魔王の世界征服日記
第92話 罪
咄嗟の判断で前に出たせいで、『猟犬』の目標が判らなくなっている。
勿論魔物の行動なんか、人間には理解できる範疇ではないのだが。
「倒す手段がなくても、このままじゃ全員やられてしまう」
今は執拗に彼に突撃を続ける『猟犬』だが、何時その牙が逸れるか判らない。
それを支える剣だって、床を暴れるうちはまだいい。何時折れるか、どれだけもつかわからない。
『猟犬』と出会って生き残った人間はあまりに少ない。『猟犬』の性質もよく判っていない、シコクでは最悪に分類される魔物だ。
「――逃げろ、と?」
だが、勿論逃げられる方向ではない。
第一――シータが眠っている。
グザイの言葉は疑問や確認ではなく――やはり、その裏に潜む非難が主張だった。
「『喰わせて』みれば、変わるかも知れない」
一瞬グザイの目が、ロウの目が、うずくまるカナに向けられる。
視線を感じてカナが顔を上げる。
「ひ」
ざざ、と足音を立てて、カナは二人から離れる。
その間もがぃんがぃんと剣が叩きつけられる音を立てている。
BGMと薄暗い背景のなか、二人が彼女を見つめる顔は、無表情。
「『猟犬』は入れなかったのではなく、『入る理由がなかった』?」
「そうとは限らない。入る理由はあったが、今まで完全に遮断されていた」
確かにカナは、ここの人間の中で唯一、意味を持たず存在する。
ただかくまわれただけ。いわば客分。
「ロウ、今何を言ったのか判っているな」
カナは蒼い顔をして、ずるずると(多分、腰が抜けたのだろう)床を棺桶の方へと這ってくる。
「当たり前だ。ただ論理的に考えただけだ」
「それは論理的とはいいませんな。短絡、と言うんでしょう」
グザイは口調を元に戻すと、カナを自分の側にひきよせる。
「大丈夫ですから」
そう言うと、彼は棺桶から一つのコードを引き出し、手元の小さな板に接続する。
その板には8×8列の同形状の四角いボタンが並んでいる。
それを手早く叩くと、部屋の端の方でぷしゅ、と音がした。
ぅおぉん、と独特の唸りが聞こえて、ロウもそちらを――良く知っている場所に目を向けた。
「緊急でサポート無しでもE.X.は起動させられますぞ。少なくとも姫が生きている間は」
「生きている間はだろうが!」
叫ぶ。
「貴様、何も知らないような顔をして、貴様、貴様――」
「選択の余地があるとでも。――はて、私は何も存じ上げませんが」
生きている間。
しれっと言った上に、彼は知らないと言う。
流石に頭に来た――我慢するつもりはない。
「この船の構造を総て知った上で、E.X.も操作できる癖にっ!知らねぇとは言わせねえ!」
判らない。もう判らない。
自分で何を言おうとしているのか、自分で理解する事が難しくなってきた。
本当は――いや、もう判っていたのかも知れない。
不可解で、理解できないシータという存在が居ることに、違和感がなくなり始めた頃から。
ただそれを認められず、ただここに居るというそれだけに徹してきて。
がんがんという金属板が鳴る音は未だ変わらず、体重をかけて押さえる切っ先が擦れる音が耳障りに響く。
「シータは何故っ……」
「もう遅い、と言った方が早いのですかな。ロウ、貴方も求めたのならば認めた方が良いでしょう」
認める?
何を?
「精霊というのは、彼女をただ喰らう為だけに存在するのだと。――だから、それに対抗する為のE.X.のサポートだと」
「……何を言いたい」
ふ、とグザイは馬鹿にしたように鼻を鳴らして笑う。
「貴方がE.X.を振るえば振るう程、シータが人間として生きられる時間が延びても、その代わり寿命が縮むという事実を受け入れたんだと」
が きん
――!
床に差した切っ先が欠けた。
そのまま体重をかけてやれば、それなりに止まっていただろうに――だが、僅かな弾みに剣は弾かれて、ロウは完全に体勢を崩す。
猟犬は、『音』を何もない空中に翻らせた。
それは常に闇の中にあるように、勿論音だけしかそこにはないが。
真っ直ぐ。
カナの方に向かって音は突き進んだ。
「いや、ぁああああああああああっ」
そして。
カナの目の前から頭の先を通って、猟犬は彼女を飛び越えた――別に見えたわけではないが。
「え」
彼女なんか目もくれず、ただ真っ直ぐにグザイに向けてそれは襲いかかっていた。
「ち」
真っ直ぐに向かってくる音の塊に、果たして対抗できるのか。
だがそれを確認する暇はない。振り向こうとした所を、無理矢理カナは腕を引っ張られて、驚いて顔を向ける。
何かの音が頭の後ろの方で鳴るから、だから、それを確認――いや、『グザイを助けたくて』、彼女を引きずるロウに叫ぶ。
「な、なにすんのやめて」
ロウは手加減するつもりはなかった。彼は振り向かず彼女を引きずっていた。
ここで振り向いたり加減なんかして出遅れたりしたら。
「ちょっと!離してよ!」
「五月蠅い」
ロウは、彼女を勢いを付けて引っ張る。
「あ痛っ、肩っ」
抜けるかと思った時には、体が浮いて部屋の入口を抜けていた。
ぷしゅ、といい加減聞き慣れた音が背後で響いて、廊下と部屋が隔絶された事を理解した。
同時に訪れる静寂。
「え」
唐突な気配の断絶。それは徹底的な否定のように彼女の背後に存在して。
もう関わらないという意志のように感じて。
「ちょ」
ロウは、廊下の端で蹲るカナを見て。
いや、カナは睨み付けられて、でかかった言葉を飲み込んでしまう。
「ここから先はお前次第だ。そのまま――猟犬に狩られてしまうつもりならそうしていろ」
それだけ言い残して、彼はくるりと背を向ける。
判る。
そんなことはカナだって理解できる。
「そんな、だってグザイさんが」
「お前はっ!」
ロウは足を止めた。
でも、それでも振り返らない。
「形のない物を、俺の剣で切れと言うのか!」
だから、彼女は彼を引き留めてはいけないというのか。
「だって!」
カナは、まだ床にぺたりとへたり込んだままで、その態勢のままで叫ぶ。
ロウに普通に話すことなどもう出来ないと思ったから。
今グザイと、『棺桶』のシータを見捨てて部屋を隔離して逃げる事が生き残る事だというのは判る。
彼が傭兵であったころの記憶と意識ではその判断は正しい。
生き残らなければならないのだから。
どれだけ戦場でしぶといか、は傭兵が傭兵として任務を果たす為に重要なのだから。
カナはそこまで考えられないし、そんな話は知らない。
ただグザイを、シータをあんな魔物の側に置いておきたくない――今勝てるはずの彼が、勝つ手段を捨てた事が。
捨てたのがどんな理由であれ、彼女を叫ばせていた。
「あんなに強いじゃない!どんな魔物でも倒せるんでしょ!なんで、なんであんな魔物ぐらいで逃げるの!」
多分本気で逃げる気なら、彼女の言葉で足を止める気はなかったのだろう。
「判るよ!勝てないからって、でも、だったらなんで私だけ助けたの!」
「――死にたい、っていうのか」
くるり、とロウが振り向く。
「選べるっていうのか?どうせ死ぬって判っているのにお前はっ!」
「それでもシータは感謝するんじゃないの!違う?!」
カナは両腕を振り回した。
髪の毛を振り乱して、泣き叫んだ。
「――感謝なんか――」
「なんで!どうしてっ!あれだけ、ロウの事好きだったはずなのにっ」
「俺が――」
足音もなく、躊躇いもなく、手元の震えさえなく彼は素早く懐からナイフを取り出し、一気に間合いを詰めてカナの喉元に突きつける。
カナは驚かなかった。驚いたのかも知れないが、彼を睨み付けて涙を浮かべたまま動かなかった。
「このままナイフを突きたててお前を殺したとして、お前は感謝するのか」
ちくりと肌を刺すナイフの感触。
肌一枚刃が沈み込んで、血が滲むのが判る。
でも怖くなかった。
自分より年上だろう男に見下ろされて、ナイフを突き立てられているというのに。
「判りもしないのに、知らない癖に」
「判らないし知らないよ。でも」
でも。
ロウはナイフを引いて、体を起こして、でもカナから目を離さない。
「――泣いてるのに」
ロウは沈黙している。
「そんなに嫌なんだったら、どうして、納得するまで頑張らなかったの」
納得、と聞いて彼はぎしりと歯ぎしりする。
どうやって納得すればいいのか。
頑張るというのはどういうことなのか。
戦力比を考慮して、素早く判断した本能を、理性が論理的に判断を下した事を否定することか。
違う。
今の戦場は、あの場所であの場面で彼は判っていたはずなのに。
今までの戦場と違う、生き残ってもなにも残らないと言うことは判っているはずなのに。
「俺は――」
復讐を果たす。
そのための、E.X.だったはず。
E.X.を失うからシータを失いたくなかったから?
何故か総て嘘――ただの屁理屈にしか思えなくて彼は、カナの言葉に返事を返せない。
「生き残らなければ」
復讐を果たせない?
もう、何が何だか判らなかった。
判っているのだろうか。理解できるのだろうか、この足下にへたり込んで、情けない顔で見上げる少女は。
知っているのだろうか。経験があるのだろうか、今確かに彼が感じている、不確かで不可解な不透明さを。
そんなはずはない。
「――本当に?」
なのに何故だろう。
こうやって目を見ているのが怖くなる程深く、奥を見透かすことが難しいほど彼女の瞳は澄んでいる。
「なんで今まで、今の今になるまで無視してきて、今ここで逃げたら」
逃げたら?
ロウは口の中だけでそれを反芻し。
そして、続きを聞くよりも早く、それを考えるよりも早く、扉が凄まじい音を立てて『斬り取られた』。
びくっとそれに驚いて立とうとしたカナに襲いかかるように扉が弾ける。
丸く、継ぎ目を無視して斬れた扉が、圧迫を受けて廊下に飛び出してきたのだ。
「!」
一瞬、体が彼女を庇おうと動いたのに、扉はそれをさせようとしなかった。
カナはバランスを崩したように後ろに逃げ、ロウとの間に扉は鋭く突き立った。
まるで二人を遮るように。
「か……」
おぉん うぉぉん おぉぉん
ロウの目の前に、『猟犬』が。
身構える必要はなかった。音は、彼に向けられてなかったのだから。
そして、彼の目の前で、天井がひとりでに引き裂け、奥の壁を伝い――
ば しゅ
猟犬が奇妙な音を立てた。
同時、悲鳴が上がった。
ぱん、と扉の向こうを舞う、影。
「カナっっっ!」
それは腕だった。