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魔王の世界征服日記
第77話 シータ(前編)


 怒ったのか。それとも、草臥れたのか。
 ロウはもう何も言わずに無言で自分の部屋へと退出した。
 ぱしゅんと、もう聞き慣れた音が響いて、そして静寂が訪れた。
「……それで、お名前は何にしますの?」
 ずず。
 もう何杯目か判らない紅茶をすすりながら、シータは言った。
「はひ?!」
 だから思わず上擦った声で、舌を巻いて噛みそうになりながら応える。
「No.2とか、24号とか」
「はい判りました決めますきめますーっ」
 慌てて応える少女を見て、グザイは苦笑しながらシータに言う。
「姫、あんまり虐めると可愛そうですぞ」
 彼の手元には、大きな湯飲みのようなマグがあり、中には真っ黒い液体が詰まっている。
「しかしそうでございます。名前がないままではこれから何かと不便ですから」
 そう言って、香ばしい臭いのする黒い液体をずず、とすする。
 シータの言葉を反芻しながら、むう、と腕を組んで右手を顎に当てる少女。
 自分の名前を決めろといわれても、これという名前なんか思いつくはずもない。
 でも決めなければ24号で決まってしまう。
「うーんうーん」
 それをのどを鳴らすようにして笑って、グザイは言った。
「そうですなぁ。どうせ仮の名。カナでよろしいのではございませんか」
 ずず。
 シータは無言。
 ふい、と彼が少女に目を向けると、少女はまるで忙しいように彼と、シータを見比べている。
「……気に入りまして?」
 伏せていた目を上げて、シータは少女に視線を向けた。
 それでやっと落ち着いたのか、少女は口元をほころばせてにっこりと笑った。
「うん!うん、それで、それがいいよ。カナ。そう呼んでね」
 カナの様子に、シータはぱちくりと瞬いて、カップを置いた。
「では、片付けて昼食の準備に参りましょう」
 グザイは何も言わず立ち上がり、シータも席を立つ。
「あ、私も手伝う。ね、手伝わせてよ」
 慌てて追いかけるように立ち上がったカナに、シータは目を細めて応えた。
「ええ。勿論」
 実際の所――お茶の用意をかたづけるのは難しくなかった。
 ポットを洗って、急須を洗うだけ。
 グザイが呑んでいたコーヒーは、彼が自分で片付けている。
「グザイ」
 手が空きそうになった彼に、シータが声をかける。
 すると、判っていたのか彼は無言でそのまま退出していく。
「あれ?」
「昼食の準備に、材料を取りに行って貰ったのですわ」
 ざっと水を流して、流しを綺麗に台拭きで拭き上げる。
「カナ、そっちからお皿を出して用意してくださる?……ここ、狭いから……」
 しーん。
 と、貌を上げる。
 じーん。
 両拳を自分の胸の前でぶるぶると震わせて、両目をうるうるさせて感動に打ち震えているカナ。
「……カナ」
 えっと。
 シータは思わずこめかみを揉みながら目を閉じる。
「お皿出してと言ったのですけれど、聞こえまして?」
「え?あ」
 感動に打ち震えていた彼女はもう一度目を見て言われて気が付く。
 くるりと後ろを向いて。
「あのー、どれを出すのー?」
「同じ形の、4枚組みになるものをお願いしますわ」
 んしょ、と戸棚を開けてみると、見事に大中小と同じ形で飾り気のないお皿が並ぶ。
 どれも欠けていない、4枚どころか何枚もある気がする。
 だから適当に、大きすぎないものを取り出すと取りあえずテーブルに置いた。
「お昼、なんにするの?」
「カナは何が好きなのかしら」
 とん、とガラス製のボウルを調理だなから降ろすと、シータはなにやら調味料らしきものを取り出して注ぎ込んだ。
 泡立て器をシンク下の棚から取り出すと、自分の顔の前ぐらいにあるやや高いボウルに突っ込んで。
 かしゃかしゃかしゃ。
「んーと……おいしいもの」
 露骨に眉を寄せて、困った貌になるとシータは振り向いた。
「誰だってそうですわ」
「いやあのえーと、だって、思いつかないから」
 不安定そうな恰好で、ちょっと背伸びしながら泡立てたボウル。多分ドレッシングなのだろう。
 彼女はそれを脇に置くと、コンロにフライパンを置いて火を入れる。
 手早く油を流し込み、換気扇を回す。
 ここまで――手慣れたもので、流れるような手つきで終わらせてしまう。
「料理、慣れてる」
 グザイはまだ来る気配がない。だから、二人には少し話す余裕がある。
「ええ。しばらくここに逗留されるのでしたら、最低限度カナも身につけて戴きますわ」
「え」
 えではない。シータはすぐに台所の脇に立ち、左手を腰に当てる。
 ちょいちょいと右手人差し指で手招きすると台所のあちこちをずびしと指さしながら説明を始める。
「ここに鍋とフライパンが各種そろってますわ。こちら調味料。ここを押せばコンロが動きますから、ここで火力を調節して」
 そこで気づいたように彼女に顔を向けて。
 勿論真顔のままで。
「そうですわ。お昼はカナに作ってもらいましょうか」
「勘弁してください」

 とは、言え。
 シータの邪魔をしながら料理の真似事を終えて、テーブルに料理を並べる。
 グザイは再び地下へ戻り、自分のコーヒーのための豆を取りに行った。
 シータは怒鳴らない。怒らない。ただ的確に歯に衣着せず淡々と事実を述べる。
「塩が多いですわ。水、あ、それだと焦げてしまいますから」
「もっと器用に指先を使って。フライパンは手首を返すように。こう、こうやって」
 だからだろう、シータの指導は見事に実り。
 というか。
 結局、シータは口出ししただけで、カナが殆ど作っていた。
「な、何だかきんちょうしてつかれたよー」
 ふにぃ、と奇妙な声を出して椅子にへたりこむ。
 フライパンを扱うのも、料理そのものが彼女にとっては初めてだ。
 当然だろう。初めては何もかも疲れる。
「いえ、なかなか筋はよろしいですわ。今後もよろしくお願いしますわ」
 シータは応えながらテーブルに料理を配置していく。
 これが結構センスがないと彩りなんかがうまくいかないものだが。
 カナの作った料理だというのに、何処かレストランにでも行ったかのような綺麗な食卓になる。
 あとは、ロウを呼びに行けばいい。でもまだ時間はある。
「ねー。シータ、聞いて良い?」
 取りあえず席に着いて、飲み物を回していく。
「何ですか」
「名前、妙にこだわってない?」
 ぴたりと。
 シータの手が止まった。カップを並べる彼女の視線がふいとカナに向けられる。
 すぐに言葉が紡がれると思っていたカナは、肩すかしを食らったように困った顔をする。
 だが、それでもシータはまだ、まるで凍り付いたように黙り込んでいる。
「……いやですか?」
 カナが口を開きかけた時、ようやく彼女は、それだけ言った。
 視線はカナから外れている。
 僅かにそれて、テーブルの隅を見つめているような感じだ。
 だから不自然だと、カナは思った。
 違和感――どこかシータが無理をしているような、何かを我慢しているようにも見えた。
「いやならいやだとはっきりおっしゃってください。すぐ代わりの名前を」
「それ」
 割り込むようにして、彼女の言葉を遮って。
 カナは、少しだけ鋭く言った。
「『名前』って、私のこと名前の話題でこだわってるじゃない」
「こ……」
 シータは能面の顔を、動揺で揺らせた。
 顔色は全く変わっていないし、口調にも変化がない。もし知らないヒトが見れば、ただその場に彼女が凍っているようにも見えただろう。
 だが、その仕草は会話としては明らかに不自然だ。
 まるで人形でも被っているかのような、そんな印象を与える。
 そして焦点の合っていなかった視線をゆっくりとカナに向け、シータは改めて落ち着いた口調で呟いた。
「名前は、大事ですの。私は『精霊使い』ですのよ」
 精霊使いが与え、得るモノは総て名前という姿形のない空気の密度における振動、音としてだけだ。
 だが精霊を従えるにはそれが必要であり充分。
「名前に拘りは……あって当然でして?ご理解戴けるかしら」
 論理は通る。非常に筋道はあってる。
 でも、それで先程の反応は説明できない。
「うん。わかるよ。説明されたもん。でも理解できない」
 カナは、ゆっくりとできる限り丁寧に言った。
「私は、海岸に居た私を助けてくれたことは感謝するけどさ。……まるで私が、これからここに住まなければいけないみたいに」
「できればそうしてもらいたいと思ってるんじゃないですかな、カナさん」
 いつの間にか。
 自分のマグを持ったグザイが戻ってきていた。カップにはコーヒー豆が満載している。
「本当はルール違反ではありますが、私が少しだけ説明します」


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