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魔王の世界征服日記
第102話 嘘


 憲兵隊は、一応ここにも施設を持っている。
 本隊ではないし、実際に活動をしている(のだが、数少なかったり細かい事だ)状況から、比較的小さい。
 彼は冷たい石畳と、自分の目の前にある鉄格子を見比べて、あまりに小さなその独房に大きくため息を付いた。
 元気などでるはずもなかった。
 キリエは死んでいた。
 それはもう、完璧に、完膚無きまでに、彼女らしき肉片と化していた。
 殺害方法は残忍、真正面からの一撃。
 さらに数回、倒れている彼女に――凶器は恐らく斬魔刀――たたき込まれた痕があったそうだ。
 夕食後に会う。
 彼女の約束は憶えている。でも、結局、夕食が終わる前に彼女は死んでしまっていたようだった。
 第一発見者は彼女の隣部屋の少女。言うまでもないが同じ対魔軍一兵卒だ。
 ぶっちゃけて書くと彼女のファンだったそうだが。
 夕食を一緒に、と思ったが部屋に居ない。
 仕方なく探していると、噂を聞いた。男子専用寮に、噂の男ナオと一緒に居たらしいと。
 それもつい先刻――色んな意味で少女が向かうと、そこは既に血の海だったという。
「あ、嘘はついてないかね?」
 男のかんに障るしゃべり方に、いい加減苛々した。
 まだ耳に残る、その語尾を甲高く上げる嫌らしいしゃべり方。
 何を言っても疑うそぶりを隠そうともしない顔。
 どれをとっても。
 総てが嫌だ。
 思い出して彼は首を振った。
「君の話はあからさまに食い違いがある。おかしい。第一君の証言の証明がどこにもない。証拠がないんだよ」
 それを言うなら。
 キリエと一緒にいるところを見たと証言したのは誰だ。
 ありもしないはずの事実を語ったそいつが犯人じゃないのか。
 苛々――した。
 有り得ないから。
――キリエを……
  殺す?
  俺が?
  何故!
 だん。
 石畳を叩いても、拳に痛みが走るだけで、返事があるわけではない。
 でも、彼は我慢できずにもう一度。もう一度。
――赦せない
 手が痺れる。
 今の状況で何も出来ない自分が悔しい。
 だん。
 何故あの時眠ってしまったのか、苛立つ。
 だん。
 もう一度、時間は巻き戻せないのか。
 だん。だん。だん。
「畜生っ」
 声が枯れる。
 出したい声が出ない。まるで喉が詰まってしまったかのように、まともな声が出ない。
 叫びたいのに、喉が潰れてしまったように、動かない。
 胸が苦しい。声と、そのために貯めた息が胸に詰まってしまって、出てくれない。
「あぐっ」
 無理して声にしたら、聞いたことのない声が出た。
 同時に、視界が熱くて。
 ぼやけて。
 初めて。多分、自覚できずにこうして号泣するのは、初めてだったから。
 そのまま床に突っ伏してしまうまで、自分がどんな状況なのか理解できなかった。

 静寂。
 いい加減、泣き疲れた彼は、床に突っ伏した恰好で倒れている。
 先刻まで自分の嗚咽が五月蠅かったが、今は虫の足音も聞こえない。
 キリエはずっと彼の側にいた。もう何年になるか判らない。
 戦いを憶えて、軍に入って、彼女は程なく近くにいた。
 多分、身内以外で――身内以上に側に居続けたから――一番、彼を良く知っている者だろう。
 手を伸ばせば届く場所にいる、それが当たり前にまでなっていた、まるで呼吸でもするかのような存在感。
 意識しなくても居るはずのものが、もう二度と有り得ない。
 伸ばした右手が深く手応えのない闇の中に引きずり込まれたような感覚。
 悲哀?恐怖?絶望?これは喪失感というのか?
 今の彼の状況を、彼はどう表現して良いのか判らない。
 まず最初にできたのは、そんなはずはないという現実逃避。
 だが、それを否応なしに現実に変えるのが、今の彼の容疑。
 独房の中に居る自分。
 誰も来るはずのない、憲兵隊の施設の一部。
 やがて、彼が深くて暗い思考の渦に飲み込まれそうになった時、音が聞こえた。
 それまで何の物音もなかったから、彼は体を起こした。
 蝶番の軋む音。硬質な足音。それも複数だ。
 何も出来るわけではないから、彼はあぐらを組んで音を待ち受けた。
 音が、どこか軽く甲高く聞こえたと思った途端。
「アキ姉」
 彼は目を丸くした。
「こら。司令殿と呼びなさい」
「殿は余計でしょう」
 いつもの正装をしたアキと、そしてそのすぐ後からフユが姿を現した。
 アキはにこにこと柔らかい笑みを浮かべ、フユはいつもの憮然とした顔つきで。
 そして、まるで自分の家に入るかのように、何の躊躇いもなくフユが独房の鍵に手を伸ばし――開ける。
「え?」
 まるで鍵がかかっていなかったかのように。
 彼は眉を顰めるが、それより早く二人が独房に入ってきた。
 それで、流石に慌てて立ち上がる。
「もう、なんて顔して」
 すっと彼の頬に右手が伸びる、と思った次の瞬間に全身が温かいものに包まれたような錯覚がして、暗転する。
「ちょ」
「いいから。もう充分泣いたみたいだけど」
 有無を言わさない姉の言葉。ナオはどんな魔物よりも素早く捕獲されて、アキに抱きしめられていた。
 彼女は彼の後頭部をゆっくり、髪の毛をすきながら撫でる。
 母親代わりと言うと、母が居ないように聞こえるがそうではない。
 しかし、子供の頃から一番母親らしい事をしてくれたのは彼女だった。
 こうして、久し振りに抱きしめられた時にそれを思い出して、やっと体の力が抜ける。
「でるから。……私と一緒に」
 そしてもう一人の姉が、いつもの冷たい声で下達する。
 一瞬聞こえなかった。でる。そう、『出撃る』と彼女は言った。
 それに気づいてアキから離れる。
 自分より背の低い彼女が、まるで拗ねたような貌をしていることに気づいて。
 でも彼より先にアキが口を開いた。確信的だったから。
「あ、ごめんねー。これってばみーちゃんの役だったかな?」
「ねえさん」
 たらり。
 流石に不謹慎だったかも知れない、とアキは剣幕に押されて体を引く。
「でも」
 と、再び瞬速のアキハッグ。
 今度はフユだった。やっぱり反応も出来ずに捉えられてしまう。
「あ、アキ姉」
「んー、みーちゃんってばやっぱり柔らかいわぁ。こんな小さい体で、こんなに女の子らしい子を戦場に送り出すなんて」
 きゅと力がさらに込められた事に気づいて、フユはもう何も言わなかった。
――悪いのは、私
「止めても無駄だと思うし」
「……アレは間違いなく、私の敵です」
 アキに解放されて、フユは彼女を見上げる。
 そしてもう一度ナオを見つめる。
「あ、あの、姉ちゃん」
 事態が急速に動いている事を理解して、困惑した貌になったナオに、アキは優しく言う。
「みーちゃんがついてきてくれるって」
「姉さん。根本的に説明してください」
 あら、と驚いた貌をする。
「みーちゃん、いいの?あ、そうか、わたし一応司令なのよね。よし」
 彼女が可愛らしく右手を握りしめて気合いらしきものを入れると、すっと彼女はいつものおちゃらけた雰囲気を一掃した。
 ロングヘアの似合う、綺麗な長身の女性――それだけなら、司令の軍服も映えて、独特のカリスマのようなものを漂わせる。
 『指揮官』としての彼女の姿。
「フユは、今回のナオの事件の犯人を知っています」
 ナオの眉が一気に吊り上がる。
「精確には、これが仕掛けられた罠であるということを、分析した訳です、ナオ」
 ぎりと歯ぎしりして、ナオは頷く。
「何故かその理由は判りませんが。どうしてこんな回りくどい方法をしたのかも。しかし」
 つい、とアキは目を細めて薄ら笑いを浮かべる。
「我々は反撃をせねばなりません。ハムラ=ビケン法によれば目には目を埴輪はにわ」
「歯には歯を、です」
 頭の上にくしゃくしゃの線を飛ばしながらフユが額を押さえる。
 まじめモードのアキは三分ももたないのだ。
「そそ、それね。ハムラさんってばすぐ難しいこと決めるから」
「別にハムラさんのせいではありません姉さん。時間がないから早くしてください」
 ついでに全く難しいことではないのだが。
「あー、もういいっ!取りあえずナオ、証拠がないから犯人のままだけど出撃しなさい」
「し、しなさいって」
 今度こそアキはにっこりと笑みを浮かべた。
「敵は、人型の魔物。どうやら変身能力と魔術を使うことのできる二人組。強敵よ。必ず生きて帰りなさい」
 そして、アキはふーっとなにやら思いっきり草臥れたような、大役をこなしたような吐息を吐くとにへらっといつもの笑みを浮かべる。
「みーちゃん、こんな感じでどう?大分司令らしくなった?」
「……アキ姉さんをここに一人で放置する事がどれだけ危険な事かは良く理解できました」
 フユはまだ眉根を揉んでいる。
 こんな姉で、と思っているに違いない。
「一人で放っておくのが心配、じゃないのね」
「当たり前でしょう、心配するだけ無駄です」
 言うまでもないと言いたげに即答すると、フユはいつもの顔つきで彼女を見上げる。
「司令としての仕事の半分は私の仕事のようなものです。でも、それは表向きの顔の事ですから」
 そう言って肩をすくめて見せて、わずかに頬をゆるめて笑みを浮かべた。
「ナオ一人に行かせられないって絶対言うと思ってたから、少し頑張るわよ。あんまり馬鹿にしないこと」
「少しじゃなくて、これからしっかりして下さい。或る意味今回は良い薬じゃないですか?」
 そう言って二人ともくすくすと笑う。
「じゃ、政治的なお話はおまかせします、姉さん」
 そう言ってナオの手を取ると、先に独房から出る。
「ええ、行ってらっしゃい」
 フユの手に牽かれて出ていくナオを、右手を振って見送ると彼女はよいしょ、と独房をくぐる。
「あとは憲兵のひとと少しおはなししていかないといけないわね」
 性格に難のある女性だが、決してその手腕は悪いとは言えない。伊達にサッポロ防衛軍最大の勢力を抱える対魔軍の司令官を務めていない。
 それがミマオウ=アキ、その人だった。


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