縄文時代の江戸  1450年以前の江戸  1590年頃の江戸  江戸の堀と河川  1643年頃の江戸市街  明暦の大火少考
明暦の大火(丸山火事、振袖火事)

明暦三年(1657)1月18日の午後2時頃に本郷丸山付近から出火、2ヶ月以上雨が降っておらず加えて北西の強風にあおられて駿河台、日本橋、霊岸島から佃島・石川島まで延焼。
また京橋から浅草橋へ延焼し隅田川を越えて深川、牛島へも飛び火し翌日の朝にいったん鎮火。

しかし午前10時頃に伝通院近くから再び出火、飯田橋から竹橋に広がり、正午過ぎに江戸城本丸に燃え移って天守閣が焼け落ち、4代将軍家綱は西の丸に避難。
夕刻に風が西風に変わり京橋、新橋方面へ延焼。
同じく夕刻に鵬町(現:麹町付近)からも出火、江戸城南側に延焼し芝増上寺の半分を焼いて海岸に至り、20日の朝にようやく完全に鎮火。

江戸市街の6割を焼失する大火で、むさしあぶみなどによれば死者は10万人を越えるとされ、翌々日には吹雪によって被災者に凍死者もでたとされています。

1659年には江戸城本丸が再建されていますが、天守閣は意味がないとして再建されず、越谷にあった鷹狩りや視察用の御殿を解体して再建に流用しています。




むさしあぶみの記述について。
(仮名草紙/1661刊行/浅井了意)

著者は浅井了意とされ、浪人で仮名草紙の作者となり後に僧籍(浄土真宗)にはいったともされますが、はっきりはしていません。
「むさしあぶみ」には、被災者の逃げまどう様子や、大名小名の飼っていた馬と避難者の混乱等が書かれていますが、おおよそ事実だろうと思います。

1日目の延焼地の周辺の武家屋敷や家々の路地や空き地には、1日目の火災の避難者と運び出した家財道具が一杯になっていたと思われます。
ここに2日目の火が降りかかれば犠牲者が増え、消火活動の障害にもなって火災の広まりを助長したことが推定できます。
4年後の1661に火災の際に家財道具を両国橋(1659とされる)や橋詰めに置くことが禁止されています。

火災が収まってから死者の数を死体に印をつけて数えたら「をよそ十万二千百余人」などとあるのは、作り話と思います。
そんな暇があったら負傷者や被災者を支援する方が先でありましょう。

「これや此ぢごくの罪人どもの」といった生と死の両極端あるいは仏教説話風の文学表現が登場しますが、物語としての著作であって、誇張して書かれている可能性をみておく必要がありそうです。
なお、風向きや日時などは誇張のしようがありませんから、正誤のどちらかだと思います。

出火元についても、なんらかの風聞がひろまっていれば興味深い話として物語に取り込むでしょう。
後の資料がむさしあぶみを参照していれば、その風聞が定着することにもなりそうです。
むさしあぶみは文学であって記録ではないですから、中間状態がありえる情報の判読には要注意と思います。


武江年表の記述について。
(590〜1848の年表で1848刊行/斉藤月岑著)(江戸名所図絵の3代目の著者)

武江年表では、断定的に書かれる部分と「いえり」として風聞または文献引用を明示しています。
江戸名所図絵の記事等から推定すると、斉藤月岑自身が聞き取り調査などを行っており、断定的に書かれる部分は斉藤月岑が事実と判断した情報なのだと思います。

武江年表の記事中で断定ではないものは、死者数、燃えた建物数、「天守閣は燃えたが西の丸は残った」等です。
しかし「本妙寺から出火」は断定です。この時代ではそれが常識化していたのだと思います。


浅草御門の惨事について。

むさしあぶみには浅草御門が閉まったままだったために人々が炎に焼かれたとあり、その挿し絵があります。
火災から逃げてきた人々の中に小伝馬町の牢屋敷から解き放たれた囚人も混じっていたでしょう。
しかし、火災が広がって一般市民が逃げてきているのに、避難路である浅草御門を閉めたままにするでしょうか。
牢からの解き放ちが行われた時点で囚人も一般人も識別できなくなるのは分かり切った事だと思います。

「石出勘助の書上」1725という記録に牢から解き放たれた百数十人余の囚人は浅草に避難して全員が戻ってきたとあり、囚人は全員無事だったようです。
門が閉じられたままだったために多数の犠牲者がでた、はむさしあぶみの創作と判断しておきます。

風向きが西に変わって神田川の南側の寺社地などへ避難していた人々に炎が襲いかかったのでしょう。
避難路は新シ橋や浅草御門しかなく、門が開いていても狭い場所へ多数の避難者が家財道具を持って押し寄せればなにが起きるかは明らかと思います。


死者数について。

この頃の江戸の人口は50万人前後で武士と町人は半々ほどと推定されるようですが、各論があります。
本所回向院記なる本に死者10万8000余人を本所牛島新田に埋葬したとされますが、この本がいかなる本なのか未確認です。
千登勢の満津という本に保科肥後守正之が家臣に死者を検分させ、「数万」にものぼる死者を集めて埋葬・・という記事があるそうです(保科肥後守は他にも適切な行動をとっていた記録があるようです)。

幕府の情報管理は50年後の徳川吉宗時代に整備され、それ以前では私的記録だったようです。
人口すら正確な記録が残っていない時代でもあり、出所不明の風聞が数字になっている可能性が高く、そのまま信じるわけにはゆきません。

埋葬地に回向院(現:両国2丁目)が建立され、智香寺(小石川伝通院の末寺)の信誉上人が初代となります。
回向院の過去帳では死者は2万と2人(江戸東京年表/小学館)だそうで、保科肥後守正之の数万という数字と合わせて最も確度の高い数字と思います。

ただし、この被災者は大火直後の無縁仏が大半であり、死者の総数はもっと多いと考えられます。
5万人前後という論がありますが、このあたりが妥当なところかもしれません。


1682年の八百屋お七の火事では駒込から日本橋までが焼失していて、明暦の第1日目よりやや少ない焼失面積ですが、死者は「830人」とされ、そのうちの200人は湯島天神境内に避難した人々が炎に囲まれての犠牲なのだそうです(江戸の火事/黒木喬)。

関東大震災では行方不明含めて東京で約11万人(人口約210万)や東京大空襲での8万人(人口は疎開者などによる変動が大きく500万〜350万)がありますが、これらは各所から一斉に火の手があがる火災です。
(そのうちの3万8千人は被服廠跡地で炎に囲まれての焼死)

避難路の有無、これが犠牲者の数を左右しているとみえます。
むさしあぶみには霊岸島で9千600人余りが死んだとあり、数字はともかく逃げ場を失っての死者であろうことは間違いないと思います。

明暦の大火の第1日目の火災は隅田川の西岸、南は海岸まで焼き尽くしており、犠牲者の大半は川と海で逃げ場を失った人々であろうことが推定されます。

2年後に両国橋、続いて新大橋、永代橋の架橋がはじまりますが、隅田川東岸への拡大とともに避難路の確保など、幕府の軍事優先からの認識変化を示すものと思います。

現在の東京ではそれぞれの地域に避難場所が指定されていますが、火災で周囲を包まれることのない場所であるのかどうか・・




この頃の家や屋敷はどのような建物だったのでしょうか。
地図で口の字型になっている町屋は1辺が120mの正方形に中央に40m角の空き地を設けたもので、京都などの町割りと同じです。
この町割りを幅10m、奥行き36m程度の短冊形の区画に区切っていました。

江戸図屏風(寛永年間、1624-1644)でみるとこれらの建物は瓦葺、板葺き、茅葺き?が混在しているようにみえます。
立派な門構えの大名屋敷あるいは寺社と見える建物でさえ檜皮葺あるいは茅葺きとみえる建物があります。

1660に屋根を土で塗る通達がでているようで、茅葺きといえどとりあえず土を塗ってあれば少々の飛び火なら防げたのでしょう。
それでも、翌年には茅葺きの新築が禁止され、板葺きとする指示がでています。
一般でも貴重品を収納する穴蔵がブームになったそうです。

蛎殻葺きというのもあって、板葺きの上に防火用に蛎殻を並べていたそうです。
蛎殻は化石を使っていたともされ、だとすれば江戸周辺に多数あった貝塚の蛎殻でしょう。
1740に大名屋敷の蛎殻葺きを瓦葺とする通達がでています。

壁は倉などでないかぎり開放的な木造で、防火的には無力だったとみえます。
突然屋根が燃え上がるといった様子もみえるのは、隙間から小屋裏へ吸い込まれた火の粉によるものと思われます。
消火活動としては建物を破壊して延焼を防ぐほかはなかったようです。

大火の1ヶ月後に瓦葺が禁止されています。
逆行するようですがこの頃の瓦は重い本瓦で、火を防ぐ利点より崩れ落ちる瓦による危険の方が重視されたのでしょう(大名屋敷では1660に瓦屋根が許可されています)。


大名火消しに加えて翌年の1658年に定火消が設けられ、大部屋に常時待機する臥煙 (がえん)とよばれる荒くれ火消人足が登場します。
半蔵門外、飯田町、伝通院前、お茶の水に火消し屋敷と火の見櫓が作られています。

その位置はまったくもって前年の2日目の大火の延焼ルート上にあって、幕府がいかにこの火事を意識しているかがわかります。
火除け地(空き地)が作られますが、これも前年の延焼ルートから江戸城を守る位置に配置されています。

まずは武士を守るであったようで、民地での具体策は火除け地の設置程度ですが、火事の際の消火心得や、町人の避難場所が制定されています。

民地での具体的な防火対策は50年後になります。
町火消しは1718年に南町奉行の大岡忠相が各町の名主に町火消し設置の通達を出し、1720年にいろは四十七組が制定され、以降は治安にも関与するようになります。

1720年に町屋に塗壁や瓦屋根の使用を推奨しています。
桟瓦という軽量瓦が発明されたことによるものと思われます。
1723年には民間の火の見櫓の設置(おそらくは町単位)が義務づけられています。

このころには江戸初期の口の字型の町割りは消滅して市街が密集化していますから、建物本体の防火性が必要になっていたのでしょう。
消火ポンプの龍吐水(オランダのポンプが原形)は天明年間(1781-1789)に登場しますが、屋根に水をかけるのがようやっとだったようで、いったん火災となればやはり破壊消防しか方法がなかったようです。


大火の後に寺が浅草や駒込などに移転されていますが、灯明などからの失火が多いためという論があります(統計データがあるのかどうか不明)。
大型伽藍が火の粉を飛ばし、破壊消防のために障害になるという論もあります。

それらが事実だとしても大半は幕府の口実であり、江戸中央部での武家屋敷や町屋の再編成と拡張のための土地確保のためだと思います。
翌年の1658に本所の田畑が接収されていますが(町屋は対象外)これも同様でしょう。

明暦の大火以前の大川(隅田川)には千住大橋があるのみでしたが2年後の1659年に大橋(両国橋、武蔵−下総)が作られ、次いで1693の新大橋、1698の永代橋が作られ、本所や深川に江戸市街が拡大してゆきます。
(加えて1774の吾妻橋(大川橋)が江戸時代の隅田川にかけられた橋です)
明暦の大火がその後の江戸拡大の基盤を作った、といってよいでしょう。



謎の火元と出火原因

俗説では同じ振袖を着た娘が三人まで死んだので、その振袖を本郷の本妙寺で焼いたところ風にあおられて火の粉をまきながら空に飛び・・ですが、これは後世の作り話のようで、明暦頃の噂としては浪人の放火というのがメインだったようです。
火災の呼称も当時では丁酉火事ヒノトリカジや酉年大火と呼んでいたようです。

寺社が火元の場合は改易や移転等の処罰を加えられるのですが、本妙寺はなんの咎めもなく数年後には同じ地に再建され、10年後には寺として格上げすらされています。
これだけでも本妙寺が火元ではないことは明らかでしょう。
(本妙寺は明治41年に豊島区巣鴨に移転)

では火元はどこで、なぜ本妙寺が火元とされたのか。様々な論がありますが・・
本妙寺からの資料:明暦の大火供養塔 本妙寺と明暦の大火再考(PDFファイル)
をご紹介しておきます。

これらの資料では、火元は北西に隣接する老中阿倍忠秋の屋敷であって、事の重大さによって火元として本妙寺がその汚名を負って幕府を助けたのだ、とされています。



以下は大火以後の幕府の行動です(江戸東京年表/小学館)その他による

1月21日:被災者へ粥の給食(約1ヶ月続行)
(浅草蔵前の米倉の焼けた米を自由に取ってよいの触れもでたようです)
1月23日:城内にあった御三家の屋敷を城外に移す。
(幕府中枢の分散でしょう)
1月27日:江戸の総絵図の作成を開始。
1月30日:被災した旗本屋敷の書き出し。
(これらは軍事関連の緊急対応だと思います)

2月 7日:越谷の御殿を解体し二の丸に応急移築。
2月 9日:被災した大名に下賜金、大名町人への節約簡素令。
     :幕府は本年に江戸城再建はせず天領の材を使うと布告(材木価格用の情報操作とされる)
2月10日:被災した町人に下賜金。
2月17日:建築ラッシュに伴う賃金等の公定。
2月30日:瓦屋根使用の禁止。
3月 2日:評定所(幕府の政策決定の場)の移転
4月   :町屋の庇ヒサシの切りつめ令(従来は2m近くで、これを0.9mとした、道路拡張の一種)
5月 9日:江戸城再建開始

(この頃に幕府の機能が復旧したと推定)

6月10日:霊岸寺を浅草に移転
7月18日:町奴の幡随院長兵衛が旗本奴の水野十郎左右衛門に殺される

8月   :二の丸の再建終了
9月   :商人等の談合を禁止する

日付不明:吉祥寺を駒込に移転
日付不明:湯女風呂が検挙され、風呂屋200軒が取りつぶされる

翌年(1658)
1月18日:被災した大名への貸与金、町人にも下賜金を出す。
3月   :二の丸に鋳造所が作られて天守閣で焼けた金銀を改鋳(357万両ほどとされる)
3月   :火除け地の設置
4月11日:山王権現社を溜池に移転
5月 4日:東本願寺を浅草に移転、西本願寺を築地に移転
7月   :本所の田畑を接収
7月16日:隅田川に架橋を決定(翌年12月に大橋(両国橋)完成)

8月 1日:江戸の屋敷の状況調査開始
9月 8日:定火消設置、火の見櫓設置
10月28日:火事の際の消火心得、町人の避難場所の制定




大火の年に多数の湯女風呂が検挙され、風呂屋200軒が取りつぶされています。
これはなにを意味するのでしょうか。
夜間に火を使い煮物を売ることが禁止されますが、これは4年後です。

湯女風呂は昼は湯女が背中を流し、夕刻になると湯女が客の接待をして遊廓化する風呂屋です。
何度も制限が課せられますが、町ごとに湯女風呂があるとまでいわれるようになり、明暦になると湯女風呂に客を取られて吉原が衰微したほどだそうです。

大火の年と翌年の江戸での幕府の政策は年表にあるように江戸復興に関するものばかりです。
復興のための人手と時間が少しでもほしいときに急ぐ必要のない風俗取締をするだろうか・・

この頃に旗本が徒党を組んで旗本奴と称し無頼の徒となっています。
対抗して町奴も登場し、町奴の幡随院長兵衛が旗本奴の水野十郎左右衛門に殺されています。
これらの無頼の徒が遊女屋化していた湯女風呂を根城として抗争を続けていて不思議はありません。

幕府の身内の無頼の徒、このあたりに2日目の出火の直接あるいは間接の原因があるのではないか。
幕府自身の家内取締不行き届きに原因があるならば、幕府は黙して語らずにもなるでしょう。
江戸の火災の多くは放火によるものだそうで、細川家の記録に御家人配下の者が(火災に乗じて)放火したので捕らえられたなどとあるそうです。

1日目の火元は老中阿倍忠秋屋敷なのかもしれません。
しかしこの火事は町屋の焼失だけであり、いかに死傷者が多くても幕府にとっての重大事ではなかったと思われます。

明暦の大火の1日目の火災と非常によく似た火災が存在しています。
島津家の「琉球外国関係文書」の弘化3年(1846)に書かれる江戸大火の報です(1月15日)。
この火災では火元は菊坂の田町の西北側の小石川上地とあり、飛び火によって田町へ燃え移り、さらに飛び火で本妙寺が燃えて東南へ燃え広がり、佃島まで焼失。
記録があいまいである時代なら、本妙寺出火とされてもおかしくない火災だと思います。


2日目の火災、伝通院付近(新鷹匠町、与力同心屋敷ともされる)出火による大火、問題はこちらだと思います。
1日目の火災と無関係とまではいいませんが、直接の出火原因は無関係であり、混同するわけにはゆきません。
江戸城天守閣を含めて武士の街の大半を焼失し、大量の美術品や古文書を失う文化的な損害も想像を絶するものとなったはずです。
別項縄文と江戸の地勢図での「慶長7年(1602)の別本慶長江戸図」には焼けた痕跡がありますが、ひょっとすると明暦の大火で焼け残った地図なのかもしれません。
幕府にとっての面目失墜と被害はこちらのほうがはるかに甚大で、幕府内でその出火原因等が重要問題になったはずです。

幕府の家内取締不行き届きにその出火原因があり、これを1日目の火災での本妙寺と振袖という風聞の広まりの陰に隠して2日目の火災原因をあいまいにし、それを後々までそのままとした。
本妙寺に対する対応は、これに対する処遇であったと考えるのが妥当ではないかと思われます。

幕府はその処遇に表向きには関与せず、個人にそれを背負わせたのではないでしょうか。
もし、1日目の出火が老中阿倍忠秋の屋敷でなかったとしても、忠秋は篤実忠義で剛直な性格であったらしく、以後の処置を後々まで引き受けていたかもしれないと考えています。

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