直結するための拠点であり、当時の王朝の人脈と密接な関係があるのでしょう。
(往古の大阪の四天王寺から淀川を遡上すれば琵琶湖に至り、そして日本海の若狭へも出る)
隋の使者はこのルートで斑鳩宮に至り、さらに大和川を遡上して海柘榴市(つばいち)あたりに上陸したかもしれません。

平城京は奈良盆地北端にあって陸路で琵琶湖へ出るのに都合が良い。遷都の理由のひとつでしょう。
そして平安京へ、歴史の表舞台は奈良から京都へ。

下図は飛鳥時代での奈良湖の推定俯瞰図。


下図は縄文〜飛鳥時代の奈良湖(標高は3倍に強調してあります)。
大和川は断層の接触部分(ひび割れ?)に奈良盆地の水が流下してできたものと思われます。

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