縄文時代の江戸  1450年以前の江戸  1590年頃の江戸  江戸の堀と河川  1643年頃の江戸市街  明暦の大火少考

江戸以前の平川の流路

日比谷入江に流れ込んでいたとする論と江戸湊に流れていたとする論があります。
有楽町層のありようによって、太古の平川が日比谷入江へ、その東の石神井川が不忍池付近から南の江戸湊付近へ流れていたのは確実と思われます。
平川と石神井川の間には本郷台地の延長上として江戸前島を含む低地帯が南に延びています。
(縄文時代の江戸参照)

しかしこれは1万年前の話であって、縄文海進を経た後ではほとんど意味をなしません。
家康入城時代の江戸の河川や堀割はどうなっていたのでしょうか。


左図は慶長7年(1602)の別本慶長江戸図です。
この図は家康が江戸幕府を開く1年前の図ということになります。
平川が神田川に付け替えされるのは1616年ですから、それ以前であればどこかに平川が流れているはずですが、平川の呼称は書かれていません。

別本慶長江戸図は江戸城内のみを描き、平川ではあっても堀の一部である場合は堀とみなして平川とは書いていないのだ、とみておきます。

道三堀とみえる堀は細く描かれていますが、この頃は江戸城への塩や魚など日用品の輸送用であって、まだ主要水路にはなっていなかったことをうかがわせるものと思います。

日比谷入江沿岸に町人用の物揚げ場が描かれています。
日本橋の架橋は1603でこの図の時代ではまだありません。
日比谷湊が江戸の湊であって、日比谷湊と道三堀〜小名木川の水路をつなぐのがI〜Jの水路でしょう。

C、D部分の堀がずいぶん幅広に描かれていますが(標高は10mほどか)、当初の江戸の水瓶(非常用)がここだったと考えられます。
ここから延びるC〜Bの細い水路は給水用の水路と考えられます。

後の半蔵門となるXは「土橋」となっていますが、この当時ではX〜Y間は自然河川をそのまま利用した堀で、土橋はその落差(水量)の調整用であったと思われます。



左図は実際の地形に別本慶長江戸図のポイントを地勢図に重ねた図です(クリックで全体図表示)。
(堀割は正保元年江戸図1643による)
(オレンジ色背景の文字は別本慶長江戸図に記載される地名です)

落穂集(1728)に「日本橋筋より道三河岸通りの竪堀のほられ候が初りにて候」とあるそうです。
道三堀〜日本橋は堀であり、これが最初の堀ということになります。

静勝軒という太田道灌の居宅(城)のことを詠った詩があり「城の東畔に河あり、曲折して南の海に入る」とあります。
城の東をうねりながら南に流れる川があったわけで、これが平川でしょう。

南へ流れる川ですから、後の江戸湊(隅田川岸)ではなく江戸城の南の日比谷入江に平川が流れていたのは間違いないと思います。
家康入城(1590)以前の平川はG〜K〜Lか、もっと大回りのG〜H〜I〜Jのどちらかだと思われます。
G〜H〜I〜JだとG〜H間の微高地を横断しているのが自然河川としてはちと不自然です。

当初はG〜K〜Lに平川が流れ、これに道三堀〜日本橋の堀が接続されて、その周辺が初期の城下町となっていた、と考えておきます。


FG間の★印は木製導水管が出土した場所で、A地点付近で取水して導水管を平川に添わせて初期の城下町(G〜K〜I間)に上水を給水していたと考えられます。
蛎殻が付着していたそうですが、土中に埋めた導水管であれば蛎殻が付着するはずがありません。
導水管を平川の岸辺に沈めて杭で固定する工法だったのではないでしょうか。
簡単確実な工法と思われ、平川を埋め立てる場合でもそのまま埋めてしまえばOKです。
満潮時には平川のG地点あたりまで潮が上がり、カキもいっしょに上がってきたのでしょう。

1655年に幕府は塵芥を川へ捨てることを禁止しています。
江戸初期にはカキの住める平川だったものが、江戸の拡大とともにゴミの浮かぶ川になっていった様子がうかがえるところです。

1596に隅田川の洪水で浅草に大きな被害が出ています。
これをきっかけにして平川の洪水の回避と城下町の拡大のために平川を遠く迂回させる堀が掘られたとみています。
それが別本慶長江戸図に描かれるF〜G〜H〜I〜Jの堀です(おそらくF〜G間は平川のまま)。

I地点で水路が十字にクロスするわけですが、別本慶長江戸図は日本橋へ延びる水路は城外とみて描いていないのでしょう(Fより上流の平川が描かれていないことも同じです)。

天下普請と呼ばれる大規模な江戸城築造が始まる時点(1603頃)での石材や材木の荷揚げ場は江戸城最寄りの大手門に延びる水路にあったはずで、ここに平川が流れていては荷揚げもやりにくいはずです。
平川が迂回されたのは1596−1603の間と推定できるでしょう。


X地点(半蔵門)から千鳥が淵を経てY地点までの堀は標高が20m以上、半蔵門の南側の堀は10mほどで標高が10mも低くなっています。
1603年以降に半蔵門付近の土橋をダムとして改修し(田安門付近もおそらく同様)、XY間の水位を上昇させて新たな江戸城の水瓶を作ったものと考えられます。
千鳥ケ淵はこの工事で生じたダム湖ということになります。

ここから城内へ給水管が敷設されていたのはまず間違いないところで、本丸で蛇口をひねれば水が出るようになっていたかもしれません(飲料水は井戸だと思いますけれど)。


左図は別本慶長江戸図のポイントを1643年の江戸市街図(正保元年江戸図)に対応させたものです。

別本慶長江戸図での位置関係と寸法比からB〜G間の堀(赤)は平川が神田川に付け替えられてから改修された排水用の水路と考えられます。

A〜F〜Gの堀は埋められ、Fから北へ延びている細い水路はかっての平川で、飯田橋に至る埋立地の排水用水路として残されたものと思われます。


B〜Cの水路は平川より5m以上高い位置にありますから、別本慶長江戸図での給水用水路が拡張された堀であって清水堀の名がそれを示すと思われます。
平川付け替え時に、補助水源を兼ねた牛ヶ渕を設置してAに接続したのでしょう。

後に牛ヶ渕は半分が埋め立てられて(現在の千代田区役所付近)単なる堀になりますが、神田上水など上水網が整備されて、水源としての牛ヶ渕の意味がなくなったためと思われます。


神田川について
現在の順天堂病院あたりに名水が湧いていたそうで、旧神田川は本郷台地からの湧き水が流れるごく小さな川であって、おそらくは姫ケ池に流れていたのではないでしょうか。

現在の神田川はすべてが1616〜1620頃に掘られた人工河川と思われます。
外堀と平川付替えによって江戸中心部に流れる自然河川はすべて迂回され、市街は洪水から守られることになります。
平川だった川筋や湿地帯は武家屋敷等の敷地として利用できるようになります。
平行する神田上水や玉川上水の敷設によって江戸の中枢部の基本ができあがってゆきます。

現在の神田川の万世橋付近から浅草橋までの南側は柳原土手と呼ばれていました。
北側には土手はなく神田川が増水しても北側に溢れさせて市街側での洪水を防ぐ手法で、伊奈流の治水の考え方と見えます(利根川東遷概史参照)。

江戸市街の拡大によって姫ケ池や千束池の埋立が始まり、浅草〜箕輪の日本堤の築堤(1620頃)によって洪水を許容する地域は北へ押し上げられてゆきます。
隅田川に両国橋(大橋)が架橋されるのは明暦の大火(江戸名所図絵と神社散策参照)以降でもあり、江戸初期の開発プランがどこまでを考えていたのか微妙なところです。

柳原土手の南にお玉が池の地名がありますが、土手で遮断された窪地にできた水たまりであり、江戸の拡大によって早々に市街化して地名にのみ残ったものと思われます。

1728年に江戸川(旧平川)の洪水で3500余人が溺死し、水道橋の水戸屋敷にも家屋が流されてきたそうで、同年にお茶の水付近での通水機能拡張工事が行われています。
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