魔王の世界征服日記
第126話 外なる神
普通、人間の骨格というのは良くできていて、内臓はきっちり骨格で守られている。
これは衝撃には弱い物の、簡単に内臓そのものが傷つくことがないように進化した結果とも言える。
通常面打ちは脳天ではなく僅かにずらして首筋を狙うと言われるのは、この所以でもある。
守られている頭蓋そのものを断ち割る事は相当難しいからだ。
実際ナイフや剣などで心臓を突く方法は限られている。
普通にやれば、骨に阻まれて、男の力とはいえ通常は心臓を突くことは出来ない。
だからナオは剣を真横に寝かせて突進した。
喩え直撃しなくても、その勢いで骨を折る事が出来れば充分だと。
実際は骨に当たったとしても、滑ってあばらの隙間に刺さるのでそれは杞憂だったが。
先が欠けた斬魔刀は充分殺傷力のある突きが出来た。
これがふつうの斬魔刀なら突く事はできない――したとしても刺さる事は絶対にないのだが。
小さなまおの胸に到達した時、それは阻む事も防ぐことも出来ずずぶりと沈み。
「けふ」
またあの音をまおは漏らした。
そしてまおの全身に走る激痛。
ナオの残した勢いそのままに彼女の体が浮き上がる。
両手が遅れて外側に広がる。地面を離れる足が、遅れて背中側に反り返る。
――ああ
刃は背骨に到達して、彼女をそれ以上ナオに近づけることはなかった。
だから反り返った腕を戻す必要はなくて。
ただ力を抜けば良かった。
今度こそやられた。
感覚が失せていく。まず耳。意識がブラックアウトするまでもう少ししか時間がない。
痛みの感覚がなくなると同時に体が動かなくなる。
視界はもう針の穴を覗いているように縮まり、自分が声を出しているのかどうかも判らなくなる。
――ああ
その視界が、暗い天井を映し出し。
――どうしてそんな顔をしてるの
割り込むようにナオが姿を現し、何かを訴えている。
自分の手で斃した魔王に、なんて泣きそうな貌をして掴みかかってるのか。
――馬鹿
多分。
まおは、最後に呟いたその言葉だけは声になったと確信できた。
そしてまおの世界は暗転した。
ざ、と耳障りなノイズのような響きが彼女の聴覚を叩き、落ち込んだ闇が「SIGNAL OFF」と白い文字を浮かび上がらせる。
――思い出した?
ぴりぴりという甲高いヒスノイズをまとわりつかせる声。
「どうにかねー。てかあんたが出てこれるんなら、私があそこに居る必要はなかったじゃないの」
ふん、と少し不機嫌そうに鼻を鳴らしてみせると、声はくすくすと笑う。
――何を冗談を。自分で身代わりを選んだ癖に
「まあそうだけどさ」
真っ暗だったはずの空間に光りが灯り、白い床に革張りの椅子が姿を現す。
簡単な応接セット。
向かい合わせた椅子の間に置かれた小さなテーブルには紅茶が二つ。
「それで。システムの調子が悪くて記憶喪失になってたみたいだけど」
向かい合わせた椅子に深々と座り、右足の上に組んだ左足を載せる女性。
まおとは対照的に長い髪をしていて、顔つきはどことなく彼女と似ている感じがする。
まおはちょこんと革張りの椅子の端っこに座る形で、両手でカップを持ってふーふー息をかける。
「そだよー全く。何だったっけ?ほら、あの……えと」
くすくすと女性は笑う。
「記憶喪失癖がついたの?」
「ちょ、馬鹿にしないでよ!ちぇ、元は私が作ったってのになんだよーえらそーに」
ずず。
紅茶をすする。
「あいつらの残した『黄昏の猛毒』、アレって酷いのよー。もう、しかたがないからさ。諦めなきゃって」
「何を?」
ずずず。
ふは♪とおいしそうにため息をついて、まおはその女性の顔を上目遣いに見つめる。
女性は嬉しそうに首をかしげている。
「私の作ったシナリオ。もう、ダメだよ。これ以上続ける事は出来ないよ」
「本来ならまお様のサポートが在って、魔王が世界に存在すべきなんだよね」
うんうん、とまおは頷くとカップを置いて、体を投げ出すように椅子に座る。
「私が直接触るのは間違いだったね。結局さ、色々忘れたりしたせいもあってさ、結果的にせいぜい辞め時を少し先延べにしただけだったよ」
女性は優しい顔で少しだけ首をかしげる。
「そうだね」
しかし、女性の顔に悪戯っぽい笑みを湛えた。
「でもまお様もこの世界の住人なんでしょ」
「え」
くすくすと女性は笑う。
「楽しかったんじゃない?戻りたくないって顔してるよ?」
「そりゃそうじゃない。楽しかったに決まってる。でもさ」
まおはふくれ面でぷっと口を尖らせて文句を言うが、女性には通じない。
彼女はそんな様子のまおを楽しそうに眺めながら言う。
「でもじゃないよ、ねえ?まお様も大事な人間の一人。たった一人でも犠牲はでちゃダメでしょ」
小首を反対側にかしげ、くすくすと笑う。
「ちょ、ちょっとあんたー!誰よだれー!だれだよー!」
がたんと大あわてで椅子から降りるまお。
「私知らない!ちょっとまって?!」
くすくす。
まおの態度と反応に、おかしそうに笑うと女性は両腕を組んで胸を張る。
「じっつは、違うんだなー。ま・お・様♪今回のシステム異常を捕らえたM.A.O.は、すぐに下位のサブシステムを起動させたんだ」
「って、……なに?それ?私知らないわよ」
「知らないよね。知らされてないはずだから、ね。Azathothって名前なんだけどね」
女性は笑って椅子から立ち上がる。
「ねぇまお様?まお様にも選択権があるべきだと思いませんこと?私は、少なくともまお様の味方のつもりなんだけどね」
「まさか、もしかしてあんた」
女性はとぼけるように笑いながら答える。
「ひっどいな。M.A.O.の目的は全人類の救済。まお様もその中の一人に数えられていただけじゃない」
ウィッシュとヴィッツはすぐに元の部屋――ユーカが覗く部屋へと戻る。
「おしまい、かな」
二人が戻るなり、ユーカは言った。
「ん。フユさんは大丈夫?」
いつの間にかユーカの側にはミチノリがいて、フユを抱きしめている。
「かぁら〜だ〜」
「どうやっても息を吹き返す気配はないがな」
相変わらずのんびりと呟くミチノリを押さえ込んで言う。
その様子にヴィッツはおかしそうに笑い、ウィッシュは彼女をちらりと一瞬だけ見る。
すぐにユーカに視線を戻すと、肩をすくめて続ける。
「おしまいだよ。見てたんなら判るでしょ。もう」
ウィッシュの目が見開かれる。
ユーカは振り向いて、魔王の最後を目撃した。
「あっさりだね」
ウィッシュは感想を述べながらフユに視線を移す。
「フユさんなら簡単に戻せるんだけどね、あとはキリエちゃんをどうするか、だね」
ちらっとヴィッツに目を移して、ユーカを見るウィッシュ。
「……それは?」
「勇者殿の選択になりますよ、って事かな?」
そう言ってウィッシュは腰に手を当てて、両肩をすくめてみせる。
「キリエちゃんの体はご存じの通り、元に戻せません。ずったずったのぐっちゃぐちゃ。……まあ不可能はないんだけど」
そう言うと、まおに駆け寄って揺さぶっているナオの姿に目を移す。
まおは完全に事切れたようだった。
「『勇者の特典』の事か」
ユーカが気がついたように言うのを、ウィッシュはにっこり笑って応える。
「そろそろ特典を報せる使者が現れる頃じゃないかな?」
鼻歌でも歌うように言うと、再びナオの居る廊下へと視線を移した。
勿論、ここはナオの居る廊下と直接繋がっている訳ではなくて、そこを見えるようにしつらえているだけだ。
簡単に言えばスクリーンとカメラの関係か。
「でもね、一つだけ問題があるのは判ってる?それは『勇者』のこと」
ユーカはまおを揺さぶる彼を見ながら苦笑いをしてウィッシュに目を向ける。
「優しすぎる事だろう?」
「それは良いことでもあります。非常に良いこと。悪いはずはない。でも、だからまお様の事を恐らく迷うはず」
ユーカはため息をついてミチノリの方を向く、いや、より精確にはフユの様子を窺うように視線を向ける。
フユはミチノリが回収し、ウィッシュの案内によってこの城内に入ってきた。
「――どうにか、できるのならさっさとその選択肢を潰したらどうだ」
「んー、まお様の意志も関わりますからねぇ。ま、フユさんはすぐにでも戻しましょうか?」
ぱちん。
ウィッシュが右手を捻るようにして指を鳴らすと、スイッチが入ったようにフユの目が開く。
しばらくぱちくりと瞬きをすると、きょろきょろと自分の周囲を見回す。
そして。
「離しなさい」
ぎん、とミチノリを睨み付けて、振り払うようにその拘束から逃れる。
勿論ミチノリが指をゆるめたからなのだが、まるで彼女自身が無理矢理逃れたようにもみえなくない。
その辺はやっぱり人徳という物だろうか。
「……ここは?カサモト?」
「おはよう、将軍さん?」
早かった。
怖ろしく早く、また彼女の視線は鋭く絞り込まれ、まるで獣のようで。
「うわっ、落ち着けフユ、彼女は敵じゃない!」
ユーカが止めて彼女の腰に腕を回すまでに移動した距離は5m強、振り下ろした言霊扇の回数は両手で4回。
間違いなく本気で殺す気で踏み込んだ。
だが、ウィッシュもそれを読んで。
「幻像ですか」
攻撃を受けたのは一瞬遅れた残像。これだけでも攻撃を避けるだけなら充分効果的なのだ。
「ま、将軍様なら間違いなく襲いかかってくるって思ってましたから」
くすくす。
勝ち誇ったような顔をして腕組みをするウィッシュ。
「生き返らせたのはボクの手際なんだけどね?ま、どうせ聞きはしないだろうし」
それに、殺して確保しておいたのもボクなんだけどね。
彼女はそう思いながらフユの出方を見守る。
腰に巻き付いたユーカをふりほどかず、睨み合いながらしばらくの時間。
「……取りあえず、今すぐ殴る真似は止めることにしましょう」
彼女は言うとユーカに目を向ける。ユーカは彼女を解放して体を起こす。
「――キリエの解放も、できるんでしょう?あなたなら」
ナオは、ごろんと音を立てて転がったまおの姿に焦って駆け寄った。
けふ、けふと呼吸に合わせるように空気が漏れるような音がして、半開きの目も見えてるのか、じっとナオを見つめて。
「まお!まお!」
比較対象ではない。比べてどちらを選べと言われても無理な相談。
あの時出会ったまおと、自分の姉。
大事な姉とまおを比べるなんて真似出来るわけがない。
でもやるしかなかった。
体が動くという陳腐な形ではなく、明確な意志で。
姉を殺そうとするまおを赦せなかった。
話をして終わる――はずはない。
今先刻まで自分を殺そうとしていたものが、あっさりと姉を殺すと言った。
それが直接的であろうとなかろうと。
引き金になった――でもそれは、彼の意思だろうか。
まおは血を口の端にこぼして笑みを湛え、ナオは泣きそうな貌で彼女を抱きかかえている。
判らない。
困り果てて彼女の名を呼ぶ。
だから彼女は、少しだけ困った笑みを湛えて動かないはずの右手を彼に伸ばして。
「……ばか」
囁くように零して、そのまま全身から力を抜いた。
魔王まお、享年ひみつ+14歳。
壮絶な最期だった。