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魔王の世界征服日記
第100話 平和


 対魔軍では、決して訓練を欠かさない。
 休みの日でも、やることがなければ他の日には出来ない事をやる。今日は特に自主的な訓練が重視されていた。
 休みたければ休めるのだが、ナオとキリエは、道場で組み手を繰り返していた。
 キリエは結局帰ってきてきちんと治療を受けるまでもなく、完全に傷はふさがっていた。
「へっへー、今日は俺の勝ち越しっ」
 で、あたいは辞めていた。というより付け焼き刃且つ恥ずかしさには勝てなかったようだ。
「五月蠅い」
 むす、としてナオは後頭部を掻きむしる。
 ナオは逆に調子が悪かった。帰ってきてからと言うもの、何故かキリエ相手に調子が出ない。
 今日の組手にしても、完全に押し負けていた。
 精確にはもしかするとキリエが強くなったと言うべきなのかも知れない。
 今だって組み手に負けて、ナオは地面に座り込んでいた。
「久し振りにジュースおごれよっ!しょ・う・しゃ・の・け・ん・り♪」
 にかっと笑みを見せて、両手を腰に当ててずいっと顔を寄せるキリエ。
 もう殆ど完全に万全、体調ももすこぶるつきで快調ときたもんだ。
 逆にその態度に押されて、不機嫌な顔で彼女を見返す。
 背丈はさほど変わらない。
 そんな彼女が彼女が、腰を折って覗き込むような恰好をする。顔はすぐ側にある
 呼吸が触れるほど近い。
「わーった、わあったから」
 そう言って彼女の両肩を掴み、ぐいと押し返すと彼は地面に転がした斬魔木刀を指さす。
「木刀、かたしてくれ。着替えて来るから」
「ほーい♪」
 ぶつぶつ言いながらナオは道場の入口を抜けた。
 隣にある更衣室に着替えが置いている。基本的に訓練道着は普段の恰好なのだが、そりゃ汗もかくし着替えは必要だ。
 ちなみに、寒いのでシャワーはない。
 代わりに湯沸かしのような暖炉と、その上にある大きな洗面器というかたらいに張ったお湯を、水と混ぜて手ぬぐいにとって体を拭く。
 飲まないので直接手ぬぐいを付ける奴もいる。ナオは半分ほどお湯につけこんで、水を張ったおけに入れて冷やしながら体を拭く。
 外気は結構冷えるので、体を拭いたらすぐに熱も奪われてしまう。
 汗もすぐ引くので楽だが、すぐに着替えないと体には良くない。
 着替えたところで、そんな厚手でもないのだが。
 どうせ袖もないし。
――まあ元気になったんだし
 シコクから帰ってきて、キリエは以前の通りになったような気がした。
 でも、彼はそれが気に入らなかった。何故か。
 理由は自分でも判らない。ただ、原因はキリエではないことは確かだった。
 シコクから帰ってきて一週間、別段何事もなく平和な日々が続いた。
 それこそ――元通りの生活だ。
 でも何か違う。おかしい。どこかで何かがそう呟き、彼の奥底にささやきかける。
――何だか納得できないけどな
 耳を貸してはいけない語りかけ。
 おかしい物などない。だがどこか不自然な物をしくりと感じる。
 何だろう。
 納得できないんじゃない――これは違和感だ。
 自分の中に生まれた何かの違和感。何かに対する感情。
 天使。そしてあの戦い。ユーカは、元から判らない奴だから信頼以前に問いただせない。
 久々に看護に来たミチノリは、勿論聞く耳など有るはずもない。
 ナオはどこか釈然としないまま、いつもの恰好に着替え終わると、洗い物を袋に詰めて更衣室をでる。

  ざわり

 風が、木々を揺らして葉擦れの音を奏でる。

  ざざ ざあ

 それだけだと、まるで雨音のような響きだと彼は感じた。
「ナオ」
 名前を呼ばれて、不意に彼は現実に引き戻される。
 真後ろ?いや、後ろからには違いないが、どうやら更衣室の影にでも居たのだろう。
「キリエ、お前」
 案の定、振り返ると更衣室の右側にある茂みに彼女がいた。
 あの位置だとでる時には気づかない。
「へっへー」
 駆け寄るように近づくと、彼女はそのままナオの左腕をとって、自分の右腕に絡めて顔を寄せる。
「ちょ、なんだよ。言っとくけどジュースだけだぞ」
「えーなんだよー」
 すぐにぷっと口を尖らせると、眉根も寄せてしかめ面を見せる。
「……ま、いいけど」
 でもすぐに顔に笑みを湛えると、彼を強引に引っ張って、訓練施設の出口に向かう。
 他にも訓練をしてる連中はいるが、まだ時間的には早い。
 周囲には他に誰もいない。
「お、おい」
「……ジュースもイイや、今度で」
 そう言って腕を解くと、とんとん、と彼の方を向いたままバックステップの要領で彼から離れる。
 ちょっと上目遣いで。
 ナオは思わず眉根を寄せて少し首を傾げてみせる。
「なんだよお前。そう言や最近、何だかおかしくないか?いや、おかしいってったって、まあ元気過ぎるっていうか」
 本当は自分の方がおかしいのだが、彼はそれを自覚していない。
 キリエはへへ、と笑って、むんと胸を張る。……平らだけど。
「あ、あのさ」
 そして、視線を逸らせて鼻の頭をかく。
「あー、あとでさ、宿舎の裏に来てよ。話したい、事があるんだ」
 ちらちらとナオを見ながら、えへへっと笑う。
「え。って、お前」
 普段こんな顔で笑わないし、こんな事を言われたことがない。
 ナオは彼女の不自然な様子に気になって質問しようと声をかけるが、まるで逃げるようにキリエは走り出す。
「いい、絶対夕食後に待ってるからっ」
 一瞬振り返って叫ぶ彼女に伸ばした手が、何もない宙を掴んで拳を作る。
 そして、降ろす。
――なん、何だろ……
 首を傾げる。
 と、言ったってキリエが突拍子もないことを始めるのはいつものことだ。
――……帰るか、仕方ない
 別に一人でも訓練できるが、かといって彼もそこまで真面目じゃない。
 勝負する相手がいないのは張り合いがないとも言えるだろう。
 大きくため息を付くと、彼は自分の部屋に向かうことにした。
――別に、ここで話せばいいだろうに
 彼はもう一度首を傾げる。
 あのシコクでのサバイバルは、良い経験だったがそれ以上ではなかった。
 天使との戦いは、嫌になるものだった。
 勝てない。そして、海に投げ出されてからのこと。
 そして、あのウィッシュとヴィッツ、まお。
――この辺にいる、ってことはないだろうけど……また会えるかな
 何故か胸騒ぎがする。どこか不安な物がしこりのように残っている。
――ああ
 多分あの三人とは、結局あれ以上何もなく、まるで自然消滅のように別れたから気になっているのかも知れない。
 ナオは、そう納得することに決めた。
 他に方法もない。
 取りあえず荷物をおいて、彼はベッドに横になった。
 夕食は、基本的に給食になっていて、食事を選択できるわけではない。
 しかし食べたいものが食べられないというのは流石に問題がある、ということで、一応希望制で、食べたくない(自前で食べる)場合はそう言う風に寮長に申請する。
 特に理由はいらない。
 どんどん、という激しいノックの音で彼は目を覚ました。
 周囲は暗い。一瞬寝過ごした、と思って慌てて部屋の入口に向かい――扉の向こうに、タカヤが居た。
「おい、ナオ」
 寮長であるタカヤだが、普通無断で食事をとらないと怒られる。だが、呼びに来ることはない。
――しまった
 ナオはしかめっ面をして額を押さえた。
「あちゃあ、ごめん兄ぃ、ちょっと横になるつもりだったからさ」
「そんな話じゃない」
 食事の事を怒りに来たわけではなかったようだ。彼は真剣な顔でナオを睨み付けている。
「ど、どうしたの」
「キリエ知らないか?いや」
 彼が何を言おうとしているのか、判らない。
 だが、いつもののんびりした雰囲気はどこかに払拭されてしまい。
「悪いが、ナオ。お前の目撃証言がある。キリエは何処にいる」
「は?」
 何を言っているのか理解できなかった。
 寝起きの頭では、何が起きているのか想像も出来ない。
――心当たりは、あるけど
 雰囲気からすると夕食時を過ぎたか、終わる頃だと思った彼はキリエとの約束を思い出して首を捻る。
「目撃って、ちょ、キリエがどうかしたのかよ」
「訓練後部屋に戻っていない。途中までナオと一緒にいたという話を聞いたが」
 意味が判らない。ナオは彼の言葉を否定しようとしたが、要領を得ないナオの腕を引っ張って彼は無言で歩き出した。
「ちょ、兄ぃ」
「良いから来い」
 妙な感覚だった。寮をでるとそのまま寮の周りを回り、裏側へと向かう。
 知っているはずない。しかしそれ以上に言葉の意味が矛盾している。
 寝ぼけた頭がゆっくりと醒めていき、眠気の代わりに澱んだ悪意が脳裏にまとわりつき始める。
 悪寒。
「ぐ」
 鼻を押さえる。
 薄暗がりになった寮の裏側は、妙に冷たい気配が漂っている。
 そんな中に、何人もの人影がうろうろと歩いているのは奇妙な気がした。
 そして、嗅ぎたくない臭い――血臭がどんよりとその場に漂っている。
 戦場でもこんな臭いはしない。嗅いだことはない。
「兄ぃ」
 不安になって、無言のタカヤに声をかけるが、返事はない。
 ややあって、何人か見覚えのない人間が集まっている場所にでた。
 そこは奇妙な場所だった。
 ナオの目の前で、二人が座り、二人が立って何か話をしている。
 先刻から、何事か忙しそうに走り回っているのは誰なのか。
「訓練後、お前ら、一体何をやっていたのか知らないが」
 足を止めたナオに気づいたのか、タカヤは振り向いた。
 その顔は見たことがないほど厳しい表情をしている。
 『ぼんやり』という言葉から想像できる彼の人となり、それが別人のように。
 鋭くナオを睨み付けている。
「……」
 どう言うことだ。
 何があった。
 今、座り込んだ人間が二人に気づいたようにこちらを向いた。
 向いた、その瞬間、彼の陰に隠れていた物が見えた。
 人。
 血。
 足。
 そして、見覚えのある――
「うわあああああああっ」
 彼は叫んだ。


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