魔王の世界征服日記
第93話 『まお』
「あああああああっっっ」
悲鳴が上がったのは、痛みからではない。
どん、と音を立てて飛んできた扉はぎりぎり避けた。
まだ中腰で体が浮きかけていた所に、彼女の目の前に『音』が現れて身がすくんだ。
注意がそこだけに注がれて、体が一瞬動かなかった。
だから、カナの視界に両腕で思いっきり何かを振りかぶったグザイが現れても、気が付くのが遅れた。
それがE.X.だったと言うことにも。
ぶぉん
その空気を震わせる音と同時に、まるで何かを放り投げたような勢いで飛んだ腕が見えて。
それが自分の腕だと判って。
「カナっっっ!」
「うわああ、ああああああああっ、あああああっ」
返事が出来ない。
口を開けてもでるのは悲鳴だけ。
彼女は焦って、後ろに逃げるように。
扉から。
ロウから。
総てから逃げるように、ずるずると距離を開けていく。
ごとん、と切り裂いた扉の破片を避けるようにして現れる、グザイ。
その表情は妙に硬い。
「グザイ、貴様」
「ロウ」
視線は、左腕があったはずの部分を押さえるカナに向けられている。
すと足下に目を向けて、腕を拾う。
切断面を確認して。
まるで磨いた水晶の表面のように、暗く黒く。
「この娘、人間じゃ――ない」
ロウの目が。
グザイの目が。
そして、ぽとりと腕は床を叩いて、彼らの視線がカナを突き刺す。
E.X.が駆動する音が響く。
ただ無言で、それを携えるグザイがスイッチを入れたように。
「や」
ざり。
足を一歩踏み込む。
「止め」
だが、グザイが両腕を振り上げようとした時。
「やめろっ」
グザイの真後ろからロウが彼を羽交い締めにする。
「E.X.を止めろっ!」
「がっ、ロウ、貴方はあの魔物を放置するとでも!」
一瞬彼の視線がカナに飛ぶ。
カナはそれを理解できただろうか。それは判らない。
だが、グザイの声に、彼女はまるで弾けたように走り始めた。
方向なんか判らない。
ここがどこであるかなんか関係ない。ただ、怖くて走るしかなかった。
――自分が魔物である
判らない。それに怯える理由はない。自分の記憶がないのだから、喩え自分が魔物であったとしてもそれは感謝すべきだ。
自分が魔物であったとしてそれを嘆く『記憶』はないのだから。
でも、それで周囲の人間がおかしくなったような気がして、その事実そのものに恐れて。
「はっ、はっ、はっ」
斬り飛ばされた左腕、その付け根を押さえる右手が感じる、肌の感触。
ただ腕がないだけで何ともない。
痛いわけでも、血が出ている訳でもない。多分、これが『魔物』だということ。
何故魔物だったら、こんな目に遭わなきゃいけないのか。
違う。
人間は魔物に怯えているから。魔物という強大すぎる力を持った存在に脅かされているから。
喩え彼女のような姿をしていて、彼女のように強くもなんともない魔物であったとしても、ただ魔物であるからという理由が『言い訳』になる。
「いやだ」
走りながら、上がる息を抑えながら。
「いやだ、いや……なんで、そんなの」
なんで魔物だから?
魔物は人間に、何故襲われなきゃいけないのか。
壁に突き当たり、通路に沿って走り、また走り、ただ何も考えずに走り。
既に何処を走っているのか判らなくなった時、ようやく彼女は足を止めた。
息は完全に上がり切っていて、膝ががくがくする。
壁に手をついて、それでもふらふらしながら一歩一歩足を進める。
もう何故歩いているのかも判らなくなって、ふらついた頭でようやく思い出した。
ここが地下であることに。
――このまま走っていたって、逃げられない
でも。
もう自分がどこにいるのかも判らなくなってしまっていた。
注意するように。
バグは言うと全員の顔を見渡した。勿論、既にくくられてはいない。念のため。
「ここは私がお願いしている、魔物狩りがいます。多分天使だとバレれば命がありません」
「こんな所にまお様が……」
ヴィッツが見上げるその建物は、僅かに湾曲した黒い金属製の塊。
一カ所鉄の梯子がかけられていて、その上が小さな通路のようになっているようだが、入口は見あたらない。
「今日はアポ無しですからね。ちょっとだけ待っててください」
彼は胸元から天使レーダーを出して、かぱりと音を立てて開く。
するするとアンテナを伸ばして、並んだ3×5のボタンを叩いて、それを顔の横に持ってくる。
しばらくのちんもく。
「ううん」
彼が渋い顔をして、首を傾げる。
「発信音はするんですけどね。狩りに出かける事はないと思うんですけど」
「まさか。お願いしてる、って言ってるけど、ここだって魔物いるのに」
自衛戦闘ぐらいするはずだ。たまたま外にでただけではないのか。
「確かにあり得るんですけどね、ここ、本土より魔物の質が高くて」
仕方無しに彼はボタンを押して、当初のように折り畳んで胸ポケットにしまう。
「さっくり殺されるから、情報提供がないかぎりでていくことはないんですよ」
「え?」
「ええ、だから、この住処はそう簡単には壊れず、魔物の侵入も防ぎきる砦のような物ですから、でていく可能性は低い、と」
バグは言うと、さっさと小さな梯子を上って行く。
ユーカが続き、ウィッシュはふと視線をミチノリの抱きしめた「まお」に向ける。
天使がまおの擬態を取っている理由は幾つか考えられる。
どこから来たのかは判らないが、恐らくあの船にいたことは確かだろう。
普通喋るような知性を持たない天使だ、まおの姿をしているということは彼女と接触したということだ。
――……
予想できる一つの結論。
まおは記憶喪失になっている。
――なんでこんなことになってるんだろ。まお様、多分ただの子供化してるだろうなぁ
或る意味で言えばウィッシュと同等かそれ以上、まおに近い『天使』だ。
ヴィッツの持つ変身能力も、本来の『天使』には備わっている機能を拡大・増強したものだ。
デフォルトの外観はまおをベースに、趣味を加えてできる限りリアルを追求したとはマジェストの談。
実際に天使は擬態することはなく、創造主や命令のできる存在、つまりマジェストが指示することでその姿を変えることはできる。
マジェストが『ラジコン』と言ったとおり、素直に言うことを聞く機械のような魔物だ、が。
全く意志は存在できない。
だから今この天使を殺す事も、捨てることもできない。とはいえ、恐らく逃げても追ってくるだろう。
彼女の記憶を辿るこの天使は。
間違いなく。
――甘えん坊さんだろうからね
くすくすといきなり笑い出したウィッシュに、ミチノリは自分が笑われたのだと勘違いしてにたーと笑みを浮かべる。
「えへへへ」
「……気持ち悪いです。いきなり笑わないでください」
がびん。
「望姉」
「あ、ごめんねヴィッツ」
目を丸くして、でもにこにこ笑いながら小首を傾げてあやまるウィッシュ。
「いえ、そうではなくて」
ユーカとバグは、遺跡利用の軍事基地の入口で何か話している。
ちらり、とそちらに視線を向けてから、ヴィッツは話を続ける。
「まお様」
そう言って今度は天使のまおに目を向ける。
勿論無表情で、まるで彼女に気づいたように視線を向けてくる。
無表情で、無機質な顔。
できればあまり見たくない貌。
「うん」
ウィッシュも理解したように、天使に顔を向ける。
そこでようやく自分ではないと気づいたのか、ミチノリは『!』を頭の上に飛ばして、にへらーと笑う。
「大丈夫だと思いますか?」
彼女なりに心配しているのだろうか。
表情からはつかめない。ウィッシュは、彼女をひょいと抱き寄せて背中をぽんぽんと優しく叩いてやる。
ヴィッツは彼女に頬を寄せるように体を預ける。
「今はなんにもできないだろうからね。こっちに殆どを取られて、ね」
逆だったら良かったかも知れない。
一瞬そんな考えが過ぎるが――ウィッシュは自分の想像に顔をしかめて首を振る。
逆は良くない。逆は、非常によくない。
まおがまおでいられないのであれば、それはただの魔王だ。
「もしかしてこのままの方が幸せかもね」
ヴィッツの後頭部に手をさしいれながら彼女は呟いた。
「まお様は、多分これから大変苦しむから」
手ぐしでヴィッツの髪をすいてやると、くすぐったそうに顔を揺らす。
それが、体で感じられる。
「……?」
ミチノリはにこにこしたまま首を傾げて、自分が抱きしめているものの後頭部を見つめた。
ぱし ふぃーん
そんな感じの音が響いて、基地の扉が開いた。
「あ」
扉の前に立っていたバグは目を丸くして。
扉の向こう側に立っていたロウは不機嫌そうな顔のままで。
「……今日は何の用だ」
いつもと同じような対応で、彼らを招き入れた。
「と言う訳なんですよ」
じたばた。
『まお』を見せながら説明する。
「ほぉ」
ロウも、その『まお』を見て頷く。
今回の用事は、この間来た時にいた少女『カナ』が、ユーカの探している魔術師『まお』かもしれないということ。
彼女の姿をコピーした『天使』が、『これ』だということ。
天使はユーカが捕獲して研究してることにして、バグに話してもらった。
「……しかし、『まお』は魔物じゃないのか?」
「魔術師ですからね。詳しくは判りませんが魔物みたいなものですよ」
ぴくりとユーカの眉が引きつる。
「……」
ロウは顔色を一つも変えず、ふと後ろを向く。
全員顔を彼の後ろに向けるが、別段変わらず、暗い闇だけが覗いている。
「実は問題が起きた」
顔だけ、彼はバグの方に振り向き。
「今酷く取り込み中だ。ここに魔物が侵入したんだ」
「は?」
くる、と再び顔を闇に向ける。
勿論精確には闇ではない、が、入口から覗き込むことは出来ない。かなり薄暗い。
「最下層に閉じこめているが、御陰で身動きがとれる状況ではない」
「……何故、貴方はここにいるんですか?」
バグは眉を寄せて聞いた。
「グザイさんは?シータさんは?……それに、カナ、まおさんは」
ロウはそれには返事をせず、かつかつと奥へと歩いていく。
戸惑って動けなくなるバグの側を、ユーカはするりとすり抜けてロウの後を追うようにして声をかける。
「待て。――お前は、逃げてここまできたのか」
ユーカの言葉に足を一度止め、逡巡するような沈黙の後、言う。
「俺は逃げ――生きてここにいる必要が有っただけだ」
そして再び足を向ける。
「何処へ行く」
「……最下層に案内する」
ロウは振り向きもせず応えて、ずるずると向こう側へと歩いていく。
ユーカは後ろにいるミチノリに目を向ける。
彼はこくりと頷いてすぐ彼女の側に寄る。
「ボクも行くよ。当然」
「ん……誰かがバグ氏とここに残って欲しいんだ」
「私じゃダメですか?」
ヴィッツの言葉にむ、と言葉を残して沈黙するユーカ。
「大丈夫だよ、心配性だなー♪こいつにどうにかできるような娘じゃないから」
「どうにかなる前に戻ってきてください」
二人の会話に思わず苦笑いして肩をすくめるバグ。
「あー。……ロウが手に負えない魔物なら興味あるから、私も降りたいんですけど」
バグにそう言われてますます困った顔をするユーカ。でも、結局口元を歪めて笑う。
「それでよければ行こうか。彼を見失いそうだし、論議していられない」
ユーカは颯爽とロウに向かい、歩き始めた。