キールの欠場から半日もたった、その日の夕方。再び奴─―仮面の剣士が現れた。その頃、街の外に一台の馬車が停まった。
「旦那、日が沈むのには間に合いやしたよ」
嬉しそうな言葉をあげる。馭者が振り向いたときには既に男は降りていた。
「ああ、いつも世話になる」
「へへへ、旦那。旦那にはいつもよくしてもらいやした。あっしにはこんな事ぐらいでしか感謝できないですがね」
男は笑いかけて、馭者に袋に入った金貨を渡した。
ざかっ
男はマントを翻して闇の忍び寄る街を見つめた。
―─フン……
月が天頂に昇ろうという時間なのに、静寂が包むはずの街並みにはまだ喧噪が残っている。
この時期には大抵の店は終日営業になる。
負けた奴らがやけ酒したり、観客のうちでも大勝ちした人間が毎日のようにお祝いするするからだ。
男はマスクに指をかけると目元まで隠すように引き上げる。そして、ゆっくりと片隅の闇の中へと足を踏み入れた。
ちゃきん
しばらく歩いた頃だろうか。金属が立てる音が彼を遮った。
気配は一つ。
奴は暗闇の中で刃を構える。
「イヴェルグ=キウルアーキか」
マスクの下からくぐもった声を出す。だが、剣を構えた姿には切っ先を向けることに何のためらいも見せなかった。
「それじゃ分かる奴にはすぐ偽物だって分かるぜ。奴の剣は抜き身じゃねえ、居合だ」
だが返事はない。じりじりと間合いを測る奴に、闘いの気配すら見せないマントの青年。
ぐん
一気に間合いをつめ、刃は真っすぐ襲いかかった。
きぃん からん
だが、牙を模した仮面は音を立てて地面に転がった。マントを羽織った男の方はかすり傷すらついていない。
月の滴に濡れた青い夜の中に、奴の顔がはっきりと現れた。
「……驚いたな」
マスクに思わず指をかけて青年は言った。
「顔どころか頬の疵まで似せてやがる……」
彼がそう呟いた途端、イヴェルグ─ガレヴィの表情は引きつってその場に凍りつく。
「なぁ、まるで鏡を見るようじゃねえか」
がしゃ
マスクの青年はマントの下から金属製の『手』を見せた。
通常セストスと呼ばれる暗殺用に造られた暗器の一つで、握る部分から星のように5つの刃をもつナイフだ。
「さっさと拝ませてもらうぜ。その本当の顔をよ」
「まっ……まって…」
青年に動揺が見られた。明らかに男だと思っていた所に、子供じみた少女の声が聞こえれば当然だろうか。
ゆっくり、彼の見ている前でその姿が小さくなっていく。
かしゃん
大きさの合わなくなった鎧が音を立てて落ちた。
「…ガレヴィ、逃げて」
ざわっ
風がざわめいた。
すっと身を沈めた男の上から、閃きが走る。
後ろへ転がるようにして飛びのいた空間に闇が躍りかかった。
―─!
影は着地と同時に腕を振った。軽い金属音と同時に指先に煌く物が見えるのがわかった。
「くっ」
ぎりっと地面を咬む靴音。ガレヴィの右手は一気に引き絞られ真後ろで止まる。
「さっせるかぁっ」
ずん
地面を蹴りこんだ彼の体は一気に影との間合いを詰めた。
既に奴の右手は前方に構えられていたが、それが振り抜かれる前にガレヴィの右手は背を向けた奴へと疾っていた。
『穿っ』
右手が炸裂したように見えた。
『何か』が命中した奴はつんのめるように前に転がって、そのまま倒れるように思えた。だが、ガレヴィは跳んだ。
くんっ
奴は地面に倒れるどころか、そのまま一瞬で目前から姿を消す。
―─くっ、かなりの使い手か
宙に浮いた『空中戦』の場合、普通は後から浮いた者の攻撃の方、もしくは早く着地した方が有利になる。
ひゅぅうん
空を切る音が自分の背中から襲い掛かる。
「ガレヴィ!」
転がって地面に体を打ち付けるようにして着地する。
奴は、振り返ったガレヴィの目の前に沈む暗い闇の中に潜んでしまって、うっすらとした墨が漂わせる気配以外残していなかった。
―─あの体勢から俺を飛び越えて……足音も立てずに隠れるだと?
つうと脚へ伝うものが耐え切れずに滴る。転がった拍子に刺さっていた物は抜けたようだが傷は大きくなったようだ。
ぴしっ
頬に一条の紅の筋が浮かび上がる。
─―これ以上は……
一瞬、後ろにいる少女の事が脳裏をかすめる。
間隙をぬってガレヴィの足元に黒子のような姿が滑り込んでくる。
のけ反るガレヴィの顎をすれすれに閃きが走る。
彼の右足は一瞬躊躇したような捻りを加えて、後ろに倒れざまに黒子の伸び上がった脇腹に突き刺さる。
─―?軽い?
手ごたえがなかった訳ではない。が、彼は怯んで宙に体をさらす奴を確認せずにそのまま地面を蹴った。
先程の、自分の名前を呼んだ少女を抱き抱えて。
ぺっ
壁にしたたかに叩きつけられた影のような奴は口に溜まった血を吐くと、逃げる影を見て肩をすくめる。
そして再び影の中へと姿を消した。
しばらく少女を抱き抱えたまま人気のない路地を走り、角を転がるようにして暗い中へと身を投じた。
─―気配は…ない…まいたか?
背中に石の壁が冷たい。
もう乾いたのか軋むような音を立て粉が落ちるのが分かる。指で自分の頬を撫でて、完全に出血が止まっているのを確かめる。
『気』の流れに乱れもない、完全に治癒している。
彼ら闘士は―─特に近距離型と呼ばれるガレヴィのような闘士は非常に簡単に傷がふさがる。
もちろん止血と治癒は早いが、完全にふさがるにはかかる時間は普通と変わらない。
しかし、傭兵として戦闘を続けるには、生き残るには不可欠な能力だった。これが彼らを最強足らしめるものだ。
「うっく…」
きゅっと胸元を握り締められて改めて気がついた。少女―─イィエルがいる事に。
「ごめん…なさっ…」
むせるように涙声を出す彼女。
「本当に……あた、あたい…」
どうやら耐え切れなくなったのか顔を上げた途端に泣き崩れて続けられなくなる。
ガレヴィは肩をそのまま抱き締めて、しばらく壁に身を預ける。
―─馬鹿な……
「イィエル」
人の気配はしない。この辺の路地に住む人間さえも公開闘儀式の為に出払っているのかもしれない。
そして、先刻の闇の気配も消えたままだ。
「…ありがとう」
空にはまだ白い月が昇ろうとしていた。
「悪魔退治ですか」
鉄槌の名前で呼ばれてから1年も経った頃の事だった。
既に彼の正体は知れ渡っていたというのに、その強さのためか機甲会も手を出さなくなった。
いや、多分彼一人にもう予算はさけないのかも知れない。
「そうなんです。困っているんですよ」
御陰でこうして大手を振って仕事を貰えるようになった。イヴェルグ=キウルアーキ、『鉄槌』として。
やけににやついた男を見下したように一瞥すると、悪魔が潜むと言う山へと足を進めた。
その仕事は非常に簡単だった。
はっきり見た人間は生きていないが、悪魔と呼ばれる存在が山に住み着いてしまって何度か被害を受けたというのだ。
それを退治すればいいという訳だが、彼が最初ではなく、もう何度も腕利きが山へ登ったのだが、結局帰って来なかったらしい。
結局悪魔がいるのには困り果て、彼を呼んだのだ。
『かなりの腕前の闘士』として村人がかき集めたお金を使って。
山は普通の小さな山で、特別奇妙な邪気を感じる訳でもなかった。
邪気に沈んだ暗い森には何度か足を踏み入れたことがあるが、そんなものは微塵にも感じられなかった。
―─当然だ。
彼は半信半疑で山を登り始めた刻、茂みを突っ切るようにして人影が転がり出てきた。
あちこち引っ掻いた傷が浮いた痛々しい少女。
「た…助けて」
おぉうん
不気味な唸りを挙げて茂みの上に飛来したのは、老人の顔だけをやけに大きくして蛇のような体をおまけ程度にくっつけたもの。
―─悪魔?
すぐに身構えた彼は真っすぐ向かってくる奴に得意な蹴りを一度入れてみた。
ひゅうぅん
確か、そんな音だったような気がした。衝撃とはまた違う妙な感触が腰の当たりから脳天へ突き抜けた。
そしてほんの僅かな違和感と共に、奴はすれ違うように後ろへと擦り抜けた。
─―…?
振り向いたガレヴィの目に一瞬映った奴の嘲笑う顔が、目の前の風景へと溶け込んでいった。
だが、ガレヴィにはそれが元々あったもののようには思えなかった。
「…あ、ありがとう」
少女は訳の分からない、と言った表情が混ざった顔をガレヴィに向けて礼を言うとペコリと頭を下げた。
「いや…先刻の奴は、知っているか?」
少女は目を丸くして首を傾げる。
「知らなければ知らなくてもいいんだ。俺は後を追…」
その時、背後に強烈な殺気を感じて振り向いた。
奴だ。今先刻消えたはずの、あの『悪魔』だ。
「下がってろ」
ざきっ
彼は金属製の鎧を鳴らすと再び身構えた。
空を裂くものがガレヴィの足元に直撃する。
飛散する草の葉を飛び越えるようにして一息で間合いを詰めると鋭い拳足が悪魔の横っ面に突き刺さる。
鋭い周転脚が悪魔を捉えたのは、今思えば偶然だったのかもしれない。
―─手ごたえっ
勢いにのせた体をひねると拳をそのまま立て続けに繰り出した。
が、それをかわした奴はすっと後ろへと下がり、またあの『何か』が空を切って次々に足元を裂いてゆく。
すんででかわすように横へ滑るガレヴィは、下がりつつある奴との間合いを詰めていった。
そして。
「りゃあっ」
地面を蹴って、一気に間合いを詰めたガレヴィの体が一転し、勢いよく足刀が奴の額を一閃した。
一瞬、奴が嘲りの笑いを浮かべていたように見えた。
暗転
「ぐっ……」
何が起こったのだろうか。
急に感じた全身の衝撃、気がついた時の体全身にきた痛み。口の中に残る鉄の味。
ゆっくり見回してみて、今どこにいるのか分からなかった。
いや。元いた場所と、今の状況との自分の記憶が連続しないのが分からなかったのだ。
暗くて鬱蒼と茂った山の中らしいが、先刻までいたはずの山の中だとして、どうなったのだろうか。
─―確か……悪魔を……
がさっ
人の─―獣かもしれない―─気配がした。
幸いまだ体を動かしていない、気配を断てば十分隠れられるだろう。しかし、痛みのせいで相手の気配がはっきりつかめない。
―─まだまだ……修行が足りねえか
すっと呼吸を抑え、自分を自然に風景に同化させる。薄暗いここでは死体のような彼を見つけるのは困難だろう。
がさっ
―─やけに小さい……
足音らしい。それも、人間のような直立歩行した2本足だ。
先刻の悪魔とは違うだろう。それと同時に、彼はそれが真っすぐ近づいてくる事がわかった。
「…死んだ…?」
ばしっ
ここまで近づけば闘士の彼にとって、目をつぶっていても狙った場所へ手をもって行く事など朝飯前だ。
ガレヴィは相手の首をつかんでそのまま持ち上げ、背中から落ちるように一転させると地面に叩きつけてそのまま組み伏せてやった。
「……」
げふげふとむせて、自分の下で苦しそうにするのは、しかし先刻助けたはずの少女だった。
いや……どう見ても先刻見た少女と変わらないが、少年のようにも見える。
「お前…」
少女―─いや、少年はきっとガレヴィを睨みつけて頬を紅潮させて顔を背けた。
彼は確かに『死んでいるの』とは、言わなかった。
『死んだ?』と疑問形で呟いた。それは明らかに彼が『死んだ』と考えられる状態に陥るのを知っていたからだ。
「殺せよ」
吐き捨てて、もう一度ガレヴィを睨んだ。彼もガレヴィの態度からそれを察したらしい。
「早く殺しなよ、あたいを。『悪魔』退治に来たんでしょ?」
ガレヴィは表情に陰りが走ったが、怪訝そうに眉根を寄せて彼の顎を指で押さえる。
「先刻のは…幻覚か何かか」
ヘン、と馬鹿にしたように顔を歪める。
「そうだよ。もうこの手で何人も殺して来たよ。断崖絶壁に誘い込んでさ。
…正直、あたいもうあんたを殺す事なんかできやしない。見ての通りか弱いんだからさ」
睨み付ける顔は完全に信用していないと言う貌だ。
ガレヴィは彼女から左手を離すと立ち上がって背を向けた。
少女は彼の態度を怪訝に思ったのか立ち上がって叫んだ。
「まっ…待ってよ、何のつもりだよ」
ガレヴィは振り向こうともせずに肩をすくめた。
「馬鹿らしい。何で殺さなきゃいけねぇ。たかがガキの悪戯に…」
「ガキじゃないっ、少なくともあんたより年上だっ」
ガレヴィは軽く首だけを後ろに向けた。
「あたいの首を持って行ってみな、そうすれば分かるはずさ。
…ああ、あたいが悪魔だよ。何で嘘言ってまで殺されなきゃならない?
殺さないっていうんだったらこのまま村までつけていってやる、そうすりゃお前の信用もがたがただぃっ」
「どうせ俺の信用何かねえよ。…嫌われ者には住みにくい世の中さ、ここはな」
ガレヴィは薄笑いを一瞬だけ浮かべて振り向いた。
「…お前、『亜魔人』だな。一つだけ言っておくぜ。俺は無駄な殺しは好きじゃねえ。
それも、無抵抗な人間…力のない人間を虐殺するような真似だけはできねえ」
ぶちっ
革紐をかけて止めていた腰の袋を引き千切って彼の前に投げる。
ちゃきん
「何の真似だよ」
「…逃げな、西へ。すぐ近くに大都グラバルネイスがある。それだけの金があればこの世じゃ十分通用するはずだ」
「ふざけるなっ、あたいは恵んでもらう程…」
ガレヴィは声を立てておかしそうに笑った。それを、一笑に付されたのが気に食わないのかぶすっと膨れた顔でガレヴィを睨みつけた。
「馬鹿野郎、それはお前の金だ。ただし、首にかかった賞金の約半分だがな」
ガレヴィは再び踵を返して肩をすくめた。
「早くここから消えろ。さもないと俺様の分がふいになっちまう」
―─あれ以来…か
先刻まで通りまで聞こえるぐらい大声で泣いていたイィエルも、落ち着いたのかもう震えていない。
「ガレヴィ」
イィエルは顔をあげた。目を真っ赤に腫らして、紅潮した頬が膨らむように笑う。
―─噂には聞いていたけどな…
亜魔人は長寿─―というよりも老いる事はない―─の為に、
人間よりも精神が強固であり、普通の人間と比べると非常に子供っぽい純真さを持つ。
さらに精神生命体と呼ばれる存在に極めて近いために波導や精神の動きに敏感で、非常に寂しがりやだと言われる。
そして、それ故に悪人には近寄らないとも言われている。
―─ここまで簡単に信用されても良いものか…
嬉しくない訳はない。
彼らに好かれるには生粋の善人である証拠である。―─但し、根っこが善であって、その行動そのものとは結びつかない。
「落ち着いたか」
彼女は─―イィエルは男ではない、と思う─―戸惑うように首を傾げてガレヴィの首に額をくっつける。
「何とか。…ずっと会いたかった。よかった、まだ生きてて」
ガレヴィが思わず顔をしかめて言い返そうとするのを、顔をあげて遮る。
「ごめん…あたい、ガレヴィに会いたくて、会いたくてそれで」
「こんな無茶しやがって」
肩を抱くように軽く背を叩く。今度はもう泣く気配はない。
「でも、会えてよかった。あたいね、御礼言いたかったんだ、あの時の」
「あの時?」
「そう。初めて会った時の村で、ぶん殴ったじゃない。ガレヴィが忘れてもあたいは忘れられないもの」
あの後、ガレヴィは山を降りて賞金を受け取りに行った。
―─そうだ、そう言えば…
ガレヴィも、忘れられるはずはなかった。
賞金は悪く言えば十分なものではなかった。
しかし、もし彼の言った事が本当ならば、村人は分かっていて彼を殺させようとした事になる。彼を。
─―残酷なものだ
彼ら闘士にとって、殺す事は『悪』である。
そのため傭兵としても決して気が抜けるはずはない―─殺さずして相手の動きを完全に封じる、それが理想なのだ。
そして、実際の高位闘士にはそれを成す術を持つ。強さを振りかざして傷つける事は決して許されない。
たとえそれが、どのような手段であろうとも。
「これが賞金の残りです」
じゃきっ
革紐のついた袋を受け取るガレヴィ。路銀にすればもう十分一週間で消える少ない量だ。
最も、これだけの金なら半月は暮らせるだろうが。
「ところで、本当に悪魔を殺してくれたんですか。殺さないとまたここに戻って来ますよ」
来た。多分、くるだろうと思っていた。
「ああ。…証拠が欲しいのか」
「普通は首とかを持ってくるでしょう」
ぴくっ
ガレヴィの額が引きつる。村人の表情は皮肉ったような笑みを浮かべている。
「是非、死体を見せていただきたいのですけれども」
心底嬉しそうな─―その笑みの裏に隠れた物をほのめかすような―─昏い笑み。
くすくすという嫌らしい笑い声が今にも聞こえて来そうな気がする。
「…そんなにみたいか」
「ええ、是非」
次の瞬間、彼はのけ反りながら地面を転がった。
耐え切れなくなったガレヴィが思わず拳を奴の顔にめり込ませたのだ。
「ぎゃ、ぎゃあっ」
のたうちまわる彼につかつかと歩みよると、革紐を引き千切って中身を彼の頭から注ぐ。
「貴様のような奴らがいるからっ…」
綺麗な音を立てて転がる金貨を見つめながらおろおろする彼に、空っぽの革袋を投げ付ける。
「安心しやがれ。奴はもう二度と貴様らには面ぁ見せやしねえさ」