「俺だって忘れられやしねえよ。できる訳ねえ」
思わず拳を固める。
「傲慢な奴らだった。そのくせ自分じゃなにもできない、ずる賢い。…俺と同じ人間でも、自分のためになら蹴落として行ける奴らだ」
めきり
固めた拳が筋肉の圧力に音を立てる。
「そうだね。あたいもそう思う。あたい達って、嘘ついたり、騙したり、そんなのないもの。そんな、無駄な事」
イィエルが耳をそばだてるように後ろの方を振り返ろうとする。
気配に、ガレヴィも気がつく。無言のまま立ち上がるとイィエルを奥の闇の中へ促す。気配は確実に近づく。
それはゆっくり姿を現した。
人影が通りを横切るのを見てガレヴィは安堵した――暗殺者なら完全に気配を断つはずだからだ――が、通りに顔を見せたのは以外な人物だった。
――ファル?
見間違うはずなかった。それでなくとも最も近い位置にいた闘士だ。
気配の色で分かるはずだが、今は彼女の気配が違う者のように感じている。
――罠か?
「待ってろ、すぐ戻る」
イィエルは頷いて壁に身体を預ける。それを見届けてゆっくり通りの方へ移動する。
ファルはまだ路地の中を、何かを探すように歩いている。
「…ファル」
意を決して声をかけた。彼女は足を止めた。
急激に膨らむ『殺意』。
「今まで、どこをほっつき歩いてたのよ」
呟くような声を出すが、振り向こうとしない。
ガレヴィはさらに一歩踏みだそうとしたが彼の耳に細かな音が入って来た。普通聞こえるはずのないような小さな音。
――泣いて…いるのか?
それが一度一際大きな音を立てた。
「無責任な言葉だけ残して。一体どれだけ心配かければすむって思ってるのよ!」
ファルは振り向いて叫んでいた。何かを我慢するように両肩を大きく振るわせる。
――そのピアス、まだつけていたのか
彼は声に出せなかったが、先刻から聞こえた音が、彼女の耳元から聞こえていた事に気がついた。
ファルは以外にも泣いてはいなかった。
「…選手じゃなかったのか」
「そんなこと」
顔が曇ったのを見逃さなかった。隠すようにうつむいた彼女に少し近づいて顎に指をかける。
「やめ」
振り払おうとする彼女の口を無理矢理塞ぐと、ぶんと音を立てた彼女の掌がガレヴィの頬を打った。
甲高い音が路地の中に意外に響いた。
「何をするのよ急に!私は」
「黙れ」
きつい口調に、案の定彼女は黙り込んだ。それはガレヴィにとって肯定ともとれる物だった。
が、口には出せなかった。
「…すまない。しかしお前も人に心配かけるのはやめてくれないか。公開闘儀式の際にこんな所にいるのを見つかりでもしたら」
空を切る音。
かきぃん
振り向くように振り払った右手の甲に弾けた閃光が、舗装されていない地面に突き刺さる。
「言わんこっちゃない」
見つかった。
ガレヴィが、だが。しかし彼を追うのは機甲会の暗殺者だろう。ファルの姿を見られたりしたら無事のはずはない。
しばらくしたが第2撃はなかった。
「…ガレヴィ。殺気は消えたよ。何か妙な気配が重なって」
言葉通り、それ以上の攻撃はなかった。が、新たに気配が近づいてくるのは確かだ。
ガレヴィが身構えると同時に、それは突如彼の目の前に姿を現した。
実際には男の姿の黒さが、気配を伴わずに目の前に現れたからだろう。
暗い路地裏では男の着ている光沢のない黒服は、人間の目には捉えがたい物だ。
「お前が、ガレヴィか」
殺気は、気配同様感じられない。黒い髪に黒い皮の手袋、そして襟を立てた黒いマント。まさに黒ずくめと言う感じの男だ。
彼が黒い瞳をガレヴィの向こうに向けた。
「信じられないことだな。そう思わないか?
世界中の全ての人間がお前を嫌っているというのに、暗殺者以外の人間も…そうだな、ヒトがお前を熱心に探している」
ガレヴィは身構えて間合いの外にいるこの男の事を考えあぐねている。
知らない男だ。しかし、その身のこなしや気配は手練れの『戦士』のものだ。
決して暗殺者の類ではない。暗殺にも色々あるが、暗殺者が目標に顔を見せるのは殺す直前でないかぎりない。
まして、べらべら喋る物ではない。
「誰だお前は」
男はにこりともせず自分の眼前に拳をつきだして握りしめる。
革の軋む音が、ガレヴィの耳元にまで届く。相当な筋力があるようだ。
「まだ知られてもいないだろうな。これから有名になるはずの男だ。だがそれはお前を倒してではないんだ」
そう言って始めて口元に笑みを浮かべた。
「俺の名はアブドゥーグ=カルマ。これからあんたの言葉に惑わされる事になる。
教えちゃくれないか。あんたの言った、『何故闘うのか』の意味を」
ガレヴィは少し苦笑めいた嘲笑を浮かべる。
「…この問いに取り憑かれた者は、二度と闘いの道から逃れる事はかなわない。闘いの道のどこかにこの問の答えがあるような気がして。
…そのとおりだ。しかし残念だが、言葉でおいそれと伝えられるような容易い代物じゃない。
闘いの中にあって、闘いを通してのみ手に入れられるものだ」
「名誉でも、愛でも、まして欲のためでもないというのか」
ファルを下がらせてガレヴィは構えをとる。
「…違う。戦争じゃないんだ。闘って闘って、その果てには結局自分の世界しかない。
他人に影響を与えるのはその付加価値だけであって、闘いの本質でも闘いの意味でもまして闘う理由でもない。
そのぐらいの事には、もう気がついているんじゃないのか?」
そして笑う。
「『理由なんて物はもっと利己的だろう』?お前にも拳の疼きが感じられるはずだ」
アブドゥーグはにやりと笑うと同じように間合いを測って構えをとる。
「…ああ」
「不幸だな」
ガレヴィはぽつりと呟いたが、それがアブドゥーグに聞こえたかどうか分からない。
それが合図となって仕合が始まった。最後の仕合が。
機甲会最大の行事にして最も神聖な儀式、公開闘儀式。あらゆる意味での賭け事でありあらゆる意味での最高の『名誉を与える』場所。
しかし、それを揺さぶった男がいた。その名前は永遠に語り継がれる事だろう。
彼の影響は世界中の闘士を目指す闘いの中に生きる者に与えられた。彼は、そんな彼らの事を『不幸な者』と呼んでいた。
ガレヴィ=チャルウィックの優勝以来数年間公開闘儀式は混乱が続き、最終日までまともに試合できない事が当たり前のように続いた。
――しかしそれもこれで終わらせる
キールが右手を振ると、その手の中には投げナイフが収まっていた。
幾つも暗器を持つ彼女は、その中でも最も得意なものを選択して闇の中に身体を沈ませていた。
目的を果たすためには―目標の暗殺のためにはどんな手段でも講じるその執念にも似た行動は、暗殺者として認められるための行動だった。
今回の『闘儀式参加』も、機甲会の役人の企てたガレヴィ暗殺のためのシナリオだった。
『貴方のその手段を選ばないやり方には、闘士ではできないものもあるのですよ』
役人の言葉遣いは非常に丁寧で、金払いも良かったが、その言外にある皮肉も彼女は感じていた。『卑怯』だ、と。
――分かるさ。…しかし、俺にはお前らの『神聖な儀式』は理解できないんだ
思わず汗ばんでくるその掌を服で拭う。彼女は全身のバネを使い壁を蹴ると屋根まで登っていく。
――所詮、人殺しのための技術…なんだろう?
いつも仕事の直前にもたげてくる疑問。
彼女の本名が持つ意味と血は、彼女が『女』を捨てさせられた最大の理由。
そして、こうして血刀を振らされている理由。
――いきるためには誰かを踏み台にしなければならないんだ
そして、自分に言い聞かせる言葉。
屋根の上から、ファルを見つめる。今回の仕事はやりやすいはずだった。
闘儀式というイベントに、さらに『イヴェルグ』を使えば十分な餌になるはずだった。
『ガレヴィに会いたいんだろう』
丁度亜魔人がガレヴィを探していて、手間も省けた。手練手管を使うのは苦手な方だけに、自分の得意な分野を利用してやったのだが。
「我ながら…」
まさか彼女にしてやられるとは思っていなかった。
いや勿論、襲われ慣れたガレヴィの強さもあるだろう。左肩は多分痣になっているはずだ。
打点を僅かにずらしたはずだったが、ガレヴィの蹴りをよける事は叶わなかったのだ。
よけられなければあのまま倒れていたかも知れない。それもこれもイィエルが幻影を使うと知らなかったためだ。
イィエルの見せた幻影は、キールの追跡をも阻んだ。そのため、彼女は奥の手を出すことにした。それがファルだった。
イヴェルグの噂の出所は言うまでもなく彼女である。その噂を尤もらしくファルに伝えて、ここにおびき出した。
あとは、彼女につられてガレヴィが出てくるのを待つだけだ。そして、油断したガレヴィを真後ろから一撃すればよい。
意識を集中させて、ファルの周囲を見つめていた。
そのせいで、彼女は他の事に気がつかなかった。まさか屋根の上に誰かが現れるなど考えるよしもなかったのかも知れない。
「キール」
自然に逆手に持ち替えたナイフを胸元へ引き寄せて、声のした方へ振り返る。
一瞬で、決める。
「あっ」
が、屋根に腰を下ろしたような格好のまま硬直する。
相手の名前が喉を突いてでそうになっても、胸が詰まって声にならない。驚愕と背徳が一緒になったような感情。
殺したく、ない。
まず真っ先にそう感じたせいか縛り付けられたように動けない。
「昨晩、機甲会の人間と会っていた理由か?」
夕闇に隠れそうな黒い服の男は言った。
その声色は静かで、発券場で始めて出会った時を思い出させる。足音も立てず、服だけが揺れている。
その知的な静けさが斬りつけるような感情を引き出すかも知れない。そう思うとどうしても声が出ない。
「目的は、ガレヴィの暗殺と言うところか?」
「そういえば、この間イヴェルグを追っている時にも会ったな。まるで偶然を装って」
「どうした?口が利けないのか」
実際にはかなり沈黙を含めた間があった。が、今の彼女には矢継ぎ早に質問されているようだった。
「あ、アブドゥーグ…」
何とか絞り出した声も、力のない情けない声にしかならない。断罪されているような気持ちになって早鐘のように胸が鳴る。
「お、俺は…」
「仕合は嫌いだってそう言ったよな」
「やめてくれっ」
その言葉に呪縛を解かれて叫んだ。両手で頭を抱え、思い切り振る。
「やめてくれ…それ以上俺を」
アブドゥーグの目が一瞬動いた。それに反応して彼女は彼の目線を追い、そしてその先にガレヴィがいるのを見た。
ひゅうん
考えるより早く手に握ったナイフが空を割く。狙いは誤ることなく綺麗にガレヴィの後頭部へ飛来した。
「ばっ馬鹿」
だが、確認する事はできなかった。アブドゥーグが彼女を背中から羽交い締めにして屋根に押し倒したからだ。
「何をするっ、はなせっ」
無理に身体を捻ろうとして痛みに思わず顔をしかめて唸る。左肩が動かせないのだ。アブドゥーグはそれに気づいて腕の力を緩めた。
「悪いが、お前の目的を果たさせる訳にはいかない」
再び胸が痛む。思わず全てを吐露して泣き出したくなるのを何とか抑える。
「…頼む、これ以上俺を断罪しないでくれ」
キールは涙声で訴えた。
アブドゥーグの前ではどうも情緒不安定になりがちになる自分を感じながら、不覚にも目に涙がたまるのを抑えきれなかった。
「人を殺して金を貰う事しか俺にはできないんだ。だから」
声にそれが混じるのだけは我慢した。弱さを見せたくなかった。
「暗殺者にしては、人殺しを嫌うんだな。そうやって自分を虐めて楽しいのか?」
「やめてくれっ」
緩んだ腕を払うように転がって振り向く。アブドゥーグは少し驚いたような顔をしている。多分、キールの顔を見て驚いたのだろう。
振り向いた時の彼女の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていて、今にも叫んで声を上げて泣きだしそうだった。
「だったら。少しだけ力を貸そう。そのかわり、もう殺しはやめてくれ」
そう言うとにやりと笑みを浮かべる。
「お人好しでね。自分を虐めている奴を見ていられなくなるんだ」
彼は身体を起こしてキールに手を差し出した。
「『城の壁』亭で待ってな。お前の『闘い』が無駄だったかどうか、それを考えるには十分時間はあるさ」
しばらくアブドゥーグの手を見つめて、腕で顔を拭う。
「一緒に…いてくれるのか」
少しだけ期待のこもる声で聞いた。
「お前がそれでいいんならな」
がしぃいいいん
闘士の作る最大の力を干渉させた。
アブドゥーグは笑みを浮かべて一歩退いた。
「これが再凶と言われた男の一撃とは」
『気』の作る衝撃は気でしか止められないと言われている。
それをも止めた彼の呪紋はむしろ、術よりも闘士の闘気に近いのかもしれない。
既にファルの姿はなかった。逃げたのではない。ガレヴィが帰らせたのだ。
「ふん」
間合いを広げる二人。
ガレヴィはアブドゥーグという男の実力を計り間違ったのを確かに感じていた。
まさか術を使って格闘する呪法師がいるなどとは思ってもいなかったからだ。
「お前こそ見たこともない事をしやがる」
その言葉には思わず笑みを浮かべる。
「当然だ。覚えておけ、格闘高速呪法師の名を!」
彼は呼吸をする速さで呪紋を唱え、闘う。
その鍛え上げられた筋肉は闘士の攻撃能力を備え、体術は呪法が補助する事で人外の能力を引き出す。
ガレヴィは思わず皮肉ったような笑みを浮かべた。
「ああ、お前の望み通り有名になるだろうな」
ぐん
間合いを詰めるガレヴィ。それを見越したかのようにさらに間合いを広げようと速やかに飛び退くアブドゥーグ。
既に詠唱は終わっていた。
「破」
それは、決して直接攻撃用の呪紋ではない。ガレヴィの目の前が急に歪んだかと思うと、それは力を持った槍のように彼を貫く。
衝撃波が胸元から背中へ一気に抜ける。肺の中がかき回されるような衝撃だがガレヴィは敵を見失う事はなかった。
多分、普通の人間が喰らったのであれば気を失ったかも知れない。
「はあっ」
さらに一歩蹴り込むガレヴィ。
だが、目の前で笑みを浮かべたアブドゥーグは姿を消した。
「逃さん」
それは彼が試合の中で見せた跳の呪法だ。彼は背を曲げた見下ろす格好で宙に浮いたのだ。
しかし、ガレヴィはほとんど瞬時に、それこそ直角に方向を変えて跳躍した。
右
油断はしていなかった。だが、その反応に呪紋を紡ぐ暇はない。韻が踏まれてから術が発動するまである程度の時間がある。
それがほんの一呼吸より小さいとしても、だ。
「く」
ガレヴィの左拳がアブドゥーグの右胸を叩く。
呼吸が乱れ、一瞬息が詰まる。アブドゥーグの手に集中していた力は安定を失い発散する。
空中での体勢が完全に入れ替わっていた。
ガレヴィが完全に姿勢を整えた状態で、アブドゥーグが背中から地面に叩きつけられるのを見下ろしている。
「黒嘴鶴」
ほんの一瞬の攻防。
ガレヴィは自分の肩を中心にして一回転する。揃えられた両足の踵が落下するアブドゥーグの胸にほんのわずか触れる。
ずん
アブドゥーグは2度目の息を吐き出した。口の中に広がる鉄の味が意識を現実に引き戻す。
長い時間のように感じた空中戦はしかし、実際の時間では非常に短い物だった。
軽く触れただけのガレヴィの足は既に落下しかかっていたアブドゥーグの胸に触れたのではなく、そのまま地面に叩きつけたのだ。
「…もう終わりか?」
アブドゥーグは身体をゆっくり起こした。
ほんの一瞬だけ敗北を感じた。
「終わるものか」
完全に身体を起こすまでガレヴィは動こうとしていない。この隙を狙えば十分相手を殺す事すら簡単だと言うのに。
アブドゥーグの口元が笑みを作る。
――死ぬかも…知れないな
今の一撃が、間違いなく即死させる技である事は気がついていた。
それも承知の上で、立ち上がる。
相手は手加減をしている。
違う。
――力の差は歴然としている。
手を抜いている訳ではない。油断をしているわけでもない。
「お前が壁なら乗り越えるまでだ」
その言葉にガレヴィは冷たく、そして切れるような堅い笑みを浮かべた。
「闘士になれば良かったものを…来い。これで終わらせる」
ガレヴィの言葉に抵抗すら感じなかった。
アブドゥーグは再び呪紋を唱える構えを取った。ガレヴィも寸前の間合いで構える。
「跳」
跳は瞬間移動の術ではない。
ガレヴィの、手練れの闘士の間合いの詰める速度など比べ物にならない程早く間合いを詰める。
呪紋を唱えている暇などない。既に右腕は突き出され、ガレヴィの体に突き刺さっている。
「破」
続けざま、その体勢からの破の呪法。
今の彼にできる、唯一にして最大の攻撃法だった。
だが、甲高い干渉音が響いて拳に衝撃が戻ってきただけだった。
「な…」
次の瞬間、真横からの衝撃に弾けて彼は地面に叩きつけられた。
最強
何故。
何故、この響きに憧れるのだろう。
何故、強くなければならないのだろう。
俺は。
殺すためか?
殺される事を、いとわないためか?
では何故闘う?
もう、殺さなくても良いだろう?
それ以上、罪を重ねても仕方ないだろう?
勝つ事が、大切な事なのか?
生きなければ…
死にたくない
生き…
アブドゥーグは目が覚めた。
そこは、冷たい地面ではなく暖かい布団の中だった。手を伸ばすと頭には包帯が巻かれていて、左腕には添え木がつけられている。
「…ここは…」
すぐに彼は自分が敗けた事を悟った。
ガレヴィと闘っている所まで覚えている。最後に一撃だけの勝負をして、反撃を喰らって負けたのだ。
――そうだ、俺は…
痛みはない。部屋を見回すと、そこが自分の部屋であることに気がついた。『城の壁』亭の自分の部屋だ。
どたどたどた
誰かの話し声と、近づいてくる乱暴な足音。
「だから、早く看てください…」
扉を開けながら叫ぶ、聞き覚えのある声。
「キール」
呆気にとられたような表情から、崩れるように笑みをこぼして走り寄って、アブドゥーグに抱きついた。
「目が覚めたんだ、良かった…」
それ以上何も言わなかったが、アブドゥーグはこみ上げてくる安堵に嘲るように口元に笑みを作った。
「意識が戻ったようだね」
キールの後ろにいたのは医者ではなく機甲会の治療師だった。
「もう傷の方もいいんじゃないかね?」
キールはアブドゥーグから離れて、彼のすぐ側に椅子を持ってきて座った。
「はい…御陰様で。…貴方が助けてくれたのですか?」
治療師は首を振った。
「いいや、あんたは路地裏で頭を地面に叩きつけられて倒れていたのを、自警団の青年が見つけたんだよ。
金品をあさった形跡があったから、ごろつきにやられたんだな」
アブドゥーグは眉を寄せて反論しようとしたが、その前に医者が笑いながら言う。
「なぁに、公開闘儀式に参加しているからと言っても人間だから、油断して後ろから殴られればみんな同じだ。
これから気をつけた方がいいぞ」
彼はそのまま扉の向こうに消えた。
「俺は…」
「帰ってきてくれなかった、て訳だ」
キールは微笑みを浮かべてアブドゥーグを見つめている。
「帰ってこれなかったんだ。…危うく生死の境を見る所だったのに、なんて言いぐさだ」
くたびれた物言いに、にこにこしたまま彼女は応える。
「意識が戻らないんで、機甲会に頭まで下げて治療師を引っぱり出してきたってのに、なーんていいぐさだ」
彼は悪戯する少年の笑みを浮かべているキールの頭をこづくと、いつもの皮肉った笑みではなく、本当の笑顔を浮かべて言った。
「ありがとう」
アブドゥーグ=カルマはその年の公開闘儀式参加を最後に、歴史からその名を消した。