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三年間の軌跡  

目次

白血病とは

自覚症状 20049

白血病告知、入院 20049

治療待ち 200410

寛解導入療法 200410

寛解導入療法2回目 200410-11

地固め療法@ 20041112

地固め療法A 20051

地固め療法B 20052

退院後 200536

中耳炎 20056

再発、入院 20056

髄外腫瘤・放射線治療 20057

抗がん剤治療 200578

迷い、さい帯血か骨髄か 20058

さい帯血移植 200599

一般病室へ 200510

退院後A 200511月−20064

再発A、入院20064

さい帯血移植A 200667

一般病室へ 200678

退院後Bアカシジア症状 20068月−9

退院後Bその後 20069月−20073

再発B、入院 20073

再会 20074

マイロターグ治療 20073月−5

退院後200756

再発C 活性化T細胞輸注療法 200768

首の痛み 20078

髄外再発、入院 200789

緩和療法へ 20079

 

 

白血病とは

白血病とは血液のガンです。原因は今の医学ではわかっていません。誰にでも起こりうる突然変異のようです。日本では年間5-6000人くらいが発病しているそうです。僕はそのうち急性骨髄性白血病M2(T8:21)という、比較的一般的な白血病を発病しました。夏目雅子さんの時代には死病でしたが、今では治療薬、治療法、骨髄バンク、さい帯血バンクなど飛躍的に進歩しました。100人中、化学療法で30人、骨髄移植で30人、合計60人くらいは治るのではないのでしょうか。しかし、それでも残り40人くらいは治りきらずに亡くなります。

白血病は半年くらいの長い治療期間が必要であり、その間の体調の変化も大きく、患者も家族も不安度が大きい病気です。退院した後も再発が常に頭にあり、不安な毎日を過ごすことと思います。40%の確率で助からないこともあるから、一応その心の準備をしておくこと、ただし60%の確率で助かるのだから、極度に不安がらずに現在の治療や生活に専念することが大切と思います。

そして病気がどのような経過を辿るのかを予め知っておくことは、治療の際の不安を少しでも軽減できるのではないかと思います。僕の3年の治療経過が少しでもその参考になればと思います。

 

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自覚症状 20049

食欲不振 1ヶ月くらい前からご飯を大きい梅干1個分くらいしか食べられず、体重も71kg67kgまで減ったが、ダイエット効果が出たと喜んでいた。

足の痛み 1ヶ月くらい前から運転中ブレーキやアクセルペダルを踏むと足が重く、おかしいなと思っていた。やがて、足全体にしびれのような痛みがでて、なかなか眠れなくなった。医者に行ったほうがよいかなと考えはじめていた。

発熱 1ヶ月くらい前から少し熱っぽいと思っていたが、10年以上風邪も引いたこともないので、まさかと思って体温を測ることもしなかった。それほど暑くない9月25日土曜日の仕事中、ほかの人は汗をかいていないのに僕だけ汗がぽたぽたと落ちた。これはおかしいと思い、夜体温を測ると38度あり、驚いて月曜日に病院へ行くことにした。次の日曜日も38度ちょっとあった。もっと前から熱があったのだろうと思う。

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白血病告知、入院 20049

F診療所で、少し血小板が少なく白血球が多い、ウィルス感染でこのような症状が出ることがあるが、原因ウィルスが特定できない。しばらく様子を見る、とのことで帰宅。ところが午後電話で、血液細胞に異常が見つかった、専門病院を必ず明日受診するように、紹介状を書いたからすぐ取りに来るようにとのこと。びっくりして不安ながら、血液に異常とは何のことだろうとぐらいしか感じなかった。

翌日S病院F先生の外来で午前の最後に呼ばれた。お一人ですかと聞かれ、妻が廊下にいると言うと一緒にどうぞと呼ばれた。そして脈ひとつ取る訳でもなく、紹介状を見ながら、残念ですが白血病ですねといきなり言われた。・・・・・頭の中が真っ白・・・・・しばらくして思考力が戻ってきて、そうか、もう助からないのだと思った。妻もわなわなとしている様子。20年ほど前、友人のYさんのお母さんが白血病で無菌室に入っていると聞き、その後亡くなったことを思い出した。

気を取り直し生存率を聞くと40%くらいとのこと、半分よりは小さいが、不可能な目標ではないと思いほっとした。不安感が消えた。即日入院とのこと、えっ、仕事が、と今度は目の前が真っ暗になったが、断固とした指示に止むえず、一度帰って準備をして夕方入院することになった。治療期間は5〜6ヶ月、一ヶ月百万円くらいの費用がかかるなどの説明もあったが、うわの空だった。[注]

家には母と長男と長女がいた。白血病と言われた、今から入院すると伝え、長男には残りの仕事の段取りを箇条書きにして渡し、ショックを受けている家族を残して30分ほどで病院に向かった。ハナちゃんに挨拶もせず出てきたことを後で気付いた。

 

[注] 実際の医療費(病院へ支払った費用)は月額100万円前後(総額300万円前後の健康保険自己負担3割+自費分=食費、保険外検査や保険外投薬など)で、それも高額医療費で2ヶ月後に還付があるため、差し引き実額は月9万円くらいだった(収入によって少し変る)。後日移植治療時は総額月600万円x3割=200万円くらいを払ったが高額医療費還付後の最終実費は9万円前後と変らない。

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治療待ち 200410

白血病の型によって治療法が異なる場合があり、遺伝子検査に数日かかる。その間あまりすることは無かった。白血病についての患者向けの本を借りて何回も読み、F先生にも質問した。そして、白血病は非常に進行の早いがんで、治療しなければ1〜2ヶ月くらいで死に至ること、死因は肺炎、敗血症などの感染症または脳内出血が多いこと、治癒という言葉が無く寛解と呼ぶこと、寛解の反対語は再燃、再発などであること、5年間再発しなければ推定治癒になること、再発した場合は骨髄移植という治療があるが大変危険な治療であること、移植治療は50歳が年齢上限であること(僕は55歳)、くらいの知識を得た。しかし最先端の治療は実はこの本の記載よりずっと進んでいることを後日知った。白血病の治療の進歩は本が出版されるスピードより早いようだ。

突然の入院で投げ出してきた仕事も、長男が何とか捌いてくれていると妻から聞いた。仕事は崩壊するのではないかと思っていたが、若い芽は気付かないところでしっかり育ってきていたのだと思った。

F先生の治療方針説明がありよく判った。抗がん剤治療4〜5クール、4ヶ月ほどの入院の見込み、退院は来年1月末予定。しかし結果は6ヶ月の入院となった。

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寛解導入療法 200410

寛解導入療法とは抗がん剤治療で、骨髄と血管内に充満している白血病細胞の一掃を目的とする。寛解とは検査しても白血病細胞が見つからず、健康体と同じになった状態を言う。しかし見えないだけで、白血病細胞はまだ体内に残っているはずで、放置すればすぐに発病する。そのため引き続き地固め療法を3回、4回くらい繰り返し、見えない白血病細胞を根絶する。この抗がん剤療法は1クール約1ヶ月かかり、4クールで4ヶ月〜5ヶ月くらいの長い治療期間となる。

10月2日、入院5日目に抗がん剤治療開始、8日間の点滴。抗がん剤治療はひどく苦しいと何かで読んだ記憶があったが、吐き気止めなどの支持療法も進んでおり、読んだほどのひどい苦しさではなかった。それでも2日目くらいから吐き気が出て、ずっと続く吐き気は生きる気力をじわりと奪うようで苦しかった。下痢もした。5日目には食事が食べられなくなり、カップ麺などを食べた。

6日目に白血球2,100まで下がり、クリーンルームに移動。クリーンルームは普通の一人部屋に大型の空気清浄機を何台も付けた部屋で、テレビをイヤホンで聞く必要もなく、気ままで、窓の外には毎日猫がやってきて気晴らしになった。面会も自由だった。ただし部屋の外に出ることが出来ず、他の患者さんと話しすることもなかった。そのためうつ状態になる患者さんも出るらしい。

8日目くらいからは塩味を感じなくなり始めた。舌の粘膜や味蕾も抗がん剤で傷つくらしい。

10日目、39度の発熱、妻が来てくれてもうとうとしてほとんど話しをしなかった。発熱は5日間くらい続き、その間抗生剤点滴投与。感染症らしい。

15日目、髪とひげが抜け始めた。下痢もひどくなった。

16日目、大阪から義弟と姪が見舞にきてくれた。生花を持ってきてくれたがナースステーションで取り上げられたらしい。歯を磨いたあと、歯茎からの出血が止まらず、口の中が真っ赤な時だったので驚いていた。

17日目、白血球1000まで下がりいよいよ感染危険期間に入ったと先生。

19日目、下がるはずの白血球2400に増えた。先生はそんなはずはない、まだ下がるはず、おかしいと心配顔で、僕も不安。後から考えるとこの時が難治性白血病に踏み出した第一歩だったと思うがその時は知る由もなかった。ただ先生は何かおかしいと感じ取った様子だった。

20日目、髪が抜けて枕に付着して鬱陶しい。院内の散髪屋さんに丸刈りにしてもらった。

21日目、白血球6000まで増えた。異常な増え方らしい。午後マルク(骨髄穿刺)、ブラストは10%ほど見られるとのこと(基準は5%以下)。月曜日の抹消血でブラストが増えていれば寛解導入は失敗とみなし、すぐに2回目の寛解導入に入る、と先生。

22日目、パソコンが届いた。次女が買い替えを考えていたので早めに買い、退院までの半年ほど借りることにしたもの。少しは事務の仕事できると思い嬉しい。

24日目、抹消血ブラスト7%。寛解導入失敗の判断。すぐに第2回目を始めることとなった。

僕は、治療が1ヶ月延びるのは嫌だったが、普通1回のところを念入りに2回もガン退治をしてもらい、良かったと思っていた。
寛解導入は1回で終わらなければならない、2回かかると予後が悪くなる、2回目でだめなら、もう何回治療しても寛解になる可能性の無い難治性白血病と呼ばれるようになること、などはまだ知らなかった。僕の読んだ本にはそんなことは書いてなかった。

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寛解導入療法2回目 200410-11

翌10月26日、同じ抗がん剤で寛解導入療法2回目が始まった。

2日目、39.8度の発熱、嘔吐。ブドウ球菌が血液中から見つかり、CVからの感染の可能性高いとのことで抜き取り。点滴は腕に刺して抗がん剤継続。抗生剤も。

3日目、原因菌はMRSAと判明(耐性黄色ブドウ球菌)。病名は敗血症。MRSA用抗生剤に変更

4日目、熱は下がったがだるさ、吐気、無気力が残る。MRSAと聞いて妻が飛んできた。ネットで調べると怖い菌らしい。先生に面会を求め、何故MRSAに感染したのかと質問。長期抗生剤を使用する場所(病院など)ではどうしてもMRSAは発生する。それが次々と院内感染すれば問題だが、個別の検出は止む得ないとのことで納得した。

6日目、昨日から身体をねじると心臓あたりが痛い。胸部CTで小さな影を認め、肺炎と診断。先の敗血症の菌が肺に血液感染したものと思われる。現在の抗生剤は肺まで届かないので別の薬を手配する。

7日目、胸の痛み、通常呼吸で感じるくらいに強まっている。

9日目、胸の痛み無くなった。点滴がもれた腕が痛い。静脈炎らしい。あとは好調。

10日目、白血球1100まで下がった。今回は1000を割りそうな予感。良かった。あとは感染に注意。

11日目、検便からMRSA検出、消化器系にも潜んでいる様子。苦い水薬バイコマイシンが出た。

12日目、白血球600まで下がる。これでやっと普通の結果らしい。F先生も良かったと嬉しそう。

13日目、吐気が減少し、中止していた病院食復活。塩味だけでなく全ての味覚がなくなり、不味い。

14日目−20日目 体調良好、この間白血球は500、中身はリンパ球で好中球は0のはずとのこと。幸い感染症なし。病院食も7割くらいは食べた。

23日目、白血球1700、ヘモグロビン8.1、血小板53万まで回復。順調に推移。マルク(骨髄穿刺)2日後に予定、その前に一泊の外泊許可がでた。

24日目、39.8度、敗血症が疑われる。外泊取消し。抹消血でまたブラストが出現、1回目と同じ経過(寛解失敗)の可能性あり。その場合化学療法を断念し骨髄移植を検討したほうが良いので、HLA(白血球の型)検査をする。非寛解での移植の生存率は20%以下とのこと。

25日目、白血球4600、ヘモグロビン7.6、血小板84.5万まで回復。38.8

26日目、36.8度、敗血症は治まったらしい。白血球さまさまだ。

28日目、白血球11800、ヘモグロビン7.7、血小板104.8万、ブラスト1%。外泊で2ヶ月ぶりに家に帰る。ハナちゃんが吠えた。喜び戸惑いながら吠えた。昼スパゲッティ、夜湯豆腐、どちらも病院食では出ない。おいしかった。(2004/11/22

30日目、白血球14200、ヘモグロビン7.4、血小板103.4万。マルク(骨髄穿刺)。夕方F先生が寛解に入ったと告げに来てくれた。心からありがとうございますと言った。
F先生は、寛解導入に
2回かかったことは予後不良因子であり、さらに白血病細胞からCD56マーカーが見つかりこれも予後不良因子。骨髄移植を検討したほうがよい。ついては妹さんのHLAを至急確認するようにとのこと。あわてて関西の妹にメールを打った。しかし翌日、移植は施設の空きなどを考えると現実的に無理、来週から地固め療法に入る。妹のHLAは今後再発時の方針決定に役立つのでそのまま検査続行するようにとのこと。

32日目、歯が少し痛い。歯肉炎らしい。S病院は歯科がないため、C病院へ紹介状を書いてもらった。万が一抜歯しても治療開始が1週間ほど遅れるが問題はないとのこと。抗がん剤治療の間に白血球減少や下痢、便秘で痔が悪化し、途中手術する人も多いらしい。

33日目、2回目の一時帰宅(2泊)。Hさんが山口から会いに来てくれた。スキンヘッドに驚いていた。短時間だったが楽しく過ごした。

35日目、C病院で歯科受診。レントゲンで見て問題ない。歯周病の細菌が増殖したためではないか。うがい用イソジン原液を綿棒で歯周に塗れば消毒になると教えられた。S病院へ帰院。午後CV挿入。

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地固め療法@ 20041112

地固め療法開始。JALSGの標準治療から離脱し、一番強いキロサイド大量療法を処置するよう先生にお願いした。身体への負担も大きいらしいが、予後不良ならできるだけ強い薬で徹底して白血病細胞を退治したかった。5日間の点滴。

3日目、胃のむかむか感が急激に増大。

5日目、吐気で食事ゼロ。差入れのワッフルなどを食べる。一日中うとうとして妻が来てもあまり話せない。

8日目、吐気は少し治ったけれど病院食は食べられず中止してもらった。栄養剤点滴とカップうどんなど。足のかゆみと筋肉痛。抗がん剤の副作用らしい。

11日目、白血球100、ヘモグロビン5.7、血小板4.3万。ヘモグロビンが下がりここ数日頭痛あり。赤血球輸血

14日目、白血球700、ヘモグロビン7.0、血小板0.3万。血小板輸血。大阪から仕事仲間のNさんが来てくれた。楽しく歓談。夜熱がでた。

15日目、40度の発熱。一日中うとうと。

16日目、CV感染の疑いがあり、カテーテル抜きましょうかと言われたが、痛い目をして刺してもらってまだ2週間目、白血球が上がり始めているので待ってもらった。白血球2400

17日目、自然解熱36.8度。またまた白血球さまさま。体調良好。

18日目、白血球14300、ヘモグロビン9.4、血小板6.6万。白血球は完全復活。1クール20日ペースなら27日の誕生日には退院か、などと早くも退院予定の皮算用。

22日目、(12月21日)妹のHLAは一致せず、妹からの移植はできない。キロサイド大量療法は看護の手がかかり、年末年始の治療は避けたいと、F先生。その間治療はないので明日1222日〜13日までの13日間の一時帰宅になった。ただしCVを付けたままなので凝固を防ぐフラッシングのため毎日一回病院へ戻る。うち一日はマルク。正月を家に帰れるのは嬉しかったが、その分退院が遅れるのが不満だった。全治療を早く終えて、早く正式に退院したかった。

年末年始を自宅でのんびりと過ごすことができた。妻と一緒にハナちゃんマメちゃんの散歩も毎日行った。珍しく大雪が降り、雪の中の散歩も行った。ハナちゃんは大喜びでマメちゃんは寒そうだった。年賀状も書けた。のどの粘膜の荒れで食事は毎日お粥やうどんだったが、それでもずいぶんリフレッシュした。病院へはフラッシングに毎日車で行き、妻も同乗し、帰りは正月も開いているスーパーなどに寄った。楽しかったが、安っぽいセーターなどいらないものもずいぶん買ってしまった。結果的にこのリフレッシュは良かったと思う。初入院のように初々しい気持ちで病院に戻れた。

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地固め療法A 20051

1月3日夜病院へ戻った。1月4日地固め療法2回目開始。5日間のキロサイド大量療法。

4日目、吐気で食欲無くなり、病院食を停止。白血球4400、ヘモグロビン8.9、血小板20.8万。

7日目、吐気減少。ワッフルやカップ麺を食べ始めた。

10日目、味覚障害で何を食べても味なし。味のしないカップ麺はちょっと食べられない。白血球100、ヘモグロビン7.7、血小板2.6万。

12日目、発熱39.9度。トイレへ行こうとしてベッドを降りて目が回り方向感覚を失った。廊下では足に力が入らず崩れそうになり壁際の手すりにしばらくつかまっていた。壁を伝ってかろうじてトイレに行った。K看護師さんがトイレ前まで付き添ってくれた。こんなことは生まれて初めてだった。今から考えれば敗血症のショック症状がでたと思うが、この頃はまだ心臓や腎臓などは元気で、いかに危険だったかとは考えもしなかった。

14日目、血液培養で緑膿菌を検出、抗生剤を変える。

19日目、8日間熱が下がらず、CV感染と思われるのでカテーテル抜き取り。年末年始の外泊13日間、毎日フラッシングで面倒を見たのに、あっという間に抜かれてしまった。

20日目、のどの痛み、声が出ない。気管支炎で肺炎ではないのでそれほど心配いらないらしい。

21日目、解熱36.9度。のどの痛み、声が出ない。F先生、今回治療中発熱が続いたためプロトコールにより次回地固め療法Bでは抗がん剤投与を5日間から4日間に減らす。白血球700まで増加

22日目、夜中に腰痛、脈動のないジーンとした嫌な痛みで眠れず。明け方鎮痛剤ロキソニンをもらいやっとうとうとした。F先生によると造血回復期には骨髄中に血球が増えすぎ、痛みを起すことがあるらしい。ただし若い人に多い症状ですが、と。

23日目、白血球3100に急増、骨の痛みは造血作用のせいだったらしい。

25日目、肝臓の数値が上がり、真菌反応がでている。抗真菌剤投与。

27日目、1/302/79日間の外泊。ハナちゃんとマメちゃんの散歩、会計の決算、確定申告原稿など事務の手伝い。途中病院に戻りマルクと採血、白血球6500、ヘモグロビン10.5、血小板23万。

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地固め療法B 20052

2月7日、F先生の調子が悪いのか血管が萎縮したのか鎖骨下にCVが入らず、中止。翌日鎖骨上で無事CVが入った。第3回、最後の地固め療法開始。前回感染症にかかったため今回の抗がん剤投与は1日少ない4日間。4日目くらいの吐気が一番ひどかったけれど前回ほどでは無い。クスリが少ないためか。

同室のHさん、退院前のルンバール検査で髄液に白血病細胞が見つかり毎週髄注で検査と抗がん剤を入れ、退院がのびのびになっていて気の毒。もう1ヶ月近く、1週間単位で延びている。退院と言われて1週間ずつ延ばされるのは拷問である。僕も退院前に同じ検査をするのか、不安になって先生に尋ねたら、僕の場合の強いキロサイド大量療法は髄液まで抗がん剤が達しているはずなので、ルンバールは行わないと聞いて安心した。(この4ヶ月後、病室に寄るとHさんはまだ入院していた。髄液内の白血病細胞が脳に腫瘍を作り、放射線治療をしたとのことだった。)

8日目、白血球200まで減少、クリーンルームの空きが無く、空いていた特別室へ移された。ソファがあり、風呂トイレ、炊事場付き。クリーンルームよりゆったりできてラッキーだった。次女が来てソファでくつろぎながらテレビを見ていった。

13日目、38度くらいの熱が数日前から。F先生はCV挿入口を見て腫れているので感染です。本来抜くべきだが、もう少し様子を見ることに。苦労して2日がかりで入れて、まだ2週間も使っていないのに嫌だよね。

20日目(2/28)なんとかCVを持たせて白血球も2700まで回復。マルクまで4泊の外泊許可。

24日目(3/4)マルク。白血球4400、ヘモグロビン8.7、血小板14.2万 マルク終了後そのまま退院した。もちろん寛解。ただしPCR法での遺伝子検査では100コピーくらいの微小残存病変が検出されたそうだが、そんなものは気にもしなかった。9月28日から3月4日まで6ヶ月弱の入院だった。

白血病の治療は致死量ぎりぎりまで抗がん剤を使い、白血球も減少するため、感染症との闘い。僕は5回の抗がん剤治療で毎回感染して熱をだしてしまった。幸いまだまだ臓器は丈夫で大事には至らなかったが、体が弱っていれば危なかったかも知れない。うがい、手洗い、風呂、マスク。特に風呂(シャワー)が大切ではないかと思う。僕は2週間に一度くらいしかシャワーをしなかった(白血球が少ないとシャワーはいけないと思っていた)が、それがよくなかったのではと次の病院へ入院した後で気付いた。点滴のルートが入っているので面倒だが、採血や点滴など毎日のように皮膚に穴を開けられるので常に皮膚を清潔に保っておくのが大事かと思う。

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退院後 200536

退院後、毎日1時間くらいのハナちゃん、マメちゃんの散歩に行った。僕がハナちゃん、妻がマメちゃんを引き長女が交代要員で3人と2匹の大集団で行った。マメちゃんは大勢で行って大喜びだった。最初はゆるい坂道が登れず、ハナちゃんに引かれて必死だった。小走りに走ると足がもつれ、ころんでひじをすりむいたりもした。妻と一緒の散歩は生きている実感そのもので楽しかった。そのうちだんだん歩く事は苦にならなくなった。

僕は自営業なので自宅が仕事場になっている。退院後すぐから電話番や図面描きなどの事務作業を手伝いはじめ、3週間目くらいには現場での打ち合わせに出て、1ヶ月過ぎには現場作業にも復帰した。明るい4月の陽光の下で汗を流して働いていると、長かった入院生活も遠い過去の思い出のようになってきて、記憶も薄らいでいった。赤ん坊のように柔らかい毛髪もまた生えてきた。

化学療法で完治する人も多く、その場合はこれで話は終わる。再発の不安をあと5年間抱えながらになるけれど、健康を取り戻し普通の生活に戻る。

僕の場合はそんなに甘くはなかった。外来は退院後月に1回で、そのたびにマルクをして、PCR法という遺伝子検査をした。退院時の微小残存病変指数100くらいが1ヶ月後に1000台、2ヶ月後に10000台と確実に一桁づつ増えてきた。F先生は心配し、これは恐らく再発する、移植できる病院でセカンドオピニオンの形ででも相談したほうが良い、と紹介状をいただいた。

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中耳炎 20056

5月、6月はウッドデッキ業にとっては忙しい時期で、僕が入院中減っていた仕事もまた増え、もう本格的に仕事に復帰していた。

ところが左耳が痛くなり耳だれも出て、F病院の耳鼻科にかかった(S病院には耳鼻科が無い)。中耳炎という診断で抗生剤と点耳薬をもらったが一向に良くならず、2週間、3週間と過ぎていった。先生は1週間で治らない中耳炎は疑えと言って、CT検査などもしてくれたが判からないまま症状は悪化するばかり、そのうち我慢できないくらいに痛みがひどくなり、車の運転をしていても集中できず危険になってきた。鎮痛剤ロキソニンを規定の倍の3時間おきに飲んでも痛みはあまりおさまらなかった。これは中耳炎ではないと先生は言い、次の外来で外耳から細胞を取って生検することになった。

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再発、入院 20056

T病院でセカンドオピニオンを聞いた。T先生から、これは再発するだろうから移植した方が良い、耳も中耳炎でないなら何なのかを確かめる必要がある、とすぐに入院手配をして頂き、数日後の629T病院に入院した。S病院退院から3ヶ月半後だった。また急な入院になり仕事の引継ぎもきちんとできなかったが、耳が耐えられないほど痛く、病院に入ることでほっとした。

入院後検査では既に白血病は再発していた。6ヶ月の抗がん剤治療をして3ヶ月後の再発。がっかりはしたが、S病院で読んだ50歳以上は移植できないという情報は既に古く、ミニ移植という治療法がもう普通に行われ、60歳以上でも移植できると知り、究極の移植治療が出来ると、希望を持って入院した。それにこのT病院では移植は当たり前の普通の治療という雰囲気だった。S病院では移植は危険で怖い治療というイメージを持っていたが、根本的に考えが違っていた。

[注]後ほど気付いたが、僕が入院したのは移植病棟で、入院の50人ほど、ほぼ全員が移植を前提に全国から集まっていた。雰囲気が違って当たり前だった。抗がん剤だけの患者さんは別の階にまだ大勢いた。

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髄外腫瘤・放射線治療 20057

耳の痛みはオキシコンチンという麻薬系痛み止めでとりあえずは楽になった。この頃、首にそら豆大のしこりが触ってもわかるようになり、細胞針で組織をとって白血病の塊である髄外腫瘤と判明。造影MRIでは耳の上の骨の空洞部にも白血病細胞が入り込み増殖しているとのこと。骨髄の治療の前に髄外腫瘤を治療するため放射線を開始した。毎日2グレイの放射線をかけ14回、計28グレイをかけた。正味照射時間は1分くらい、痛くも熱くもない。白血病の固形腫瘍には放射線はよく効き、普通のがんの半分くらいの線量で治るとのこと。放射線をかけ始めて1週間くらいで痛みがうそのようにとれた。痛みが取れると気持ちが明るくなり、全てうまく行くように思う。

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抗がん剤治療 200578

放射線での髄外治療と重なりながら、骨髄の再寛解を目指して抗がん剤治療を開始。S病院での治療と同じクスリへは白血病細胞に耐性が出来ていて効かないので、別の抗がん剤を7日間投与。14日目には白血球400まで下がった。吐気、食欲なし。27日目には悪寒を伴い40.1度の発熱、耐性皮膚ぶどう球菌を検出したが、大事に至らず抗生剤で数日で治まった。

36日目、白血球2900に回復、土日の外泊許可がでた。

39日目、マルク。ブラスト7%、末梢血ブラスト1%。寛解には至らなかったがK先生から概ね良好、移植に寛解は絶対条件ではない、5%(寛解)も7%(今回結果)も実質はほとんど変らないと言われ、安心。PCR71,000コピー。

の間子供からの移植の可能性を見るため次女の採血をしたが不適だった。4人の子供がいるが、一人を見ればあと3人も適否はわかるということで、親族からの移植可能性はなくなった。

寛解にはなっていないので骨髄バンクは待てず、さい帯血移植の方針が決まった。

強度はフル移植とミニ移植の中間くらい。フル移植では年齢的に体が持たないでしょうと言われた。

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迷い・さい帯血か骨髄か 20058

移植が終わりクリーンルームから出てきたKさんが同室に入室。強いGVHD(拒絶反応)が全身の皮膚に出ており、包帯で半ミイラ人間のよう。手のひらの皮膚がむけるのでペットボトルのふたが開けられない。痛々しい。

Kさんはさい帯血移植の後再発し、今回2回目はどうしても骨髄バンクからの骨髄移植を希望していた。しかし骨髄バンクからの移植は4ヶ月前後の待ち時間がかかり、Kさんの病状はそれを待てる状況になく、主治医はすぐにさい帯血移植をしなさいと、患者と主治医の意見が分かれた。そこでKさんは骨髄バンクからの移植を手配してください。それまで自分で病気を抑え、移植の時に戻ってきます、と言って病院を出て行き、以前の病院の先生に頼んで抗がん剤療法を続け、4ヶ月後に戻ってきて骨髄移植を受けたとのこと。その強い信念と行動力に僕は唖然とした。その強い信念を支える根拠、病気や治療法への理解へも畏怖を感じた。

僕がさい帯血移植を受ける予定だと聞き、Kさんは骨髄を希望するなら、悔いの無いよう骨髄移植にしなさい。先生方は安全論で動いているので、治療中の安全は高まっても治癒からは遠くなる。変更を申し出なさい、と熱心に勧めてくれた。

僕は迷って、先生に骨髄移植にしたいと申し出た。先生は驚いて、骨髄バンクからの移植はコーディネイトに45ヶ月かかる。寛解に入ってないのだから、日々白血病細胞は増えており、移植を待つ間何回もの抗がん剤治療を続けて病気を抑える必要があり、肝心の移植時には抗がん剤の毒で体が弱り、治療に耐えられない。移植治療はタイミングが一番大切で、体と病状が安定している時に治療しないと成功は覚束ない、と説得され、結局さい帯血の移植に落ち着いた。僕には何としても骨髄でという強い信念や、先生の説明を超える知識を持ち合わせておらず、先生を信じて従うのが一番との結論に達した。

後日聞いた話では、Kさんは強いGVHDが出たまま退院し、しばらくして肺炎で再入院され、亡くなったとのこと。GVHDを抑えるために免疫抑制剤やステロイドを多用し、それが肺炎を誘発し、ひとたび感染すると無理をしていた体がもたなかったのではないかと思われる。Kさんは、婚約中で無念だっただろうが、主張を貫いたことには悔いはなかったと思う。ご冥福を。

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さい帯血移植 20059

移植のためにクリーンルームに移動。クリーンルームは病棟の半分20床ほどをそっくりクリーン化してあり、そのクリーン区画内では自由に出歩くことが出来た。クリーン区画内にデイルームも2箇所ある。面会も家族限定だがマスク、白衣、キャップをつけて中へ入れた。家族以外の面会は区画入り口のガラス越しにインターホンでの通話だった。

移植7日前から前処置を開始。強い抗がん剤5日間と放射線全身照射1日を組み合わせ、体内のほとんどのがん細胞を殺す。2日目から吐気、食欲なく、結局この後40日間くらい食事は取れなかった。その間栄養剤点滴と、スープやプリン、アイスクリームなど食べた。移植前日には免疫抑制剤プログラフ点滴を開始。

さい帯血移植は点滴のラインの途中に注射器で少量のさい帯血を注入するだけ。5分くらいで終わった。妻と長女、次女がそばで見守った。あっという間で写真もうまく取れなかったらしい。

移植日の白血球は900だったが6日目には20まで下がった。その後60-190-290-440-860と採血の度に上がり、16日目に1000に到達した。この間幸いにも高熱はでず、危険な期間を無事乗り越えた。19日目には白血球3600まで上がり、生着と判定。一般病室へ移動した。

この間吐気はずっと続き、のどや鼻の粘膜障害ではがれた粘膜がのどの奥をぬらりと流れ、数日に一度は嘔吐していた。苦しい治療ではあったが、最初に思っていた危険な怖い治療というほどの概念ではなかった。去年の抗がん剤治療よりは少し苦しいくらいという感じだった。これは僕にはGVHDが出なかったから言えるのかも知れない。GVHDがひどく出た人は苦しそうだった。

同室のKさんはお姉さんからの移植で、吐気はないが口内炎がひどく痛くて苦労されていた。Kさんは栄養剤点滴でなく、少しづつでも自分の口で食事を食べていた。それで口内炎が余計こたえていた。Kさんも数日違いで無事生着した。その後白血球が下がってきてマルクを何回も受けて、心配したが無事退院。6ヶ月後職場へ復帰し、2007/9現在元気に働いておられる。完治までにはあと3年待つ必要があるが、2年持てばほとんど大丈夫らしい。おめでとうございます。

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一般病室へ 200510

1011日移植後19日目で一般病室へ移動し、1031日退院した。一般病室では退院へ向けた調整で、食べれるようになること、免疫抑制剤などを症状を見ながら点滴から錠剤に変え、点滴をやめること、歩けるようになること(クリーンルームでの26日間はほとんど歩いてない)、GVHDなどの症状が出ている場合はある程度収束すること、などが課題で、僕は比較的スムーズにクリアしたが、吐気は家まで持ち帰ってしまった。退院当日も嘔吐していた。

僕と同じS病院から転院してきたMさんは、僕より1ヶ月ほど先に移植したが、皮膚への強いGVHDでまだ退院できていなかった。病院の外を1周2周歩けるくらいに回復していて、よく着替えて外へ散歩に行っていた。結局退院は年末になり、3ヶ月以上を一般病室で過ごしたことになる。お正月を家で過ごしてすぐに肺炎を発症、再入院、7月ごろ他界された。強い免疫抑制剤とステロイドによる感染抵抗力の低下によるものではないかと思う。僕と同じく自営業で、定年後の創業3年目、事業が順調に進み始めている最中に発病したらしい。恨みごとは一言も口にしなかったが、無念だったと思う。ご冥福を。

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退院後A 200511月−20064

移植での入院は4ヶ月。その前の抗がん剤の入院6ヶ月より短いが、体へのダメージははるかに大きい。2階への階段は途中で休憩しないと上れなかった。それでも1週間ほどすると吐気もおさまり食欲が復活した。ハナちゃんに引かれての散歩も復活した。年賀状も書いた。GVHDが出ないため免疫抑制剤は年末に切れ、お正月には刺身など生ものもいただけた。しかし現場仕事へはとても復帰できる体調、体力ではなく、家で電話番や図面を描くくらいの生活が翌年2月くらいまで4ヶ月続いた。その後少しづつ先生には内緒で現場仕事へ復帰した。インパクトドライバーの振動が快感だったが、やけに重く感じた。移植中に抜けた髪も、3ヶ月くらいで柔らかい毛がまた生えてきた。

3月、現場仕事に復帰し始めたころ、左肩が痛くてたまらなくなり、近所の整形外科で診てもらった。腱板断裂との診断だが腕をどの方向に動かしても、動かさなくても同じように痛いので先生は首をかしげていた。痛み止めをもらって1週間くらいで治まった。2週間後にMRIで腱板断裂の診断確定。年をとると普通に起こる老化現象で軽い場合は放置しても良いとのこと。しかし僕はその診断は信じなかった。MRIを撮る前に左肩は治っていて、今度は右肩が1週間くらい痛み、その次は右足が1週間ほど痛んだ。腱板断裂の症状が動くはずがない。しかしその後は痛まなかったので一過性と考えそのままにしておいた。(これが白血病の髄外腫瘤だったと判るのは1年後に再び同じ症状が左足に起こり、骨の生検手術をしてからだった)。

この間外来は2週間に一回。1月にマルクをしたらPCR法で退院時の50コピー360コピーに上がっていた。不安がよぎったがまだ360なので押し殺し、仕事への傾斜を強めていった。次のマルクは4月、PCR70万コピー、末梢血にもブラストが出ていた。再発ですと告げられた。移植後6ヶ月余り、仕事復帰2ヶ月後だった。元気一杯で自覚症状はなにもなかった。

再入院前日、最後の晩餐は手巻き寿司だった。再移植をしたら生ものが禁止になるので僕が希望した。

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再発A、入院 20064

424T病院再入院。さい帯血移植で再発したので今度は骨髄バンクからの移植を希望した。亡くなったKさんがなんとしても骨髄と言っていたことが思い出された。K先生も了解、手続き開始していただいた。

ブラストが末梢血液中にどんどん増えているので入院翌日から再寛解導入の抗がん剤を開始。点滴7日間。9日目に発熱38.1度、グラム陰性菌を検出。11日目解熱。12日目白血球320まで減少。28日目に4000まで復活したが、白血球内訳は好中球10%、ブラスト40%で抗がん剤が効かなかったと判定された。その後も血液検査の度に増えるブラストに僕は恐怖していた。移植直前には80%くらいまで増えていた。これが100%になれば僕は助からないのだろうと思った。治療前から精神的に白血病の恐怖に負けていた。

抗がん剤が効かず再寛解にならなかったため骨髄バンクからの移植は中止、すぐに非寛解でのさい帯血移植と決まった。なぜ骨髄バンクの手続きの4ヶ月が待てないのか、待つとどうなるのかと聞くと、さい帯血バンクのなかったころは、僕のように抗がん剤で抑えきれない症状のたくさんの患者さんが、骨髄バンクの手続きを待ちながら亡くなりました、との答えだった。

同じさい帯血移植では今度も治癒はむつかしいだろうし、まして非寛解の再移植は統計では5年生存率9%程度だし、と僕は治療開始前から落ち込んでいた。病気仲間のSさん(さい帯血2回移植経験者)が、「さい帯血は一体づつが全て異なり、レシピエントとの相性も異なる。同じさい帯血移植と言っても、全く違う治療になる。次も運悪く相性が悪くて再発すれば、3回目の移植をして相性の良い強いさい帯血にめぐり合うまで移植を続ければよいんだ」という趣旨のメールを頂き、元気づけられた。

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さい帯血移植A 200667

2回目の移植は本当に苦しかった。骨髄は白血病細胞で一杯なので、前処置の抗がん剤は去年の一回目よりずっとたくさん入れた。フル移植に近い量だったらしい。影響はてきめんでトイレに行く以外は、ぐったりして寝返りするのもきつかった。吐気も苦しかった。ひどい下痢で、少し下腹に力を入れるともれるので紙おむつもした。シャワーは一人で出来たがパジャマが着れず、妻の世話になった。食事は前処置直後から食べれず、今回はアイスクリームも口の中で粘って食べられなかった。栄養剤点滴だけで命をつなぐ植物人間のようだった。一日中じっと天井やカーテンを見ていた。そのうちうつ状態になっていったと思う。妻が来てくれても、反対側を向いたまま一言も話さない日もあった。いじわるなことを言った日もあった。長女の時も同じで、もう来ないと怒って、その後来なかった。自分の辛さを、来てくれた妻に八つ当たりしたことを今になって恥じている。

先生や看護師さんにもあまり反応しなかった。20日目に白血球2500ですよ、生着しましたよ、と言われてもニコリともせず無表情に頷いただけだった。

30日目、715日、一般病室へ引越しした時も無表情に言われるままに動いた。白血球5700、ヘモグロビン7.4、血小板13000で血液は良好だった。幸い感染症にはかからず今回も生き延びた。口内炎にもならなかった。GVHDは残念ながら今度も出ない様子だ。

移植治療中、同室の隣のベッドではHさんが僕より1週間ほど早くさい帯血移植を受けていた。車が好きで、定年になったので、友人とドライブで日本中を回る予定で、発病したときはハウステンボスに行く計画中だったそうだ。抗がん剤の副作用で吐気に苦しんでいたが、食事は無理してでも食べていた。食べることが生命線というように、吐きながらでも食べて、奥様もそれを励まし、食べれそうなものを持ってきて食べさせていた。トマトが食べたい時は、生ではいけないと言われ、熱湯に通して薄い皮をむいて食べさせていた。やがて移植後の白血球が1000まで上がり喜んだのも束の間、1週間ぐらいでずるずると200くらいまで下がってしまった。苦しい中でマルクを受け、生着不全と判定された。移植時の怖い問題で5-10%くらいの確率で起こるらしい。すぐに新しいさい帯血を手配し、再度の前処置(経口抗がん剤投与)が始まり、2回目のさい帯血移植は1回目移植の3週間後くらいだったと思う。限界近くまで参っているところからの治療開始になる。それでもHさんは奥様に励まされ食べ続けた。全身状態がかなり危険になり親族にも連絡がいったようだが、それでも少しづつ食べた。そして奇跡の回復を遂げ、僕より1週間ほど遅れて生着した。食べ続けたことが生命力を支えたのだと思う。Hさんが一般病室へ戻ってきた時、僕はHさんと抱き合って喜んだ。

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一般病室へA 200678

少しづつでも歩きなさいといわれて、休み休み廊下を歩いた。うつ状態は少し改善したが、背中が肩こりのように痛かった。40日間じっと寝たままだったので背筋が弱っているためらしい。整形外科で診て貰ったが背筋を鍛えるしか方法はないといわれた。背中の痛みとうつが混じりあい、強くは無いが耐えられない痛みになった。痛み止めにオキシコンチンを、吐気止めにノバミンを処方してもらったが、痛みは軽減しなかった。ベッドのマットを硬い方や柔らかい方に入れ替えてもらったりしたが軽減しなかった。市販のバンテリンなどを家族に持ってきてもらったが効かなかった。

じっと寝ているのは辛く、早く退院したいと先生に言い、もう少し食事が摂れれば退院ですと具体化してきた時にサイトメガロウィルスが検出された。2週間の点滴療法が追加になった。退院目前での2週間延期は酷だった。

山口からHさんが見舞いに来てくれた。嬉しかったが、背中の痛みで10分も同じ姿勢でいることが耐えられなかった。昼食が運ばれたのを機会に話しを打ち切った。

813日退院した。吐気、背中の痛みなど不調だったが、ベッドにじっと寝ていることはもう限界だった。家に帰れば何とかなると、逃げるように帰った。約4ヶ月の入院で、世間はお盆で夏休み中だった。

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退院後Bアカシジア症状 20068月−9

帰宅後1週間ほどは病院にいるころと同じで、ほとんど食べれず、吐気はぎりぎりで押さえ、背中は相変わらず痛かった。

1週間過ぎてから悪化した。食べられないうえ、毎日嘔吐した。背中の痛みは耐えられず2分間もじっとしておれなかった。じっとできないので体温も測れず、体温計を脇からポロリと落とした。家の中をうろうろと歩きまわり、外にでて家のまわりも歩きまわった。眉をしかめ怖い形相でゾンビのように歩いているらしく、妻から外へ出るのは止めてくれと言われたが、じっとしておれなかった。苦しく、こんな苦しさには堪えられないと自殺願望すらでてきた。ロープを掛ける場所まできめた。

電話でK先生に状況を連絡したが痛み止めのオキシコンチンを増やすことくらいしか手がなかった。妻がオキシコンチンをもらいに病院へ行き、朝3錠、夜3錠まで増やしたが効果なかった。

3錠づつとは、あの痛かった耳の髄外腫瘤の痛み止めの時よりも多い。これはおかしい。背中は痛くて堪えられないが、強い肩こりのような痛みで、激痛ではない。これは肉体の痛みでなく、精神の異常だと思い至った。K先生は夏休みで今週はいない。休み明けまでのあと4日は待てない。メールで相談したことのあるM先生の診療所は心の問題も診てくれるということだった。予約をとって翌日受診に行った。途中下車して嘔吐しながら行った。妻が付き添ってくれた。

M先生との面談中も2分くらいしか座っておられなかった。立ち上がって診察室をうろうろして、また座ってを繰り返した。M先生は1時間くらい症状や経過や服用中の薬などを聞きながらその様子を観察されて、身の置き所がないという感じはあるかと尋ねられた。その通りだった。自殺願望や、その他いくつかの質問もその通りだった。先生は吐気止めのノバミンの副作用で、アカシジア症状(静座不能症)に陥っていると診断された。ノバミンを止めると1−2日で消えるはずだと。

ノバミンを止めて症状はすぐに軽減し、数日で解消した。背中の痛みもなくなり、オキシコンチンも止めたので吐気もなくなった。その後1週間くらいで食欲が出てきた。退院後1ヶ月ほど経っていた。クスリの副作用の恐ろしさを知り、うつの苦しさも知った。体重は入院前の67kgから52kgまで減っていた。

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退院後Bその後 20069月−20073

食欲は回復したが脚力、体力はどん底だった。アカシジア症状で憑かれたように歩いていた時には上れた階段も、上れなくなった。ハナちゃんの散歩はとても無理だった。朝6時に起きて、4kmほど離れた神社へひとりで散歩に行った。往復2時間ほどとぼとぼと歩き、再発を防ぎたまえ、さい帯血に力を与えたまえと賽銭を入れた。1ヶ月ほど続け、1015日、ハナちゃんの散歩を再開した。915日には免疫抑制剤も切れて生ものも解禁となっており、やっと平安が戻ってきた感じで嬉しかった。髪の毛もまた生えてきた。

退院 5ヶ月目の12月には作業場整理などの軽作業もできるくらいになった。

6ヶ月目の1月には現場作業にそろそろと復帰した。

118日の外来でマルクをし、PCR380に上がっていた。白血病が動き出した、残念ですとK先生に言われた。免疫作用を上げるというベスタチンを服用開始。

7ヶ月目、28日のマルクでPCR2600に上がった。遺伝子再発ですとK先生に言われた。次の治療にI大病院で臨床研究中の活性化T細胞輸注療法を試したらどうかとK先生から提案され、お願いすることにした。

226I大病院で採血、T細胞の培養を開始していただくことになった。この頃から左足に痛みが出て少しびっこをひくようになっていた。

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再発B、入院 20073

31日外来。左足びっこを引いているのでMRI検査。翌日ヒ骨に髄外腫瘤と思われる影がある。すぐ入院するように、K先生から電話。

35日入院。

38日ヒ骨生検。白血病細胞がヒ骨骨髄で増殖し、血流不足のため大部分は壊死しているという結果だった。

それで理解できた。去年の再発前にも左腕、右腕、右足と順番に痛くなり1週間くらいで痛みが治まった。当時は腱板断裂と診断された。今回のヒ骨も生検の時にはもう痛みはなくなっていた。みんな髄外再発で、それが自然に壊死したので痛みが治まったのだろう。

壊死はしているが治癒ではないので、放射線治療を決定。320日から12回照射。この頃今度は左腕が痛くなり始めており、MRIで同じように髄外病変と思われる影が写っていた。しかしこれではきりがないと、腕の放射線治療はしなかった。

骨髄も再発しており、同時にマイロターグ治療を行うことに決定。

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再会 20074

治癒した人は病院と縁遠くなるが、再発する人は同じようなパターンで再発するようだ。以前の治療時に会った人が今回も同じ様に再発して入院していた。喜べない再会をいたわりあった。

Mさんは1回目、2回目の移植とも僕と同時期だった。今回僕は年齢的に移植は困難だったが、35歳の若いMさんは3回目の移植にチャレンジした。3回目の移植は2回目よりもはるかに苦しかった様子だった。クリーンから出てきた時は車椅子で35kgくらいの体重だった。その後無事退院されたが、退院後5ヶ月経っても未だにGVHDと思われる口内炎に苦しみ、ほとんど食べることが出来ず、カロリーメイトと牛乳が主食だと聞いた。体重も増えず、178cmの身長でまだ40kgそこそこらしい。それでも車の運転が出来るようになったなど少しづつ回復している様子だ。GVHDも出ているのだから再発せずにこのまま元気になってほしい。

Aさんも35歳くらい、小さな男の子のお母さんで2回目に同時期の移植だった。移植治療中、デイルームから自宅のお子さんへ毎日のように電話をしていて、よく通る声が僕の病室まで聞こえてきて、お母さんは強いなあと感心していた。声が聞こえない日は心配した。今回3回目の移植にチャレンジし、体はずいぶん参っているようだが気持ちはいつものように元気にクリーン室から出てきた。お子様の幼稚園の入園式にどうしても出たいと外泊もできるくらいに回復していた。外泊の朝、行ってきますと挨拶をされて、昨日までの毛糸の帽子が突然ブルネットの髪に変っていて、うわぁいい髪型ですねと思わず叫ぶと少し照れていた。その後Aさんは膀胱炎になったと聞き、具合が悪いらしく廊下に出てこなくなった。そして僕も寝込んでしまい、2週間後に起きれるようになった時には、もう病棟にいなかった。元気でいて欲しいと思う。→このとき亡くなられたと後日聞いた。ご冥福を。

Gさんも35歳、驚くほど勉強して病気の知識を持ち、社交性にも富み、がっしりした体で、理想の人間像のような人だった。1回目の移植の時同じ部屋で、その後外来で時々会い、飲み会にも誘われたりした。僕が入院している時は外来の度に見舞いに寄ってくれた。あと少しで移植後2年という時に再発した。丈夫な体の持ち主で移植中に敗血症にかかってもそれをメールで連絡してくるくらいの余力があったが、生着不全で感染症の最中に再移植になってしまった。その後1ヶ月くらいさまざまな感染症に苦しみながらも頑張ったけれど、ついに力尽きて亡くなられた。誰もが、何であの人がと思ったと思う。ご冥福を。

ほかにも何人もと再会した。移植後6−7ヶ月目が鬼門のようだ。
この4月
-5月、僕が仲良くしていた3回目移植の仲間5名は2名が無事退院し、3名が亡くなられた。みんな20歳台、30歳台で僕よりずっと若かった。

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マイロターグ治療 20073月−5

マイロターグは2005年7月に保険承認された新薬で、モノクローム抗体治療薬。極力ガン細胞だけを狙うようにつくられた抗がん剤で髪の毛や粘膜は攻撃せず副作用が少ない。正常な白血球細胞も一緒に狙われるため白血球は下がるが、造血幹細胞は攻撃を受けないので回復が早い。主に体力のない高齢者、移植後再発者向けの治療薬らしい。T病院では僕が5例目くらいの患者だそうだ。寛解の確率30%とのこと。
3年前僕が初発時S病院で読んだ本には研究中の将来の治療薬として、ガン細胞だけを狙い撃ちするCD33抗体治療薬がアメリカでは実用化されつつある、と小さく記述されていた。まさかその薬を自分が試すことになるとはその時には夢にも思わなかったが、治療の進歩と、僕が長生きさせてもらったことを考え、感慨深かった。

マイロターグは点滴1回を2週間空けて2回繰り返す。3261回目投与。マウスの抗体をヒト型に遺伝子組み換えしたクスリで2%くらいはマウス成分が残っており、アレルギーでショック症状を引き起こす場合があるとのこと。呼吸や心臓のモニターをつけての物々しい警戒体制での投与となった。幸い何事もなかった。

11日目、白血球は2400あるが好中球はゼロに下がった。リンパ球は攻撃されないので2400の白血球の中身は全部リンパ球らしい。

22日目、白血球13700まで復活

治療途中多少の胃のむかむか感はあったが食事できないほどではなく、軽いものだった。治療中、妻に寿司の折り詰め弁当を買ってきてもらい、屋上で食べたりした(もちろん加熱食になる前)。あまりに副作用が少ないのでこの治療は効かないのではないかと思った。1回目が終わった時点でのマルクのPCRは1700、一応効いてはいるが、あと1回の治療で寛解にはなりそうには思えなかった。年齢や3年間の抗がん剤の毒で臓器が弱っていることもあり、移植に先生が積極的でなく、移植に替わるこの治療が効かないとなると、先が不安だった。

その後アスペルギルス肺炎と思われる影がC T  で見つかった。マイロターグを10日ほど延期して抗真菌剤をブイフェンドからアムビゾームに変えたりしてみたが、変化なかった。変化がないので進行していないとみなし、マイロターグを再開した。

417日 マイロターグ2回目投与。

11日目、4月29日ゴールデンウィーク初日。白血球2600、好中球200まで低下。発熱40.2度、細菌性肺炎と敗血症ショック症状。

細菌性肺炎と敗血症の合併症は初めての生命の危機だった。血圧は70まで低下、昇圧剤にもあまり反応せず。尿管挿入。サチュレーションは90まで低下、酸素吸入12リットル毎分。CRP40.3ピンク色の痰。心不全との診断。4人部屋からナースステーション前の一人部屋に移された。妻が呼び出され、親族を呼んでもらうことになるかも知れないが、白血球が明日でも上がってくるはず、もう一日様子を見ましょうと告げられた。熱が出て2日目だった。

僕は体は動かないが、意識はあり、周りで進行している様子も何となく分かっていた。点滴のクスリが8種類もぶら下がっているのも数えられた。ただ、体がだるく、遠い世界の他人事のように感じていた。あせりも不安も苦痛も何もなく、ただだるかった。

予想通り白血球が翌日上がってきて一命を取り留めたが、ベッドで起き上がれるようになるまで7日間かかった。歩けるようにはさらに1週間必要だった。

16日目、白血球8000、好中球1000まで回復。

マイロターグ治療後のマルク結果は予想を超えるPCR50、キメラ遺伝子検出せず。100点満点の完全寛解だった。思わず廊下へ出て、お世話になった看護師のIさんやSさんの手を取ってくるくる回りながら喜んだ。感染症で危険にはなったが、移植と比べるとはるかに楽な治療だった。それで同じような結果になるのは、移植を受けて苦しんでいる人に申し訳ないと思った。
ただし
K先生は冷静で、数値は同じでも、寛解の深さは移植よりは浅いはず。このまま寛解を維持できる可能性は移植よりは少ないとのコメントだった。

肺の5cmくらいの丸い影はアスペルギルス肺炎と思われるが急激に大きくなるような気配はなく、外来で経過を見ていくとこととなった。

517日退院。車の迎えなしで駅まで歩いて電車で退院できた。移植後なら不可能なことだ。

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退院後C 200756

退院5日目からハナちゃんの散歩再開。事務や作業場整理も開始した。移植とはダメージの質が違うことを実感した。

64日、外来、マルク、PCR3300。一ヶ月ももたず再発した。

T細胞療法を受けることになった。

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再発C、活性化T細胞輸注療法(免疫療法) 200768

骨髄バンクからの移植で再発した時、ドナーさんのリンパ球をいただき輸注すれば、ドナーリンパ球の免疫力によって再発しかけたガン細胞を退治し再発を止める場合がある。これをDLIと呼び、寛解率30%くらい。欠点は強いGVHD(拒絶反応)を引き起こすことがある。

さい帯血移植の場合、ドナーさんがいないのでこの方法が取れない。しかし、移植後の患者の血液中にはさい帯血のドナーリンパ球が流れており、これを1000倍くらいに培養して増やし、さらに活性化して強めれば、DLIと同じ効果があるはず。この理論(免疫療法)で臨床研究がされており、患者として参加した。保険承認はおりていないので培養などの特殊費用は病院の研究費から出て、通常の診察費や入院、治療費は患者負担(保険適用)。

2週間毎に100mlを輸注し、3回6週間を1クールとする。1クールごとに血液をPCR検査に出し検証する。数値が下がっているなどの効果が認められた場合、治療を続行する。数値が上がったり、変らなければ、効果なしとして治療を中止する、とのこと。

副作用はないはずだが、最初の1週間だけ、アレルギー反応やGVHDの有無を見るため入院する。何もなければ以降は外来治療で可。

622I大病院入院。626日一回目T細胞輸注。特に悪い反応は出ず628日退院。以降2回外来で2週間置きに点滴輸注をうけた。病院は繁華街に近く、治療の後に妻と遅い昼食を食べてから、本屋に寄ったりぶらぶらと歩いた。こんなデートをするのは30年ぶりだった。

途中PET撮影もした。肺に2箇所、頚椎、胸椎、腰椎、胸骨、右上腕、左上腕などに集積を確認。骨、リンパ節に転移したIV期肺がんの様相だが、原病が白血病であるため白血病細胞の浸潤も考えられる、とのコメントがついていた。その後もう一度PET撮影をして比較し、T細胞の効果検証の一つとした。この検査でアスペルギルス肺炎と思われていた肺の影は白血病の髄外腫瘤であることが判明した。

88日、3回目終了後判定。末梢血のPCR430030000へ増加、PET画像では明白な増悪を認める、自覚症状でも首に痛みを感じ始めていた。血液、画像、自覚症状の3つの指標が全て増悪の方向を示し、効果はあまり認められないとの判定となった。

この治療は成功すれば、再発の不安を持つ大勢のさい帯血移植治療患者の光明となる。僕の場合は髄外腫瘤が出て効果は認められなかったが、それでも病勢の進行を少し遅らせたのではないかと思っている。A先生には引き続き研究に邁進し、早く大勢のさい帯血移植患者が治療の恩恵を受けることができるよう、治療法の確立をお願いします。

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首の痛み 20078

T細胞臨床研究が終わるころから首の左側が痛くなり、少し首が動いてもズキンと激しく痛み、起きていられなくなった。頚椎に出来ていた腫瘍が神経を締め付けているらしい。寝ていても痛く、左向きの特定の姿勢だけかろうじて痛くなかった。1週間以上、その痛くない姿勢をとって一日中横になっていた。以前の残りのオキシコンチンを朝3錠、夜3錠のんだ。それほど痛みはとれないのに、副作用で吐気が出て、食事が食べられなくなった。暑いと痛みが増す感じなので、24時間エアコンをつけていた。今年は特に暑い夏だった。

その後外来で痛み止めをデュロテップパッチに変更したもらった。貼る痛み止めで吐気が出ず、効果もオキシコンチンより強いらしい。首の痛みはあまり変らなかったが、吐気がなくなって食べれるようになったのは良かった。

PET検査で肺がんIV期の様相とのことなので、肺がんをネットで調べ、DearというHPにたどり着いた。肺がんの治療経緯が淡々と綴られていた。白血病も辛いが肺がんも救いのない病気なんだと思った。

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髄外再発、入院 200789

T細胞療法であまり効果なしの判定を受け、首の痛みの治療のため814T病院入院。入院時のマルクはブラスト2.8%、PCR18万。血液学的にはまだ寛解を保っているが遺伝子的には再発。さらに髄外再発している。

治療目標は抗がん剤と放射線で髄外腫瘤を治療し、痛みをとる。白血病そのものの根治は今回の治療の目的ではないので強い抗がん剤は使わないし、深追いもしない。CA療法という抗がん剤の組み合わせで行くことになった。5日間の黄色いアクラシノン点滴と、朝晩キロサイド少量皮下注射を14日間した。3日目に嘔吐してその前後に吐気があったが概ね副作用は少なく楽な治療だった。髄注もして脊髄液は陰性だった。

ところがこのCA療法が髄外腫瘤に驚くほどよく効いた。肉眼でわかる胸骨の腫瘤が8日目にはほとんど分からなくなった。レントゲンで5ヶ月追いかけてきた肺の腫瘤もちいさく薄くなってきた。首の痛みも10日目くらいにはほとんど消えた(放射線治療も行い、その効果も相乗しているはず)。

首の痛みが取れると体調は良好なので外出もできた。妻と長女が来てくれて、ニコライ堂-湯島聖堂-神田明神-湯島天神と暑い中をかなり歩いた。病気を治したまえと賽銭を入れた。

14日目、白血球が4800に下がったためキロサイド皮下注射を終了した。5月の治療中の感染で危険な状態になったことで先生方が白血球減少=感染に非常に慎重になっていることを感じる。

22日目に白血球2200、好中球10%で底を打ち25日目の98日退院した。

肺の腫瘤は1/3くらい、首の腫瘤は1/10くらいに小さくなっているがまだ残っている。この治療がよく効いたので1ヶ月くらいで体力、骨髄が回復した後、2回目の同じ治療をおこなうこととなった。退院時、10月の入院手続きを行った。

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緩和療法へ 20079

退院時、K先生からの治療総括と次の治療への説明があった。

今回のCA療法は髄外腫瘤によく効き、驚いているくらい。まだ少し病変が残っているので、もう一度10月に同じ治療を行い、髄外腫瘤を消滅させたい。

その後は3回目のさい帯血移植か、緩和療法かになる。3年間にわたる抗がん剤の投与で、心臓をはじめ全臓器が弱っており、感染症にかかると非常に危険な状態になることは、5月に実証すみである。移植治療は強い抗がん剤を使ううえ、低血球期間が30日くらいと長いため、非常にリスクが高い。クリーンルームに入って無事に出てくる可能性は10%以下らしい。

緩和療法の場合はできるだけ自宅で過ごせるよう、症状がでた時に抑えるだけの軽い抗がん剤治療をおこなう。治癒は目指さない。しかし軽いとはいえ、抗がん剤はやはり毒性がある。数回繰り返しているうちに体調を崩してくる場合もあるし、白血病が爆発的に増加する場合もある。これを抑えようとしているうちに感染症にかかる可能性が出てくる。恐らく1ヶ月から半年くらいの間で、1年先2年先などは無い、ということだった。

本田美奈子さんが2年前、200512月に白血病で亡くなった。僕も移植後まもない頃で非常に気になった。テレビ、新聞、ネットで全ての関連ニュースを調べて読んだ。本田美奈子さんは、月曜日、症状が良いので週末に外泊しても良いといわれ、鍋を自分で作るんだと張り切っていた。水曜日、胸が痛いと言い出して、土曜日には昏睡状態、日曜日に他界された。直前まで元気で、わずか4日目に亡くなった。

僕も5月に同じような状況で、4日目くらいで駄目だったのだろうと思う。その直前までは連休後半には外泊できるかもと楽しみにしていたのに。たまたま僕の場合は白血球の回復期だったので助かった。しかし、そんな幸運は何回も続かないことは判る。自分の最後の様子と時期がかなり具体的に見えてきた感じだ。

移植すれば移植治療中の11月ごろが寿命になる可能性が高い。それよりは、梅か、桜か、青葉の頃くらいか、うまくいけばもう少し寿命を延ばせるかもしれない緩和療法のほうが良いような気がする。

結論は次のCA療法が終わる10月末くらいまでに決めればよいが、先生には緩和療法をお願いするつもりです、と答えた。妻も隣に座って聞いていた。3年前白血病ですと告知された時と良く似た感じだった。

 

2007年9月11日

 

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