天下夢奏
〜戯曲『無銘の御剣』より〜
第2楽章 第1幕 ―テータ2―
「…はあ、そんなことがありましたか」
アレフは平然と言う表情でローの言葉を聞いている。
「ふざけるな、貴様、間違った情報を渡しておいて」
だが彼はけろっとしたもので、しれっと答えた。
「間違えた?ははぁ、私はグレイズ閣下に会えるように情報を渡したのですがねぇ…
閣下がどうしても居場所を知られたくないという事でしたし」
そして、こう続けた。
「それでも私の頼みを聞いて貰いますよ?
貴方は私の情報で、暗殺に成功したのですからね」
にっこり笑いながら羊皮紙を机から出してくる。
それはどのぐらい以前のものだろうか?もう端々が腐りかかっている。
「…なんだこれは」
「地図です。無論ただの地図ではありませんが…」
彼はさらに何事か呟くと、地図に若干の変化が起こったような気がした。
「…見て下さい?今読めるようにしました」
言われるまま羊皮紙に目を落とした。
その地図は見覚えのある――そう、彼が良く知っているはずの地図だ。
周囲を囲む正確な円を描く六門の塔、周囲の山の形状、それはリギィ首都ネティアスの地図だ。
だがそれだけではなかった。
「…いや…ネティアスじゃねぇな」
よく見れば王城がなければならない場所は×印が入っているだけで、何にもない。
「そうです。これはリギィ建国以前の地図です。と、言えばお分かり戴けるのでは?」
彼は顔を上げた。
リギィが建国したのはそれ程昔のことではない。
移民が流れ着き、国としてできあがるまでの時は必要だった。
原住民との対立を何としても抑えたかった当時の領主が、
彼らの祭壇を自らの居城として開発してしまったらしい。
しかし、そこに遺跡があると言う事実は、一部の貴族や王族関係者以外は知らされていないはずである。
勿論、過去の原住民の語りには残っているだろうが。
「噂には聞いていた。…だが、本当に城の地下に…」
アレフは大きく頷いた。
「はい。この地図はとある廃屋の奥に埋もれていたそうなのですがね、
この辺の人間では価値が分からなかったようで…残念なことにこの外形の地図だけで」
そして彼はゆっくり指を×印に進める。
「ここがどうやら入り口らしいと…」
「城、じゃねえかよ」
アレフは顔をあげてにっこり笑った。
「調査の依頼です。詳細は知りませんが、地上に何らかの目印があると思いますよ?
王城の構造に詳しい人間でなければ難しい依頼ですからね。
あ、でもリギィの貴族になんか頼めませんでしょう?」
ローがぎりっと歯がみしたのを聞いてか聞かずか、こう付け加えた。
「…どちらにせよ貴方の意志を止められる者などこの世にはいません。
貴方の意志は貴方でしか変えることはできません」
睨み付けるようにアレフを見返すと、彼は吐き捨てるように言った。
「俺に、ネティアスに戻れと言うのか」
アレフは一切を表情に見せなかった。
それで交渉は終了した。
ローは首を軽く振ると彼のねぐらからすごすごと立ち去っていった。
その背を見送って、アレフはため息をつきながら立ち上がり後ろを向いた。
「…これでいかがですか?『依頼主』様」
奇妙な事に、壁の中から衣擦れの音が聞こえた。
と、壁からぬっと手が生えてくる。
「さすがだな」
壁を完全に抜けて、男は全身を露わにした。
豪奢な飾り立てのある服に、裕福そうな血色の良い顔。
そしてどれだけの苦労をしたのか分からないぐらい、深みのある瞳。
しかしどこか口元や顔つきには人を人と見ないものを漂わせている。
「お前に依頼して、間違いはないようだ」
アレフは大きく一礼して、ゆっくりその場にひざまずく。
「滅相も御座いません。私はできる限りの事をしたまで」
相手の男は何か、それに対して答えたようだがアレフの耳には届かなかった。
――なかなかの情報でしたよ。私も気がつきませんでしたが…
男が動く気配にアレフは立ち上がった。
「…では、私も向かうとしよう」
くすり
アレフは小さく――そう、気がつかない程――笑い、そして男に声をかけた。
「そちらではありませんよ、大臣殿。こちらがリギィですから」
「ろー♪」
とて、とベッドから弾けるように飛び降りると彼女は彼に向かって飛び込んできた。
「良かったぁ」
そして嬉しそうに頬ずりしている。
テータは昨晩泊まった宿でおとなしく待っていた。
言うとおりにしていたらしい。
「これから…さらに東に行かなければならなくなった」
自分の腰の辺りにいるテータの後ろ頭を右手で押さえて言う。
テータは猫が喉を撫でられているようにじっとおとなしくなる。
「すぐに出発する」
彼が手を離すと、抱きついてきたのと同じように弾けて荷物に向かう。
ローも自分の荷物を取ると埃を払ってそれを背負う。
「じゃ次はリギィだね?」
「ああ」
昼間ぐらいになると、ここから移動するには最終便の馬車になる。
これなら、次の街に何とか夜までにたどり着く計算になる。
馬車には数人の乗客が乗り合わせていた。勿論ここから直接リギィへと行くわけではない。
この馬車は一旦中立地帯の――そう、南の国境に近い商業都市に向かうのだ。
この大陸を大きく東西に走る街道が通る街で、軍事的な価値が高いものの、
軍事力よりももっと巨大で逆らうことのできない力を持った物がそれを支配していた。
経済力を握る商人達だ。
彼らのギルドが管理しているため、どの国もこの街道を軍事利用またはその利用を妨げる行為を
行うことができないのだった。
とはいえティフィスから街道沿いに直接リギィに向かうことはある意味では半ば自殺行為であり、
自粛されていた。
ティフィス国内の街道は非常に整備が行き届いているらしく、馬車の内部の揺れは非常に少ない。
「ろー?」
ローはテータと向かい合わせて座っている。
若干気を利かせたのか、以前の様にくっつこうとはしない。
ローは自分の剣を壁際に押しやり、片腕を剣に乗せている。
テータの言葉に少しだけ目を彼女に向ける。
「…次の仕事は?」
丸いくりくりした目をローに向けている。何も考えていない子供の様な表情。
「遺跡の探索だ」
簡単に答えて再び彼は目を閉じた。
もうこれ以上相手にするのが疲れた、という感じだ。
テータは悔しそうな表情を浮かべてすねてみせるが、別に誰も彼女を見るものはいなかった。
もう数分もしないうちに太陽が地平の下に隠れようとする時刻。
彼らは次の街に辿り着いた。
他の客が馬車から降りてもローが降りる気配を見せないので、
テータは怪訝そうに彼の顔を覗き込む。
「どしたの?ついたよ?」
ローは返事を返さず立ち上がって馬車から出た。
が、出た途端に大きく体勢を崩して地面に倒れ込んだ。
「ちょ、ちょっと」
空には既に白い月が昇っている。
そして、地平すれすれにもう一つの月が昇ろうとしていた。
「大…丈、夫だ。躓いただけだ」
彼は無理に地面から身体を引き剥がすようにして立ち上がった。
――まだ…何とか…
だが実際にはそんな生やさしいものではなかった。
大きく揺らぐ。
ひっきりなしに脳を焼く感触と同時に、皮膚の下を走り回る蟲が中を切り裂くような痛み。
閃光のように目の前から色彩が消える。
――くそ…
だが、それもほんの一瞬で静まる。
静まったと思うと全身に寒気がして、嫌な汗が額を伝う。それが数分おきに繰り返されるのだ。
――あと…あとわずかだって言うのに
前兆だった。
今までよりも明らかに『中』の力の方が優勢になりつつあるのだ。
「大丈夫じゃないじゃないの!はやく宿を取って休もう」
疲れた表情で、テータが叱りつけるのを見つめてゆっくり首を振る。
「違う。…宿はまずい」
そう言って彼は街の入り口とは全く逆の方向を向く。
「はな…離れないと」
耳鳴りと同時に音が急に聞こえなくなる。
遠くへ離れていくように、テータの声が聞こえなくなる。
何か叫んでいる。
「…いいから…早く遠くへ」
「ロー、しっかりして?どうしたんだよ」
うつろな目でローはテータを認識した。
彼は冷や汗が流れているのを気にせずに彼女を見つめる。
「今までとは違う…今までなら…しかしもう数日で邂逅の日だ」
彼は震える手を開いて彼女に見せる。
心臓か何かが入っているように、規則的に脈打つように震えている。
「奴が…来る」
彼は明らかに怯えている。
『奴』を畏れている。
奴は権化だ。あらゆる意味で欲望の塊だ。
必要のない殺戮を繰り返す、彼にとって考えたくない悪党のことだ。
が、テータは彼の反応にはまるで興味のない様に首を傾けて考え込む仕草をする。
「初めてあったときの…あれ?」
彼の反応がないのを無視して彼女は少しだけ身体を大きくした。
今の身長では彼を連れて行くには無理があるからだ。
肩が彼の脇ぐらいの位置に来る程度にまできてから、
彼に肩を貸すかのように抱えるといつかのように引きずって歩き始める。
「…だめだ、俺は…」
逆らおうとしても、何故か抵抗できない。
丁度内部の力に抵抗しているせいで動けなくなっているのだろう。
テータは首を振って彼を抱く腕に力を込めて、彼の胸に頬を押しつける。
「いいから。どっちにしてもボクの力で引きずられるようじゃ、今外に出ても一緒だよ」
彼女の言うとおりだった。
抵抗しているはずの足にも全く力が入らない。
肩を貸すと言うよりも文字通り引きずられているのだ。
「…ね?」
ローは肯定したくなかった。今でも中でざわめいているものが何時外に出るのか分からない程なのだ。
そうこうしているうちに、適当な宿へと入っていった。
「お願い、急病人なの。一晩部屋を貸してくれない?」
ローは抵抗しても無駄、と踏んだのか何も言わない。
青ざめた顔を親父の方に向ける。
宿の親父はあまりいい顔をしていなかったが、テータが数枚の金貨をカウンターに置くと急に顔色を変えた。
「おい、お二人を案内しろ」
カウンターの裏側から男が現れて、ローの荷物とテータの荷物を軽々と持ち上げると恭しく頭を下げた。
「どうぞこちらへ」
恐らく、男は用心棒も兼ねているのだろう。
通された部屋は普通よりも十分大きな二人部屋だ。
配慮なのか無遠慮なのか、ベッドが二つ並んでいる。
テータはローをベッドに座らせて一息ついた。
「ふう、キミってほんとうに重いね」
「馬鹿野郎っ」
叫んで立ち上がろうとするが、目眩でもしたかのようにそのまま再びベッドに腰掛ける。
まるでうわごとのように何事かを呟きながら。
「…俺は…もうこれ以上は何も…お前だってこれで何度目だと思っているんだ」
テータはにいいと笑みを浮かべる。子供や、女性と言った雰囲気の笑みではない。
「何を言うかと思えば。…キミはボクの両親…いや、親代わりを二人とも殺したよね」
ほとんど動けないローの顔を両腕ですくうように掴む。
頬の感触が掌の中で動く。言葉の割には柔らかい優しい口調が、小さな彼女の口から紡がれていく。
「キミは、その後ボクを無茶苦茶にしたね」
ぴくりと頬が動いた。その時テータの表情に愉悦のようなものが浮かんだ。
「…嫌だったら、今すぐにでもボクを殺せば良いんじゃないか?」
頬を滑らせて首を捕まえるようにしてローの頭を抱きしめる。
ゆっくりとローの後頭部を這い回る手。
「そうだよ?何も怖がる必要なんかないさ。
キミは罪人で、ボクはキミを断罪するためにつきまとっているのに」
右手で頭を絡めて、左手を彼の背に滑らせる。そして、左の耳たぶを噛む。
「…ボクが与える罰は、キミがボクのものになること」
そのまま体重をかけて彼を押し倒す。
そして、身体を離して上半身だけを起こして向かい合う格好になる。そして笑みを浮かべる。
笑み。
「うわああああああああああっ」
小さな悲鳴と共にテータはベッドから転がり落ちた。ローが彼女を突き飛ばして起きあがったのだ。
だが彼も、自分の両手を見ながら驚愕の表情を浮かべている。
テータがうめきながら立ち上がるのを見て初めて自分の身体に自由が帰っていることに気がついた。
荒い呼吸を整えようと必死になる彼を、先程よりも若干さめた目で見つめるテータ。
「…一体何が望みなんだ」
くたびれた言葉に、テータは見下したような目を向ける。
「この意気地なし。…素面じゃ、抱けないんだ」
ローがきっと目を向けると、そこにはいつもの子供子供したテータはいなかった。
鋭い目つきをした別の生き物が――小悪魔が立っていた。
「お前…」
「ボクが亜人だから?知ってるさ、亜人種差別があることぐらい。何回…」
彼女は悔しそうに歯ぎしりするとうつむいて、噛みつきそうな表情を浮かべローを見据える。
「ボクはキミと一緒にいることに決めたんだ。たとえ殺されるとしてもキミなら良いんだ。
もうそう決めたんだから」
ローは表情を変えない。不思議なものを見る目で彼女を見つめている。
テータの言葉に嘘は感じられない。
でも、何故そこまで言える?何故そんな目で俺を見る?どうして俺でなければならないんだ。
ローは困惑していた。
「ボクはローさえボクの側にいてくれればそれだけでいいんだ。どんな風に扱われようともね。
…ボクは…そうさ、女でも男でも子供でも老人でもない。死ぬことだってないんだ…だから」
「だからどうして俺でなければならないんだ」
彼の言葉に険が差していた表情はすっと気弱な力のないものへと変わる。
それだけで急に『弱い』ものに見えてしまう。か細い、守らねばならないもののように。
「俺でなければならない理由があるのか?」
しばらく沈黙が続いた。
ローが睨んでテータが困惑するように見えた立場は、しかし先程と変わっていなかった。
テータの方が、上位だった。
彼女は一歩、一歩ゆっくりローに近づく。
「…あのさ」
ローのざんばらな長い前髪を右手で櫛のようにかき上げて、抵抗する間もなく口を重ねる。
急な行動にどう反応して良いのか、経験の浅いローはされるがままだった。
突き飛ばしたり払いのけられる程、冷たい人間でもなかった。
再び顔が離れた時、テータはしてやったりという顔で嬉しそうにローを見ていた。
自分の腕をローの肩から背に回し、身体を預けるような格好で彼の反応を見ていたが、やがてそのまま抱きついてきた。
「『美味しそうな』ものを手放すはずはないでしょ?今まであった中でもキミは最も不思議な色を持ってるんだよ。
ボクらは感情や心の色が見えるんだ。…理由はね」
テータは頬を彼の首に埋めて目を閉じた。
「多分、ボクらが身体を持たないせいだと思う。
だから、この人は悪い人じゃないっ…て、分かるんだ」
――…悪魔、か
ローは明らかに警戒心が緩んでいくのを自分で感じながら、彼女を抱きしめた。
――人間には理解できないのか…
そのまま抱きしめる腕に力を込める。
――そうだよな…たとえこいつの餌にされるんだとしても…俺は…
もう誰にも必要とされていない。
敢えて言葉にするつもりになれなかった。
「助けてくれるのか?」
テータはぱっと顔をあげて、嬉しそうに頷いた。