魔王の世界征服日記
第73話 シコクの剣士
暗闇、と呼ぶにはあまりに生々しい空間。
漆黒と呼ぶには色ははっきりしない。だから、彼はその闇に名前を与えなかった。
全ての色を飲み込んで、自分の掌すら見えないその場所で、彼は目を開けた。
変わるはずもなかった。
ただの暗闇だった。
ため息をつくと身体を起こし、右手を自分の胸に当てる。
冷たい感触と、自分の身体を感じてゆっくり首筋まで身体を探る。
異常はない。
彼はいつものようにベッドから足を降ろして、そう定められているように歩き、手を伸ばした。
かし、と空気の漏れるような音がして、彼の前の闇が切り取られ。
「おはよう、ロウ」
いつもの朝が彼に与えられた。
しかし、今朝はいつもとは違うモノが混じっていた。
「ひゃーっ、きゃーっ、やーっ」
四角い金属製の、一本脚のテーブルの向こうで料理をならべる少女だけではない。
もう一人少女が付け加えられていた。
「はだっはだっはだっはだっはだだだ」
「ええ、裸がどうかいたしましたの?」
真っ赤な顔で左手を自分の顔の前に、右手をぶんぶん振り回す少女は、見覚えはない。
「シータ、誰だそいつは」
年は――そう、13、14位か。
まだ父親以外の男の裸を見たことのない年かも知れない。
「姫が海岸で拾ってきましたの。多分この間の嵐で船が難破されたのかと思いまして」
じろり、と少女に視線を向けると、感慨なく彼――ロウは何の感慨もなく自分の服のある戸棚を開き、無造作に着込み始める。
「――何故断定しない」
「本人の記憶が殆どないんですわ。酸欠で壊れたのかもしれません」
淡々と怖ろしい事を言う二人。
「こわれたって、私、いきものなんだけど」
ついとシータは、少女に目を向けた。
酷く冷たい目。
暗い赤色をした瞳は、まるで病気なのか濁りを含んでいてどよんとしている。
感情を感じさせない色のない目。
シータの透明色のないウェーブのかかった髪の毛に合わせて、どこか不健康そうな印象を与える。
「そう――でしたわ。しかし、脳に酸素が行き渡らない場合、その部分が壊死してしまう事はよくあります」
彼女は静かに目を伏せる。
「せいぜいショック性の記憶喪失だろう。どうせ落ちる時か溺れたときにでも頭を打ち付けたんだろう」
ロウは完全に服を着込むと少女と、朝食を挟んで向き合う。
「グザイには見せたか」
「それは真っ先に。特に健康状態に異常はないそうですわ」
「ならおどかすなーっ」
少女は両腕を振り上げてがーっと叫ぶ。
また、冷たい目でシータが彼女を見る。
「……生き物でも壊れる事があると、言っておきたかったのですわ」
きゅとつぐむ口。
ロウは自分の椅子に座ると、カップをシータに差し出す。
「水」
かたん、とシータは立ち上がって部屋を出ていった。
ロウは一旦そこにカップをおくと、くるくると貌を変える少女の貌を見つめた。
彼の銀色の瞳は、どこか不自然な色を感じさせる。
生まれつきそんな色なのだろうが、少女は少なくとも始めて見る瞳だった。
短く刈り込まれた頭はどこかの軍隊にでも所属しているのだろうか。
「……で。何を憶えている」
「あ。その」
少女は迷った。
「目が醒めたら、海岸で。それより前って、妙にくらくて。そのー。名前も、じぶんがだれだかー」
普通記憶喪失ならもう少し不安になってもおかしくないと思うが。
間延びした話し方をする目の前の少女は、それがまるで人ごとのようにでも感じているのだろうか。
「不安じゃないのか?」
ロウは眉を寄せて聞いた。
「不安……うー、多分、私、もっと不安な事があるんだよ。なんだかそれが気になってるような気がするの」
でもそれも思い出せないけど、と応える。
ふん、と鼻で笑うとロウはサラダのレタスに手を伸ばした。
今日の朝食は、クロワッサンにサラダ、ベーコンエッグにブラックコーヒー。
いつも調達している、いつもの朝食だ。
「自分よりも優先するものがあるか。……潰れて泣いているよりましか」
彼はレタスをとると、その上にベーコンエッグを載せてそのままかじる。
机に上には4人分。
彼と、目の前の少女と、シータとグザイ。
珍客は食べ方が判らないのか、それとも遠慮しているのか困った貌で彼を見ているだけだ。
「先に食べてしまえ」
仕方がないから、彼はそれを飲み込むと言った。
「あーうー」
少女は何か困った声を上げて、ナイフとフォークを取り上げた。
右手にナイフ、左手にフォーク。
しかも裏側で。
「…………フォークだけで喰えるぞ」
びくっ。
何故か少女はデジャブを憶えて、おそるおそる食器をおくと、フォークを右手に持ち替えて料理を突き刺した。
何となく、そうすればモノがとれるのは判った。
「そだねー」
無意味にあははと笑いながら、少女は食事を始めた。
ここはシコクの中では危険地帯と呼ばれる、カガワに程なく近いトクシマである。
ロウとシータ、そしてグザイが生活しているのは古い軍事遺跡だった。
遺跡と言ってもその施設の殆どは生きていて、故障をしている部分を除けばまだ使い物になるシステムである。
その居住ブロックを利用して、彼らは生活していた。
食事は、新鮮な物を中で栽培できる。
それも殆ど自動でだ。
そんな新鮮な素材を刈り取って、グザイとシータで料理する。
そう言う生活リズムだった。
と言ったって、他の人間はいない。不自然な空間である。
この切り取られたような、閉鎖空間という世界。
無機質な三人が、繰り返す日常を造りだしている。
「……何だ」
ロウは既に朝食を終えた。
先程シータの持ってきた水を飲みながら一服しているところだ。
「んー。……えとね。……三人はかぞくなのかなー、あはは。あは」
きょときょととグザイとロウを見比べるシータ。
無視して水を飲むロウ。
ふむぅ、と考え込むグザイ。
「ちがいますわ」
どきっぱり。
「正しくない表現で御座いますな」
かっ。
「……るせえ」
三者三様、しかし全員一致した見解。
家族ではない。
少女には非常にそれが奇妙に思えた。
何故――しかし、それが引っかかる感触。
どくん、と心臓が跳ね上がって皮膚の上をぴりぴりとからしをぬりたくったような感覚に襲われる。
比喩が変だが、それは少女の感じたままの事だった。
「そか」
「いえもっともで御座います。姫、姫はどう思われますか」
グザイはにこやかに少女に応え、隣に座る自ら使える少女に視線を向ける。
少女は目だけを彼に向けた。
貌は相変わらず何の表情も映し出そうとしない。それとも――そもそも彼女は表情を持たないのかも知れない。
もっとも表情を浮かべるだけのグザイとさしたる差はないかも知れない。
「――家族だから、一緒にいなければならないとは思えませんわ」
少女の貌が驚きと、そして悲しみを浮かべる。
「だから、一緒にいようと思えるから家族だと思うのもおかしいと感じるのですわ」
彼女が貌を歪めるのを見たからだろうか。
不自然に早口に言うシータ。少し息を荒げて、顔を赤くする。
「一緒にいるから家族だとは姫は思いませんことよ」
つい。
じー。
じろり。
一斉に視線がロウに向かう。
ロウは気づいて、全員を見回して不機嫌そうな顔をする。
「……別に、どっちでもいいだろう。必要だから、一緒にいる。違うか」
「そうで御座いますなぁ。剣士殿、剣士殿のメンテナンスは私の担当。姫のお世話も私。姫がいなければ、剣士殿の腕も振るえない」
今度は少女に、グザイは視線を向ける。
「誰かが必要、誰かに必要とされるから一緒にいる。ただ『家族だから』では一緒に居られないものなのです」
「でもそれって、かぞくなんじゃないの」
…………。
少女の言葉に、やはり全員が黙り込んだ。
「あ、何か、変なこといったかな」
「……相当変だな」
がたん、と音を立てて立ち上がると、ロウはコップを叩きつけるようにテーブルに置いて、元来た部屋へと戻っていく。
「あ、その……」
ふしゅぃーん ぱしゅ
「お気になさる事は有りませんのよ。ロウはいつもあんな感じですから、気にしていたら胃に穴が開きますモノね」
シータが言うと、グザイは苦笑した。
「もう時間ですからな」
「時間?」
少女の言葉に、グザイは小さく二度頷き、合わせてシータは立ち上がった。
「ええ、『狩りの時間』ですわ」