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  こんこん

 再びノックに現実に引き戻されて立ち上がる。
 今度はきちんと服を着込み、いつでも闘いに出られる格好であるが、試合にはまだ早いはずだ。
「はい?」
 今度はきしむ音も気にならない程度に軽く扉が開く。
「よっ、今度の選手はやっぱりお前さんか」
 幼さの気になる顔に元気のいい笑顔を乗せて、彼は現れた。
「フェイ!今年もでるのね」
 『俊速の斧』のフェイ、フェアラルス=ベイ=クェイは闘技界の闘士で、機甲会と直接関係はないので一般扱いを受ける。
 でも鎧は着てはいけない。というか、鎧を着ることは恥であると考えられているのだ。ちなみに前年の優勝者である。
「ああ。でも、今回は勝てるかどうかわかりゃしねえや」
 それは言外にファルの存在を指しているのだ。
 ファルは出場する度に勝ちをさらうというので有名である。もし昨年フェイが出ていればどうなっただろうか。
「ふふっ、御世辞のつもり?」
「まーねぇ。でも昨年は残念だったぜ。俺が勝ち進んだ時には決まってお前さんはいない。今年こそ闘らせてもらうぜ」
 すっと手をだす。
「あら?言っときますけどそんなに早く当たりませんわよ」
 フェイはくっ、と顔を崩して笑う。
「相変わらずだな。…ところでガレヴィには会ったかい?今回、顔ぐらい出しにきてるはずだと思うんだが」
 ガレヴィの名前を聞いて悲しそうな顔をして目を伏せると首を横に振る。
「あれ以来…姿を見ないわ」
 フェイは髪の毛をくしゃくしゃにするようにして頭をかくと天井を見つめる。彼女の様子にすこし戸惑っているかのようだ。
「そ、そうか。…じゃ、伝えたい事があるんだ。
 奴からの伝言で、『もし悩んでいるんだったら、それを闘いにぶつけろ』ってさ。自分で何言ったか覚えてねーのかよ、あいつ」
 まるでせかされたように早口でそうまくし立てると扉の方に目を向ける。
 ファルはうなずくと立ち上がる。
「…ありがとう。わざわざあいさつに来てくれて」
「なぁに、事情は知ってるからな。もし、何か買ってきてほしけりゃ連絡しろよ。御礼は試合中にでも頼むわ。んじゃ」
 笑い声を残して彼は消えた。
─―悩みを…闘いに、ね。…それもまた、一つの解答なのかも…
 ため息をついてベッドに腰掛けると彼女は髪を編み始める。
 ガレヴィ=チャルウィック。
 元機甲会の闘士にして、反逆者の汚名を着た男。今から3年前にある事件をきっかけに彼は賞金をかけられるようになった。

 反逆事件。

 俗に、『闘儀崩壊事件』として知られる、ガレヴィの行為そのものだった。
 彼は3年前の闘儀式に、全く別の流派として『外部』参加者として参加した。そして決勝戦の舞台でこう叫んだ。

『お前達は何故闘う!』
 その時、化物の牙を模した仮面を大きく剥ぎ取って顔を露わにした。
――仮面の剣士、イヴェルグの正体。
『名誉のために闘う?違うだろう、だったら何故拳が疼く?何故闘っている感触を味わっていないと安心できない?
 …理由なんて物はもっと利己的だろう!第一…名誉なんてものはないんだよ』
 それが、ガレヴィだった。
 

 歓声があがる。闘儀場に広がる空気は闘いの前触れの興奮で痺れている。
 総勢五百余名の選手はこれからの闘いに思いを馳せ、開式の儀式を受けていた。
『それではこれから第一試合を執り行うっ』
 闘儀場のあちこちに仕掛けられた『振動機』が鳴る。

   どおおおおんんんんん…

 開始の合図のドラが鳴った。
―─やっぱりいないな…
 二度も参加するとは思えないし、また参加できるとも思えない。
 アブドゥーグは儀式の開式に出席した際以来探したが、らしい人はいなかった。
 仮面の剣士といえ、素性は知られているだけに参加はしていないようだ。
─―俺は…二日目…だよな
 別にイィエルには何の借りもないが、これも縁だろう。
 彼は別れ際にイィエルに言った。
 『俺も探してみよう。毎日この酒場に来てるから試合が終わったらここを覗いてみな』
 彼女はうなずいて去って行った。
―─はは、俺って結構お人よしらしいな
 初め彼女に近づいたのは、亜魔人が持っているという“石”が目当てだったのだ。
 彼女はどうか分からないが、姿を固定するために必要な大切なものだという話を聞いた事がある。
 別になくてもいいものらしいが、彼女達の変身体質は非常に不安定で、変身を保つのに使うという。
 その仕組みは非常に簡単で、石に強烈な波導を記憶させて、その波導を保たせるのだという。
 だから、術者が自分の使いたい術の波導を記憶させれば術の効果は数倍になると言われている。
─―ま、惜しくもないか。元々…俺の力じゃないからな
 試合は彼が最初に目をつけた十組の選手以外、見るつもりはない。
 研究と鍛練の時間が非常にもったいないから、らしい。
 だがその十組は厳選された、というよりも前評判のいい選手の試合ばかりだ。
 ちなみに今日の試合は午後の最後の試合だけを観戦するつもりらしい。
 その試合は、『俊速の斧』のフェイの試合だ。
 アブドゥーグが闘儀場入り口まで戻ってくると、発券場で争うような声が聞こえた。
「おいおい、もう試合は始まってんだ、規則で券は売れねえ」
 ここは賭を行うための施設。
 発券場とは、選手に賭けるチップを買う場所である。
 が、このチップは入場券の役割もある。
 試合の直前に締め切るのは規則なのだが、これでは試合中に入場したくてもできないと言うことになる。
「それは承知の上さ。でもまだ第一試合だろ?第二試合のやつならいいだろ?な?」
 声高に叫ぶ声。
「だったら試合が終わるのを待っても遅くないだろ」
「俺は今の試合が見てえんだ。頼むよ、寝過ごしちまって」
 ふっと顔が向いてしまうぐらい、大声をあげて言い争っている。
 発券場の親父が弁当片手にカウンターから乗り出すようにして、刈り上げた髪を後ろで短くまとめた青年に向かって叫んでいる。
 青年は両手を合わせて時折片目をつぶったりしている。
─―…ガキかな…
「にいちゃん、いい加減にしてくれ」

  ばぐぁっっ

 偶然目を向けていたのがよかったのか悪かったのかわからない。
 親父の弁当はカウンターを跳ねて足元へ無残に飛び散り、ここから親父がどうなったのかは見えない。
 が、青年の顔色が一瞬変わるとその右手はぶれるようにして消え去ったのだ。
――殴った?…手練れか?まさか選手じゃあるまい
 その速度は達人とも言える速度だった。
「誰が男だ。よく見るんだな」
 声も女性にしては低いし、格好だって男そのものだ。まさかそれで男装の麗人だとは言わせない。
 …しかし…肩幅に比べて胸部の大きさが小さいし、ほんとにおまけ程度に膨らみがある…ような気がする。にしては女っぽくない。
「…ったく…」
「おいおい、無茶はよくないぜ」
 言いながら、やはり俺はお人よしかな、と思うアブドゥーグだった。
「ぁ?…ああ…ふぅん?」
 彼―─いや、彼女はアブドゥーグを値踏みするように睨みつけ、目を細めて見つめる。
「…アブドゥーグ=カルマだったっけ。たしか賭け率二六倍の」
 その目付きはからかうような、悪戯好きな目だ。
 アブドゥーグはさすがにその言葉に反応して目を吊り上げると牙を剥いて、抑揚のない声で言う。
「貴様、それが人に対する態度か。…それとも、実力を見せて欲しいって言うのか」
 でも、本当は止めるためにはいったはずなのだ。
 何故ここまで興奮するのだろう。後から考えてもそれだけは思いつかなかった。普段ここまで起こる事は滅多にないと言うのに。
「おっと、やめてくれ。もしお前と当たる機会があったとすれば勿体ないだろ」
 それは遠回しにほめているのだろうか。
 いや。それにしても今の発言は。
「?まさか、お前選手なのか」
 にやりと笑って親指を立てるとぱぁんと掌を鳴らす。その嬉しそうな笑みは悪戯を見とがめられた少年のようだ。
「キール=インペリアル。一応一二倍、一般に知られちゃまずいんだけどさ。『血猟犬』の名前は知ってるだろう?」
 そう言って嬉しそうに笑う表情は、やはり可愛らしいものも見える。
「…選手だったら開式に出たんだろう。何も入場券買わなくとも第1試合は…」
 すると目を伏せるようにして視線を逸らして、恥ずかしそうに言う。
「寝坊しちまったんだって。仕方ねえからさ…」
 アブドゥーグは頭をかきながら少し呆れたようにため息をついた。
「なら俺が説明してやろう。入り口で俺が言えば多分通してもらえるさ」
 すると急に目を輝かせてアブドゥーグの肩を掴んだ。
「本当か?本当だな?頼む!」
 彼はやれやれといった風に笑って肩をすくめた。

 どよめきが一斉に沸き上がる。
  もし、殺気に満ちていなければ、この雰囲気に慣れていなければそれだけでも十分な強迫観念になる。
 しかしそんな中ででも平然と、いや、緊張感のかけらさえ感じさせずに舞台に上がる者がいた。
 彼が入場したとたんに場内は黒くなった。そう感じてしまうぐらい熱気と歓声が激しい。
 午後に入ってからも試合は白熱した物になっていた。様々な人間が様々な戦いを繰り広げる中でも、観客は一層疲れを見せずに騒いでいた。
 そう、彼は前年に優勝した今回の最有力候補の一人、『俊速の斧』のフェイだ。
「けっ、この間来た時にここのひび直せって言ったのに」
 彼は闘儀台の入り口のすぐ隣の壁に入ったひびを見て呟く。
「けちるなよなぁ」
 彼が愚痴っている間に一旦収まっていた歓声が再びあがる。
 どうやら相手も入場して来たらしい。彼も軽い足取りで舞台に上がる。
『第五試合。デシィゼネイク=シロ対俊速の斧、フェイ』
 歓声があがる。フェイは軽く舌打ちする。
─―賭け試合か…

  ぐんっ

  急に間合いを詰めて来た相手をさばくようにかわす。
「お、おい、まだ始めの合図が」
 ドラが鳴る。フェイは同時に相手がにやりと笑うのを見逃さなかった。
「これで満足かい?」
 二人は再び向かい合って間合いをはかる。
 相手は拳闘を得意とする格闘術『撲叩法』の使い手らしい。
 両手の拳にはめられた革のナックルはどす黒くなっている。
「いいか?戦場ってのは始めの合図も何もないんだぜ」
 見下したような相手の顔にあいつの顔がだぶる。
 あの、落ち込んでいた時に思いきり顔を殴られながら聞いた、あの言葉。
─―馬鹿野郎っ、戦に始めも終わりもねえっ、殺られたらそれで終わりだっ
 ふっ、と口を歪めて相手の顔を見る。
 現実にいるのは、奴とは比べ物にならないような小物。
「そうか、それは悪かった。ならそれ相応の覚悟をしようか」
 次の瞬間、フェイの顔には恐ろしい愉悦の表情が浮かんでいた。

  どどぉん…

 彼らのいた位置からおおよそ二十ヴァルは離れた壁に叩きつけられていた。
「…今までの戦場じゃ、少なくとも自分の身の守り方を知らない奴はいなかったぜ」
 彼はほんの少し間合いを踏みこみ、脹ら脛に当たる部分で大きく薙いだだけだった。
 だがそれは強力な一撃であり、彼の得意な初手(闘士が最初に教えてもらえる基本の技の事を指していう)の『裏脛脚』と呼ばれる物だった。
 フェイの一撃で奴は完全に白目を向いていた。フェイはため息をついて肩をすくめると闘儀台から降りた。もう試合は終わったのだ。
 すぐに駆けつけた治療師がデシィゼネイクを壁から引きはがすと韻のある旋律を唱え始める。フェイはすぐ彼の側へと歩み寄ると彼を睨みつけて言う。
「いいか、くだらねえ言い訳で不意打ちをして勝ったって惨めだぜ」
 デシィゼネイクは恨めしそうに見上げたが何も答えなかった。もちろん声も出なかったのかも知れないが。
「ああ、また壁にひびが入っちまったよ」
 

 アブドゥーグは感嘆の声を上げた。
―─かなりできるな…あれはただ者じゃない
 彼自身の見立てではないにせよ、満足できるものだった。ふっ、と吐き捨てるような笑みを浮かべて席を立つ。
 今日はこの試合ですべて終了だった。
 ぞろぞろと引き上げて行く人々の中には券を握り締めて捨てる奴、嬉しそうに券を眺める奴など、それこそ試合よりも自分の賭けの儲けの方が大事な奴らが多い。
―─…またか
 そんな連中の中には過激な奴が混ざっていたって不思議はない。
「貴様、自分からぶつかっておいてあやまりもしないのか」
 くだらない言い掛かりでの喧嘩。気がつけばやじ馬が取り囲んで簡単な舞台ができあがっていた。
 引くに引けなくなった相手の方も妙に強気になる。闘儀に刺激されたのだろう、もう血を見ずに終われそうにはない。
――嫌な見世物だ。
 アブドゥーグにはただの喧嘩は興味がない。別に今回闘儀式に参加しているのも闘いたくてではない。
 名誉と金のためだ。
 彼は今まで格闘用単音切高速呪文の開発に勤しんできた。
 今までに存在した呪文を全て研究し、いかに使いいかに効率よく格闘技として使用するか。それが彼の課題だった。
 そのため今でも身体を鍛える事と術の研究の時間を割く事を惜しまない。そして今回の公開闘儀式はその実践と宣伝のためだ。
─―自分の後継者を作り、後の世に最強と言わしめるため。
 闘いはあくまでその手段であり、彼には副産物に過ぎなかった。
 そう、つい先刻までそう思っていた。これからもきっとそうだと思っていた。
「…やめろ」

  びくっ

 彼はその声に強烈に反応した。
 やじ馬も急に静まり返って波打つ。
 だがまるで帆がはためいたような動きはその一瞬だけだった。
 普段は何があっても決して沈黙しない彼らが押し黙り、誰一人声を出そうとしなくなる。
 舞台の中の二人も惚けたようにその声の方を向く。
「そこまでにするんだ」
 ざあっと人の壁が開き、切っ先が中の二人に向けられる。
─―イヴェルグ=キゥルアーキ…いや…
 鼻から顎全体を覆う、金属製の化物の口のような仮面。牙と牙の間から覗く口元の笑みと鋭い目元にかけての大きな傷痕。
「鉄槌だ…」
 誰の耳にもとまらないぐらい小声で呟く。
 二年前、公開闘儀式をかき乱した張本人。
 二年前の実質の優勝者。
 そして、多くの闘士の最大の疑問と疑念を訴えた青年闘士ガレヴィ=チャルウイックの、身分と素性を隠した仮面のいで立ちそのものだった。
 あの時のように額には金属製の鉢金を巻き、仮面をはめているので本人の顔をよく知っている者でも簡単に正体は分からない。
 だからこそ自然に、堂々と公開闘儀式に参加できたのだ。
「へ、…へん、何が面白くてそんな格好してんだい」
 無理に喋ったせいか、声が震えている。声の震えは脚にまできている。
「そんなコスプレ、してたって誰も信じやしないさ」
「…なら、自分の身体で確かめて見るんだ。さあ」

  ひゅん

 ほんの一瞬の空気の揺れと閃き。
 しかし、男の手はぶれただけで全く動いた気配は無かった。
――居合いの剣。イヴェルグの得意技だ。
「…どうした」
 最初に言い掛かりをつけた男が限界に達したらしく、奇声をあげて人の壁にぶち当たり、走り去る。
 それに呼応したようにそこにいた人間全員が散って行く。
 急に広くなった闘儀場の出口付近。
 微風さえ吹かない沈黙した空間。
「イヴェルグ=キゥルアーキだな」
 ゆっくりと奴は顔を上げる。
「探したぞ」
 だが奴は返事をしない。アブドゥーグが続けようとするとざっときびすを返す。
「、おい」
 だが追おうとすると駆けて逃げる。
「待てよ、話ぐらい聞いて…」
 まるでネズミのように素早く背を見せて逃げ出した。かなり重武装しているはずなのに、アブドゥーグが全力で走るよりも速い。
――ど、どうなって…
 何度も人影に消えそうになるのを必死で追いかけて、路地裏に走りこむ所まで追いつめた。
 すぐに追いかけて路地に駆け込むが、袋小路のようになった狭い空間だというのに姿は既になかった。
「…消えた?」
 跡形もなかった。逃げられる様な場所などここにはないというのに。
「おい」
 彼は思わず身構えるようにして振り向いた。
 だが、そこにいたのは。甲高い聞き覚えのある声。
「あはは、やっぱりアブドゥーグだった」
 キールは街の明かりを背に、ゆっくり彼に近づいてきた。
「何やってんだよそんな所で」
「あ、…いや」
 答えて良い物かどうか戸惑っているうちに肩を掴まれて強引に引き寄せられる。
 鼻と鼻がくっつきそうな間合いで、キールはにかっと笑った。
「だったらつき合いな。丁度誰も相手がいなくて困ってたんだ」
 追いかけて夢中で追っているうちに宿の方まで来ていたらしい。すぐ側に城の壁亭があった。
「なんだ?」
 キールは彼の表情を敏感に察知して聞いた。
「…いや、もしかしてお前もここに泊まっていたのか?」
「へ?は、ははは。偶然だな?よし、だったら話は早いだろ?それとも、飲めない方か?」
 彼女は強引に肩を組んでくる。アブドゥーグはやれやれと肩を落とすとため息をついた。
――別に、イィエルに慌てて連絡する必要もない、か…
『第2試合』
 しかし結局イィエルには会えないまま次の日になった。
『白き刃ラ=ファル=スプモーニ対ディレイ=ヴィ』
――…どうしようか。一応、来てる事ぐらい言うべきか
 彼は舞台を見下ろした。何もない広い石造りの舞台の上に二人の人間が対峙している。
 一人は細身で綿の詰まった服を着込んだ機甲会の闘士。鎧を使えない代わりに支給されている稽古着だろう。
 しかしもうひとり――ディレイの方は彼女と比べても頭二つ分ぐらい背があるというだけでなく、大きく盛り上がった肩当てのある金属鎧を着ている。
 これではすでに勝負がついているかのようだ。
「あんたがラ=ファルだな」
 ディレイは口元に笑みを浮かべて言う。
「そうよ。私はあなたなんか知らないけど」

  きゅ

 革製の手袋が締まる音。
 ディレイは構えをとるファルを嘲って人差し指を振り挑発する。
「鎧のない闘士など、『対闘士』の敵ではないな」

  どおおおおん

   がしゃ

 開始の銅鑼とほぼ同時に奴の肩当てがバラバラになる。
 いや。
「死ねぃ」
 ファルが間合いを詰めるよりも速く、大きく肩当てが広がり、鏝が幾つも集まったような金属製の腕が伸びる。
 その姿は、幾つもの腕をはやした悪魔のようだった。
「く」
 その金属製の腕はまるで意志ある物のように次々に襲いかかる。
 何とか防御するファルだが、それは巨大なものが一つ、小さなものが二つ、その中間が一つ、各肩にあるので合計8本の腕が全て違うリズムで襲いかかってくるのだ。
 どれだけ達人と言える彼女であろうと全てを完全に防ぐことができない。
 焦って間合いを開けるファル。
 笑みを浮かべるディレイ。それは罠に過ぎなかった。
「教えてやるよ」

  ずん

 目の前が白くなる。地面に液体が当たる音が聞こえた。
 一番速く小さな腕がさらに一段伸び、ファルの鳩尾を真上にたたき上げた。
「俺の名は『蜘蛛神』だ」
 身動きの聞かない彼女を、残りの腕が次々に襲いかかる。
 いたぶるような打撃が次々に身体に突き刺さる。そのたびに身体が踊り、全ての腕を一度に引くと同時に舞台を転がった。

  ごとん

 頭を強く叩きつける感触で目が覚める。
 僅かに残った執着が、右腕を叩きつける。

  ずどん

 観客が一斉に沸いた。ファルが転がりながら舞台に腕を叩きつけると、舞台が大きく割れたのだ。その御陰で身体が止まる。
「ほお…」
 舞台から落ちた場合、勿論落ちなくても範囲から出ればだが、敗北となる。
 ディレイは自分の獲物が以外にしぶとい事に感心した。それも、余裕からくる『油断』だった。
 ファルは全身に走る痛みに顔をしかめながら、相手の方に顔を向ける。
――参ったわ、これは…
 勝ちたい。
 ほんの少しもその気持ちがないとは、感じなかった。
 しかしそれ以上に今の彼女を支配する感情。それは純粋な、ある種の高揚感。
「本当、『対闘士』と言うだけあって闘士には強いみたいね」
 相手の顔に浮かぶ愉悦――それは上位者の笑み――を読みとると口元をゆっくり引き上げる。
「可愛そうに」

  どくん

 何を言ったのか、理解できなかっただろう。ディレイの表情は一瞬呆気に取られた。
 いやそれだけではなかった。彼は、立ち上がるファルの額に急に現れたものに気を取られたのだ。
「何を」

  がくん

 動かそうとした彼の自慢の『蜘蛛』は、まるで壁に塗り込まれたようにぎしりときしんで音を立てるだけで、それからびくりともしなくなった。
「な、何をした!」
 ファルの額に浮かんだ文字のようなものは消え去っていた。
 だが、急に『堅くなった』空気から金属の腕を抜くことは既にままならなかった。
 ファルの表情は冷たい物に変わる。闘いを知っている者の、容赦のない表情。
「お馬鹿さん。何人闘士を壊してきたのか知らないけど、私に会ったのが運の尽きだったのね」

  ふぉん

 軽く振り抜かれる腕。それと同時に弾ける男の頭。大きく前後に首が振られて男は激痛と共に気を失った。
 しばらくして、空気中に固定されてぶら下がっていた男の身体が地面に転がった。
 彼は完全に肩が固定されていたせいで、今は脳震盪を起こして完全に気を失っている。
――お生憎様。もしかして死んだかもしれないけどね
 彼女が背を向けると、頬をなでる風を感じた。
「久しぶりね」
 それは笑ったような気がした。
 彼女には、笑っている『彼女達』が見えた。
 彼女は生粋の人間ではなく、『風』の魔導族に生まれ、一族を抜けた者だった。
 その類い希な精神力は闘士の素質としては確かに素晴らしいものだった。
 彼女が本来一部の技しか覚えられない所を全てマスターしている所以でもある。
 しかし精霊の技は、ほとんど使ったことはなかった。
――ガレヴィ、やっぱり闘いの意味は私には分からないのかしら
 精霊の技を使った後のむなしさは、不自然に彼女を空虚な気分にさせた。


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