戻る

魔王の世界征服日記
第84話 脱出


「お、おい」
 ウィッシュの危惧はそれほど遅くなく、しかし意外な形で当たる事になった。
「五月蠅ぇな、あれだけ可愛い娘が全員男だなんて考えられるか?」
 彼女らが船倉に押し込められた直後の事。
 彼女達が乗っていたガレーシップを捜索していた海賊の手下は、典型的なちんぴらだった。
「だからって、お前、関係ないだろ」
 五人目の娘が船倉から発見された。
 まだ息はある。
「同じだろ?剥いてみれば判るし、今は親分も見てねぇ。ここだったら大丈夫だ」
 彼女はうつろな目をして、ちょこんとそこに座り込んでいた。
 白いワンピースを着込んだ、亜麻色の髪の毛の少女。
「船倉のあいつらをむいちまう方が良いだろ、腐っても娼婦だぜ」
「五月蠅ぇって言ってんだろ。見ろよ、この顔」
 くい、と顎に指をかけて顔を上に向かせる。
 表情は変わらない。自分が何をされているのか、今何が起こっているのか判っていないのだろう。
「いいじゃねぇか、出す前に『味見』して、ホントに女かどうか確かめてやるっての」
 どう見たって子供のその娘には会話の内容は判らないだろう。
 それにしたっておかしい。
 死んでいないようだが、生きているようにも見えない。
「……好きにしろ、階段で待っててやるから早くしろよ」
 同僚も呆れて、階段の上へと上っていった。
「へっへへ……」
 振り返ってそれを確認もせず、彼は少女の首元に指を差し込んだ。
 そのままワンピースを引き裂くつもりで。
 つもりで、引き下ろした。

  ぷ つん

 変な感触がした。やたらと無抵抗だった。そのまま手首を床面に叩きつけて、べちゃりと音を立てて激痛が走った。
 変な音がした。嫌な感触がした。有り得ない感覚が、男を襲った。
 だから。
 そこに少女は立っていた。虚ろな瞳で闇を見つめるようにして。
 先刻までの白いワンピースは、まるで何かをこぼしたような模様になっていて、素足は水に浸かっていた。
「……どこ……」
 ぺちゃ。
 船倉に水がたまっているのだから、放置すればきっとこの船は沈む。
「……ここは」
 感情のようなものはないようだった。
 ただ、機械的に彼女はその周辺を調べている。
 足下の水には目もくれず、ゆっくり階段に向かう。
「んー、諦めたか?」
 声がした。先刻聞いた声とは別の声だ。
 だがこの声も、少女には関係のない声だった。
 同時に声の主が姿を現したが、悲鳴を上げて背を向けたその男に、彼女は無慈悲に腕を振り下ろした。
 ひゅ、と。
 風を切る音と共に、男は縦に4つの塊になって崩れ。
 一つは勢いよく地面に転がり、階段を下に――彼女の側を通って、落ちていった。
「……ま……」
 上の方でばたばたと音がする。
 妙に騒がしい音がする。だから、彼女はやはり何の感慨もなく、たき火の明かりに誘われる夏の虫のように、その音に目掛けて歩き始めた。
 ぺたり、ぺたりと。
 闇から姿を現した少女は、まるでペンキを頭から被ったように真っ赤な恰好をしていた。
 顔、服、足下から――その虚ろな貌を彩る飛沫。
 ぺたり、ぺたり。
 どたどたという足音が、悲鳴を伴い一つづつ消えていく。
 一つ、二つ、三つ。
 彼女にとって残念だったのは、五つ目を数えたのと同時に、船が大きな音と同時に揺れた事だった。
 どん、どんと大きな破裂音と共に、木が無理矢理砕ける音が聞こえて、立っていられなくなった。
 めりめりという木を引き裂く音と、ぱちぱちという燃える音に、そして全身が感じる空気の伝える熱。
 それでもどんどんという鈍くて低い大きな音は消える事はなく、むしろ激しく彼女の周囲で鳴り響き、木が砕ける音がしている。
 ぐらり、と大きく足場が揺らぎ、ばしゃんという水音が聞こえた。
 少女は転がり、壁に叩きつけられたが――かなりの勢いで、鈍く肉を叩く音がしたというのに、平気な顔で壁に立つ。
 見れば壁――今は床に当たるのだが――の丸い窓が、水圧に耐えられなかったのか、衝撃のせいか判らないが、噴水のように水を吹いている。
 先刻まで響いていた轟きのような破裂音は消え、浸水する音だけが彼女の周りにあった。
 それは自然な閑けさであり、彼女以外の誰もが存在しない証拠でもあった。
 彼女はすと頭を上に向けて、見えないはずの穹を見上げる。
 同時に、ワンピースをすり抜けて彼女の背中から大きく、立ち上がる白い翼。
 鳥のように幾枚もの羽が見えるのに、その動きは鳥の羽ではなくは虫類のそれだ。
 ばさり、と一度大きく、まるで確かめるように羽ばたくと、ばさ、ばさと力強く飛翔を開始する。
「……帰る」
 少女は呟き、横向きになった階段から外へと向けて飛び去っていった。

 ガレーシップの構造は非常に単純である。
 要するに、バスタブのような構造を上下に分ける床板を敷けばいい。
 これを繋ぐ階段が数カ所にあり、この部分を船倉という。
 喫水よりも上の部分は通常船室になり、操舵室を一部含む。
 これは荷物をどうやって乗り降りさせるかという点に限って言えば利のない話かも知れない。
 だが船の構造状、上に重い物を載せると傾いてしまう。
 できれば重心は低い方が良い。この為、船倉は必ず一番底にくるようになっている。
 それに水に囲まれ、日光の影響を尤も受けにくいここはそれなりに保存が利く。
 湿気が多く腐りやすいが。しかも、ガレーは喫水から下が極端に小さな平底構造をしているため積載量は少ない。
 ともかくそう言う物なのだ。
「ちょっとばかり多くの魔力を使いますが」
 ウィッシュは説明を始めた。
「私は、この船底に、通れる位の穴を穿ちます。脆くしてやればすぐ海水が侵入してくるでしょうから」
 ユーカの手持ちの魔術ではそんな大がかりなことは出来ない。
 が、一応役立つものを一つだけ使える。
「わ、みっちゃん泳げない」
「私が呼吸を十分だけ止めても平気なようにしてやる」
 別に水中で呼吸できるようにするわけではないようだ。
「但し十分だぞ。ウィッシュ、穴を穿つのはどのくらいかかる?」
 んー。彼女は首をゆっくり傾けて、自分の頬を人差し指で支える。
「そうですねぇ……できる限り厚みが薄ければ良いんですけど、最短でいけば五分というところですか」
 錬金術というのは便利な代物ではない。簡単に金が作れるわけではない。
 無から有と言うわけでもない。
 しかし、物を変化させる事はさほど難しい事ではない。
「判った。合わせて準備する。脱出したら、できるかぎり船から離れて水上に出よう」
 船というのは隔離された空間である。
 強固(木製且その頑丈さの程度はたかが知れているとはいえども)に囲まれた彼女らは、それだけ見れば牢獄である。
 頑張らなくても海に囲まれた中では、穴を開けたところで普通は脱出できない。
 だから古来より海賊は捕らえたものを船倉に押し込める事にしている。
 尤もよっぽどのことがなければ、手かせ足かせ猿ぐつわぐらいは噛ませる物だ。
 しかし御陰で、船倉の自分達の荷物は簡単に探すことができたのでさっさと掌握している。
「……なんでこんなに余裕があるんでしょうか」
「ミチノリの名演技の御陰だ」
 にっと笑うユーカに、ミチノリは照れて顔を赤くする。
「誉められてないですよ」
「えぇえ?うそぉ」
 感じ方は当人次第だな。

 床一面に、白い粉で奇妙な図面を書き終わると、ウィッシュは何事か呟きながら、手元を返した。
 袖の内側にあるポケットに入れた、小さな小瓶が掌に収まる。
「準備」
 ウィッシュのその合図に、ユーカが呪文詠唱に入る。
 ウィッシュ・ミチノリ・ヴィッツ・彼女の順番で「呼吸停止許可」の術を使うのだ。
 効果は――名前の通り。
 魔術ではない。厳密には言霊を利用したもので、呼吸を止めていられるようにする(そのように体を騙す)ものだ。
 曰く、『世界中を旅するには、何があるか判らないからな』という事だったが、どういう経緯で修得したのかまでは教えてくれなかった。
 ぽん、とウィッシュの背を叩いて術を施す。
 同時に、ウィッシュは小瓶の中身をゆっくり床面の模様にぶちまけ始める。
 水に見えるそれは、彼女がつくっておいた触媒。
 できる限り簡単に、できる限り確実に反応を促進させて、思い通りの効果を得るために重要な材料。
 それが触媒で、魔術・錬金術を問わず術師は必ずこの知識を持っている。
 ユーカにとっては言霊使いというのは、この触媒の性質だけに特化した魔術だと考えている。
 『呼吸停止許可』の言霊は、そう言う意味で触媒とも言えるかも知れない。
 小瓶という束縛を離れ液体が宙を舞い、雫は無様に形を歪める。
 ウィッシュは左手を小刻みに踊らせながら、目を閉じて右手で印を組む。
 呪文詠唱。
 静かで、呟いているような謡い声。それが彼女の呪文の旋律。
 抑揚を付けて、素早く右手を切り、完全に瓶の中身をあけてしまうと、そのまま瓶を懐にしまう。
「『fragile』」
 ばきん、と甲高い音が響いた。
 ウィッシュは、困った顔でそのまま口元を歪めて。
「あれ?」
 苦笑した。
「思ったよりも早いですね」
「早いですねじゃありません、望姉。……もしかして海の水圧を考えてなかったとか」
 ヴィッツの指摘が終わる前に。
 どん。
 破片をまき散らして、そこに予定通りの大きさの穴が開いた。
「早くっ」
 ウィッシュは躊躇わず飛び込み、準備の終わっているミチノリが続く。
「あなたも」
 ぽん。
 ヴィッツの背を叩く。彼女は驚いて振り向き、ユーカの笑みに声を詰まらせる。
「ユーカさん、そんな」
「大丈夫」
 そう言って、懐から笛のような物を取り出してくわえると、ヴィッツを引っ張るようにして彼女も飛び込んだ。
――全く、予定より何分も早いだろう
 一瞬わざとだろうかと疑ったが、しかし今は詮無きこと。
 いざという時の備えを消耗するのは痛いが、それも準備さえしておけばよいだけのこと。
――お人好し過ぎるか
 あのタイミング、もし自分狙いだったとして。
 先にミチノリを行かせてある。ヴィッツと、自分。どちらに魔術を行使するか。
――……言うまでもないか
 逆に信頼されていると考えよう。
 ユーカは僅かに苦笑して、先を泳ぐヴィッツの後ろについた。
 なおどうでもいいが。
 意外とミチノリの泳ぎはさまになっていたことを付け加えておく。


Top Next Back index Library top